28.12.05

プロジェクトXがやっとこさ終了。

今晩で、NHK番組プロジェクトXが終了する。
実にダメな番組だったが、なぜか人気が出て六年も続いたらしい。
熟年世代を自己肯定させ、彼らをいい気分にさせてくれる番組ではあったけど、そうじゃない世代にとってはひたすらキモい番組に思えたんだけどなあ。結局は、勝利者をネタに敗者が癒されるという構図があっただけではないのか。
もちろん、そういう必要性があったから、番組はウケたわけで、それを批判するつもりはまったくない。
では、なぜこの番組がダメなのか。

まず、映像として、何の魅力もないんだよね。
再現ドラマというもっとも安易な方法を多用するなど、何の工夫もない。
それに、最近のテレビはみんなそうだが、やたらに押しつけがましい。字幕はバンバン出すし、BGMは途切れない。おみゃあ、イチイチうるせえんだよっ。
試しに、この番組を画面を消して音だけを聞いてみればいい。
内容がすべてわかってしまうのだ。ナレーションが何でもしゃべりすぎなので、音だけで説明できる。テレビでラジオ番組されちゃ困るんです。

もっとも気になるのは、事実を単純化しすぎ。「視聴者のおめーら、今回はこういう感動で行くぞ!! 着いてきやがれ」という筋書きが実にミエミエ。スタジオに呼んだゲストを妙に「感動」方面に誘導しているのも気になる。ここまで単純化したら、ヤラセや捏造が起こって当たり前でしょうに。

あからさまにミエミエなのに、「この番組見て感動しないアンタは感情の欠落したヒネクレもの」なんて言われてしまうのが、また迷惑千万である。もっと精緻に見せてくれれば、感動もするさ。最初のオープニングから気合い入った「感動しろしろ光線」を浴びせかけらりゃ、こっちはぐったりしますって。

はあん、プロジェクトXってのは伝統芸能と思えばよいのだ。
つまり、ミエミエという仕掛けが最初からわかっていても(ロラン・バルトが文楽に対して述べた「仕掛けの露呈」)、その空気にまんまと順応して、感動ストーリーを受け入れることができるってわけだ。そこにはストーリーを精緻に構成することも、リアリズムも必要ない。背景は書き割りで充分、能のような最小限の所作でオッケー。見る人が、どーんと感情を移入してくれればいいんだから。いつのまにか、この番組はそうした器に成長していたのだった。
そして、自分としてはテレビにそういうもんを求めていないから、こんなふうにウダウダ文句たれちまうわけだ。

今晩の最終回はこれまでのダイジェスト版というカタチ。何の反省もなく、自らの番組を自画自賛しまくってる二人のアナのやり取りが寒い。当然、報道された捏造事件には触れないし。どうせなら、「不祥事で逆境に立つNHK職員の苦悩と、その再生と飛躍」の物語でもドカンとやってくれたら、そのメタな姿勢を存分に評価したのにな。

こんなわたくしも、なぜか最終回の放送をチラ見しながら、これを書いている。なぜかというと、今日は中島みゆき様がご出演なさるのである。文句タレタレなわたくしも、みゆき様の前にはヨレヨレだ。ひれ伏すのみ。ハハーッ。
今日は生放送だ。みゆき様のことだから、制作側の意図を越えたぶっちゃけ話でスタジオの空気を方向性をどっちらけにしてくれることを期待しつつ。

と思ったら、歌だけで終了かよお。トークはないんかい。
しかし、最近のニコラウス・アーノンクール顔負けのアーテキュレーションの変化が際立った演奏だ。ちょっとやりすぎの感もあるが、最後の最後をみゆき様の笑顔で締めくくるなんて、なんて汚いんだNHKは。
終わり良ければすべて良し、なんて言いたくなるじゃない?

27.12.05

「パリ・ルーヴル美術館の秘密」

パリには何度か行ったけれど、エッフェル塔もルーヴル美術館も未体験だったりする。ポンピドー・センターとかIRCAM、または地下鉄の乗り換えで迷って、地上に出たらそこが凱旋門だった、ぐらいの観光はしてるけど。
朝、ルーヴルは入り口の入場券を求める行列を見て、「今日はやめとこ」と素通りして、墓地やカタコンベに行くのが、わたしの標準的なパリの過ごし方だった。おかげで、パリの三大墓地で撮った墓写真ばかりたまってしまったわけなんだが。

先週末、前に買っておいたルーヴル美術館のドキュメンタリー映画DVDを見た。監督は最近ちょっと気になっている、ニコラ・フィリベール。この映画、ルーヴルでまったり過ごせそうなスケジュールは組めないかな、とマジ検討させてくれるに足る代物なのだった。

とにかく映像がすばらしいんでございますよ。
美術館に置かれているだけで、美術作品の魅力は半減すると思っていたわたしだが、うへへ、さすがルーヴルは違いますな、と感嘆してしまう。美術品がすっかりその場に溶け込んでいる様子が、滑稽なくらい徹底的に映像化されているのだ。
そして、そこで働く職員たちの日常が淡々と描かれている。一般人が想像するよりも美術品は荒っぽく扱われているし、地下の収蔵室での無造作に並べられた彫刻など、その日常的なところがやけに眩しい。美術品はわれわれにとって、非日常だけれども、職員たちには日常。そういう親和性がめっちゃ麗しい。

この映画は美術品への解説が一切ないので不満だ、という評をどこかで見たことがある。
なんちう愚かなことをおっしゃるんざますか。そーゆーのを求めるのなら、NHKの美術番組でも見てればよろしいんである。
解説もナレーションも、作品名のテロップも一切ない静謐なところが、この映画のすばらしいところなのだ。ドキュメンタリーなのにインタビューの類がまったくないのもいい。すべては映像が語ってくれてるんだから。

何でも解説してもらわないと困る人々がいる。
たとえば、美術展などで、絵を見る前に必ず作家名と作品名の書かれたキャプションをチェックしなければ気が済まない人である。少し離れたところで観察していると、キャプションと作品を見ている時間の比率が7:3ぐらいな人も少なくない。いったい何しに来ているのだろうと思う。これだったら、自宅で寝転がって出品目録でも読んでいたほうが、時間の節約になるだろうに。
クラシックの国内盤には必ず「過剰」な解説が付けられているし、文庫本を買うと解説が付く。それに、サッカーのテレビ中継には、やたらによく喋る実況と解説が付く。
はっきりいって、すべて余計である。
そんなもんがあると、「それが一体自分にとって何なのか」という考える余裕を奪ってしまう。

この映画、原題を直訳すると「ルーヴル村」でもなるはず。「パリ・ルーヴル美術館の秘密」という日本訳も、いかにも解説ありき的な発想なんだよなあ。ぐう。

25.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト2


神棚を有効に活用しているという満足感であろう、寝床についても寒さに打ち震える、ということが少なくなった。その効果は、一枚多く着こんだという物理的条件によるものだけではないはずだ。
そのおかげだろうか、先日、寒い小説とわたしが嘆いた鹿島田真希「ナンバーワン・コンストラクション」も、その寒さの原因がはっきりとわかれば、ぬくい心で読む進めることができた。
この小説の寒さの要因は、まず、登場人物が素朴で善良な人ばかりである、ということに尽きよう。おかげで、彼らのセリフが信じられないくらいに「寒い」。
また、語りの視点が一番上にあるから、登場人物の心情が読者に情報として極めて平等に与えられる。つまり、ウラがない平面的な感じ。あらゆるものに、平均して光があてられていて、陰影がとぼしい。蛍光灯の光のように、照度的には明るいのかもしれないが、温かみがない。
善良な人たちが織りなす、ウラがほとんどない世界(それはとてもシュールな世界にわたしはには思えた)が、その「冷たい」世界が、小説の構造を支えるテーマである「建築」と対応している、ということなのだろう。
小説のハナシはもういい。
向上心に突き動かされたわたしは、神棚をパワーアップさせることにした。
何か、暖かくなるような供え物を。
黄色い神体に合わせ、黄色いものをわたしは見つけた。

モンテディオ山形のアウェイ・ユニホームである。
しかも、胸スポンサーは「はえぬき」ときた。ブランド米である。
すばらしい。これを供物として捧げれば、豊饒が約束されるようなものだ。

戦後の農家の課題は、「あまりたくさん作らないようにする」ということだった。
たくさん作物が取れすぎると、値段が下がる。高値で売れないから、もうからない。
取れたものを市場に出さずに処分する、なんてこともあるように。

モンテディオ山形というチームも、このような構図と無縁とはいえぬ。
たとえば、順調に勝ち星を挙げると、チームはJ1に昇格してしまう。
J1に行きゃ運営費がぐーんと上がる。よって、運営会社(山形の場合、社団法人)は必死に頭下げてスポンサーを集めなければならなくなる。しかし、そんなバイタリティはもともとないし、手間はなるべく省きたい。赤字もなく、このままJ2で中位を保っていたほうが、自分たちが運営しやすいってわけだ。
だから、主力選手には慰留を求めずに放出し、必要なポジションの補強はあまりしないようにし向ける。つまり、勝ち星はほどほどに、というわけだ。
こんなことは噂にすぎないが、それが事実であってもおかしくないのが現在の山形ちゅうわけ。前監督もそんなフロントに愛想を尽かして出て行ったようだし。

つまり、あまり豊饒であっても、いけない。
ほどほどの豊饒を。腹八分目。別腹なんてありません。
この神棚の上にあるものは、そんな悲しい現実をも伝えてくれる。んがあぁ。

23.12.05

今週の困ったちゃん。

正直、困ったちゃんな演奏だった。
今週水曜の都響定期、指揮者ジャン・フルネの引退コンサートのことだ。
そのときの概要は「ぶらあぼ」のサイトに書いたけど、これはあくまでもニュースとしての記事。
そんで、オマエは個人的にどう感じたか、と聞かれれば、冒頭の「困ったちゃんな演奏だった」と答えるしかないのである。
そのコンサートは演奏会というよりも、完全にセレモニーでしかなったからである。
いや、コンサートとは一種のセレモニーなのであるから、今回はセレモニー的要素がなければ演奏そのものが存在しなかった、と言い換えたほうがいいかもしれないけど。

この日の演奏は録画され、DVD化されるという。その前にNHKの芸術劇場でも放送されるらしい。
やめたほうがいいのに、と思う。
演奏は記録したものでも楽しめることがあるが、セレモニーはその場に参列した者でないと、その意味を心から享受することはできない。
果たして、「フルネの引退コンサート」というセレモニーに立ち会っているという興奮を除外してこの演奏を聴いた場合、人々は何と感じるだろうか。
フルネの演奏を知らない人が視聴すれば、彼がこんな程度の指揮者だと思ってしまうだろう。
そういう演奏会だったのである。

だいたい、演奏開始前の場内アナウンス、「二度とないフルネ氏の引退公演を皆さんで楽しんでいただけますよう、ご協力をお願いします」って、いったい何なのよ。
「二度とない」のは、どのコンサートでも同じ。わたしはそのアナウンスを聞いて、ちょっと不安になった。演奏がボロボロだけど(すんまへんすんまへん)、記念すべきコンサートなのだから(みなさんはそのへんわかってるでしょ?)、文句言わずに楽しめよ(同じアホなら踊らにゃソンソン)、といっているように聞こえたからだ。

前半はまったくノレなかった。
ベルリオーズの《ローマの謝肉祭》は、直線的でいかにもフルネのアプローチだな、とは思ったけれど、あまりにもオーケストラの反応が良くない。リズムが眠そうで、これがフルネの演奏なのか、と悲しい気分になる。いかにもフルネらしい解釈だったから、その詰めの甘さが気になってしまうのである。

二曲目、伊藤恵をソリストに迎えたモーツァルトは、遅いだけのユルユルな演奏に終始。
どうもこの人のピアノが好きじゃない。以前、同じ組み合わせでラヴェルの協奏曲を聴いたことがあるが、第2楽章冒頭のソロをあまりにも無関心・無感動に弾いていたので、アレ? 何かあったのかしら、と心配になったものだ。この日も同様、ベッタリ音で、音と音のつながりを無視したように弾く。
もちろん、「表情なんかつけてやんないゼ」という表情さえない。そういうものは、もう「無私」の境地とお呼びして、崇め奉るしかないだろう。

休憩を挟んで、メイン・プログラムはブラームスの交響曲第2番。定評が高いショーソンとかルーセルの交響曲で締めて欲しかったのだけど、フルネは心底ドイツものが好きなのだ。
テンポは遅く、薄明の美が漂わせながら、曲が始まる。第1楽章展開部も終わるあたりから、オーケストラの音も立ってきて、やっと音楽が立体的になってくる。
問題は、オーケストラはフルネの棒で演奏していないということだ。振り間違いも多い。コンサートマスターの身振りが次第に大きくなるのがよくわかる。
音楽はぶくぶくと大きくなり、空中分解しそうになる不安定さに、わたしはドキドキしてしまったものだ。オーケストラも必死だったろう。

往年のフルネは、ノリが悪い都響をよく引っ張っていたものだ。インバルやベルティーニよりも相性が良かったと思う。
そういう指揮者の最後の演奏なのだから、オーケストラは必死こいて指揮者の解釈について行く可能性もあるんじゃないか、なんて甘い考えもあった(クルト・ザンデルリンクの引退コンサートのように)。しかし、それは彼らのここ何年かの演奏を聴いていれば、そんなことは起こらないのは明白だった。

ついて行かせるだけのモノをフルネはすでに失っていたからだ。
テンポは緩慢になり、彼の持ち前の造形感覚はフルネにはもう無かった。
今、オーケストラが必死こいてるのは、「指揮者の〝間違った〟解釈に、いかについていかないようにするか」という命題に対してなのだ。敬愛していた指揮者の最後の演奏会をつつがなく終わらせるためにも。

ブラームスの第4楽章は、演奏者、そして聴き手の様々な思いが交錯するような、「壮大」な音楽になった。
あーあB級だな、と思いながらも、オーケストラの明るい響きに浸っているうちに、何かしら暖かい感情が湧いてくるのだった。
これが、まさに「92歳の指揮者の最後の仕事」に接しているという、セレモニー効果なのだろう。
演奏直後には、不思議に心を動かされたものだ。
演奏そのものは評価できなかったとハッキリ言えるけれど、まんまとセレモニーのオーラにやられちまった、ということだ。そこが、「演奏」が聴きたかった自分としては「困ったちゃん」なんだよな。うぷっ。

20.12.05

トリエンナーレな日

先週土曜日は横浜トリエンナーレで一日を過ごす。
今年こそはパスポート購入して、少なくとも3回はぶらつきまくるぞうウリャア、なんて考えていたが、実際には最終日の一日前、閉幕間際に飛び込んじまうことになっちまった。
なにしろ、横浜という距離がビミョーでなんである。とくに、自転車族である自分にとっては。
都心ならホイホイと気軽に遊びに行けるし、水戸とか前橋ならば気合い入れて「この日は絶対にまみえるべし」という予定を立ててしまうのだが、中途半端な横浜だと、「今日はダルいしー、あんましエンジョイできないともったいしー、また別の日にするべし」なんてズルズルと行く日が遅延されてしまうのだ。

こういう場所は自分にとっては遊園地そのもの。
ゲートをくぐった瞬間の、なんともいえない自由な空気がたまらない(こういう空気を求めて、美大の学祭なんか行くと、妙な閉塞感にぐったりしてしまうけど)。
ガキを押しのけてでも、とにかく遊ぶ。コンセプチュアルなやつ大歓迎。余計な能書きがなければ、ないだけいい。
壊していい作品があれば必死になって叩いて踏みまくるし、気に入った映像があれば何十回も繰り返し見たりする。

堀尾貞治と現場芸術集団「空気」による百均絵画でも、オーダーにないやつをわざと注文してみるが、そばに居た関係者に「今日は忙しいから」とやんわりと断られてしまう。
ヴィンター&ホルベルトのブランコで横になって乗ったら、「危ないからやめて下さい」と係員に注意されてしまう。それにしても、ブランコっつうたら、八谷和彦のオーバー・ザ・レインボウをしみじみと思い出すなあ。

今回は「これは」とうならせ、そのアイディアに脱帽するのみならず嫉妬の念まで巻き起こし、地面に寝転がって足をバタバタさせてしまうようなものはなかったけれど、充分に遊べたので、満足。都心にもこういうの常設しとけよな、高層ビルばっかし建ててないでさ(とはいえ、常設すると、面白味は半減するのかも。やはり消えてなくなるはかなさが、気分良さげな空気を作ってるのだろう)。

すっかり暗くなったナカニワで野村誠を被写体としたビデオを二本観て、気持ち良く締め。
動物相手にコラボレーションを企てる野村さんは、やっぱすごかった。彼の鍵盤ハーモニカを聴いて、うっとりしてしまうライオンのシーンなんか、まさにオルフェウス状態。無性に彼のライヴに行きたくなった。

19.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト1



最近寒い、などという当たり前のことを書きたくなるほど、自分が今住んでいる家は寒い。
夜、ふとんのなかで本を読んでいると、息が白くなっているのがよくわかる。
読んでいるものが、新潮1月号の鹿島田真希の新作だったから、ますますカラダが芯から冷えこんでくる。

これも、やはり神棚(正しくは、「微妙に神を祀るのに適した棚」)に箱なんか置いているせいだ。
時期は師走。正月も近いぜ。
ということで、縁起物をそこに配置して進ぜよう。
わたしが保有している縁起物は、この黄色に塗りたくった正月のお飾りしかない。
これは、もう十年以上前になろうか、畏友芳賀徹(現在紙漉き職人)が郵送してきたものである。お飾りを黄色一色に塗ったものに、わたしの宛名を書き、切手を貼って年始代わりに送ってきたものだ。
当時、彼は常識では考えられないものをそのままの姿で郵送して送る、という芸術活動を行っていたから、こうしたヘンテコなものをわたしもよく受け取っていたのだった。

ある日、わたしが当時住んでいた鶯谷の集合住宅に帰ると、メールボックスの上に何か黄色いものが横たわっている。
まるでうち捨てられたゴミのように。
不審物、といってもいいだろう。
こんなものがパリの地下鉄のベンチの上に置いてあったら、間違いなく爆破される。駅構内が30分くらい閉鎖されてしまう。
わたしはゾクゾクとした予感とともに、そのゴミのようなものに手を伸ばし、それが芳賀徹からの贈り物であることを確認した。郵便局員はそれがポストに入らないので、ボックスの上に置いていったのだろう。
それから、4度も引っ越しをしたが、「お飾り」はいつもわたしの家に飾られていた。
表面には宛名が記してあり、そのまま表札として使いたくなるほどキュートなのだ。

今回は、それをしかるべき場所へご神体として祀ってみたらどうなるだろう、という実験である。
なかなかサマになる。暗がりのなかに、黄色が映える。
このように配置してみると、人のカタチに見えなくもない。
黄色く発色する人。まさしく、異星人信仰。
これは、古来のマレビト信仰に近いのかもしれない。
かつてはうち捨てられていた彼を拾って、暖かく迎える。
彼は災いを廃し、福を成し、そしてまた異星に飛び立っていく、というわけだ。
ありがたい。
これで、どんな寒い寝床で寒い小説を読んでも、平気なような気がしてくるのだから、信仰はやめられない。うはは。

16.12.05

実名はおいしい

犯罪被害者は実名発表を キャスターらが申し入れ(共同通信)
犯罪被害者の実名、匿名発表を警察の判断に委ねる政府の犯罪被害者等基本計画案をめぐり、鳥越俊太郎さんらテレビキャスターやジャーナリスト計21人が16日、この記述を削除、修正するよう求める緊急提言を内閣府に申し入れた。
 提言は、(1)実名発表がされないと犯罪の背景や事実確認の検証、調査が困難となり国民に真実が伝わらない(2)原因究明に支障が生じ、事件の再発防止に影響を与える(3)捜査ミスや怠慢隠しのために恣意(しい)的に使われる可能性がある−と指摘。


事件や事故の被害者の名前を容赦なく出して報道するのは、今や日本のメディアの特徴でもある。
報道機関にとっちゃ、事件や事故はお宝コンテンツだ。それをいかに扇情的に暴いて、ワイドショーに仕立て挙げ、視聴率を上げなければいけないか、ということに関係者は心血を注ぐ。
だから、被害者が匿名になってしまっては、ひじょうにヤバい。被害者が匿名だと、ドラマティックな物語作り(これを日本では報道と呼ぶ)ができなくなってしまうからである。

一方、視聴者からみれば、「ここで亡くなった人は、あなたとは関係のない人ですよ」という安心感を与えると同時に、「死んじゃったナントカさんは、本当に気の毒だなあ」という感情移入を促すために、実名報道はあるようなものである。
ヨーロッパの新聞のように「船が沈んで、男性乗組員(45歳)が死亡」程度の報道だと、「あら、この人、うちのイトコのナントカ君じゃないかしら」と不安に陥るものだ。
そして、そうでないことが確実になった場合でも、匿名であれば感情移入しにくくなる。被害者が「犬好きで親孝行の上、職場のみんなに愛されていた人」なんて情報がまるで入ってこなくなるからである。これじゃ、面白くもなんともない。

だから、記事にある(1)や(2)の理由は、まったく意味がない。匿名報道されたからといって、事件の検証に支障がでることはない。ただ、ニュースがワイドショーにならなくなって、送り手も受け手も旨味にありつけないだけである。
また、再発防止にも実名報道は役に立たない。視聴者を感情的に煽るだけで、逆に冷静な原因究明に水を差す。
確かに(3)だけは問題だけど、捜査ミスや怠慢隠しなんて今じゃ警察の枕詞みたいなもんじゃけ。

それにしても、CLトーナメントの組み合わせにはたまげた。チェルシーとバルサがまたぶつかっちゃうんだもん。うげげ。

神さまを祀ってみるプロジェクト序章



うちにはなぜか神棚のようなものがある。
単なる棚なのかもしれないが、微妙に神を祀るのに適した棚、と申し上げたほうがよかろう。
しかし、現在は箱が置かれているだけであり、その光景は殺伐たるものだ。
これでは、単なる棚にすぎない。
お前は、微妙に神を祀るのに適した棚を物置としてしか使えないのか、と嘲笑されても仕方がない。
さらに、この噂が広まって、やーい、神なき家に住んでるなんてダサーい、なんて近所のガキにバカにされたくない。
それに反応して「なにお、コンニャロ」なんて手を挙げてしまってはいけない。
「これでもくらえ」とばかりに、下半身を丸出し、なんてことをしてしまっては、もっといけない。
これは何とかしなければいけない。

神そのものを祀るのは、それなりに手続きが大変だ。
だから、それを表わす物質をそこに配置することにしよう。
でも、今日は眠いからもう寝よう。

15.12.05

不忍池で「萌え」について考えたこと

昨晩、寝床に着いてから今日〆切の原稿を一本思い出した。年末だ。
「チケット・クラシック」誌で連載している「訴」というページの原稿で、毎月コンサートのチラシを一枚取り上げ、それについて摩訶不思議なことを述べまくるという企画。
ネタとして集めていた手持ちのチラシにピンと来るものがなかったので、わらわらと資料を漁りに上野の文化会館までチャリでひとっ走りする。

ユリカモメに占領されつつある不忍池を走りながら、今回のテーマは「萌え」にしようと思った。
オタク文化の浸透により、アニメやゲームなどの二次元キャラクターなど現実に存在しない女性に胸をときめかすことなどを、最近は「萌え」と呼び表わすようになってきた。
しかし、そんな狭義な定義で、「萌え」をわかった気分でいるのは、ちいと浅薄すぎるのではないかぁ、なんてわたくしは思ってしまうのですよ。

まず、従来の文脈から切り離し、記号化するという認識力を人間は持っている。鑑賞者がその記号に自らの想像力を発揮し、新たに文脈を付与しちゃうことこそが、「萌え」の本質といえるんじゃないか。

つまり、日本文化は「萌え」そのものなのである。能の所作、浮世絵、そして昨今のアニメやゲームなど、日本が文化的に世界にアピールできたのは、「萌え」だけだといえるかもしれない。

クラシック音楽の文脈でいえば、朝比奈隆のブルックナー演奏は、まさに「萌え」だった。ブルックナーの演奏様式など従来の文脈から自由であり、しかも「これぞブルックナーっぽい」というキャラクター(それは一つの先入観=文化なのだが)を見事に具現したものだから。

非日常より日常が心の支え。

先日、サッカーのワールドカップ、グループリーグの組み合わせが発表された。
早速、ヨーロッパのメディアでは「ドイツのグループが楽すぎるんじゃね? 組み合わせ抽選にインチキがあったんじゃ?」と報じたところもある。
開催国が割と楽に戦えるグループに入るのは、前回の日韓の大会をみても明かなように、今では「当たり前」になりつつある。
真剣な戦いの場であるワールドカップに、そんな「操作」じみた抽選が行われるなんてトンデモねえぞ、と憤る人もいるだろう。
でも、ワールドカップなんだから仕方ないんじゃないの、とわたしは思う。
ワールドカップは大きくなりすぎちまった。
こんなに大きくなったものは、誰かが管理しなけば、興行として成り立たないもんだ。
多くの企業が関り、大金が動いているんだから、リスクを侵さぬよう万事順調に進めつつも、多くの人々の関心を集めるために、何らかの「操作」が必要になるってことだろう。
もちろん、「スポーツ=聖なるもの」という夢を人々から奪うことになるから、それがおおっぴらになることは、よっぽどのことがない限りありえないだろうが。

わたしもワールドカップは楽しみにしているが、アタマのどこかで、「しょせんお祭りでしょ」とも思っている。
サッカーはクラブ同士の対戦のほうが好きだし、ナショナルチームでも、EUROやアジアカップなど地域別のほうが白熱した試合を見せてくれるような気がする。
たとえば、同じオーケストラのコンサートに行くにしても、特別演奏会とか海外公演ではなく、なるべくなら地元での定期公演を聴きたいと思う。非日常より日常ってわけなんですな。

だから、わたしはFIFA主催の試合は「お祭り」として、楽しむことにしてる。それほどアツくはならない(とはいえ、前回大会はほぼ全試合観ちまったんだけどね)。
ワールドカップ開催中は、早くリーグ戦が始まらないかなあと、夏休みがなんとなく気が重いヒネくれた小学生のように過ごすんだろうな。その夏休みを充分に満喫しつつ、ね。

13.12.05

12月の南西ドイツ放送(SWR2)の聴きドコロ

久々に南西ドイツ放送のサイトにアクセスしてみたら、SWR2のライヴ・ストリーム放送が復活していた。こいつは妙に縁起が良い。自分用のメモに今月の聴き所をアップしてみる(時刻はすべて現地時間)。


●15日(木)
13:05
モーツァルト:2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ
ヴォルフガング・ホック(vn)ヴィリ・レーマン(vn)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

21:03
ラッヘンマン特集

●16日(金)
20:03
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ベンヤミン・シュミット(vn)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

●19日(月)
06:10
モーツァルト:交響曲第41番
ハンス・ツェンダー指揮南西ドイツ放送so

●20日(火)
00:05
ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》第3幕より
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

ヴォルフ:スケルツォとフィナーレ
フィッシャー=ディースカウ指揮シュトゥットガルト放送so


●22日(木)
05:03
ブルックナー:交響曲第9番
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送so

13:05
ビゼー:《アルルの女》組曲
井上道義指揮南西ドイツ放送so

●27日(火)
13:05
グリーク:《ペールギュント》組曲
スメタナ:モルダウ
ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送so

12.12.05

解題

このblogは、国内外に生息する蛇の生態を解明、主にヤマカガシの関東山岳地域における生息状態をレポートする、という趣旨で設けられたものでは、決してない。
では、なぜ、こういうタイトルになったのか??
もっとぐっと来ちゃうblogタイトル、たとえば「この醜悪さがたまらぬ"崖の下"日記」とか「ハツラツ!! ハアハア墓地紀行」とか、「Рай сдуру персоны」とか「この人を舐めよ」とかにすれば良かったのに、という声はあろう。

ある日の朝、目覚めとともに「蛇の道はうねうね」という言葉がアタマを去来した。あたしゃ、いったい何の夢を見ていたのか。フロイトに言わせりゃ「蛇にペニス」(なんて小説があったな。いや、ちょっと違うぞ)だし、いや、蛇は神の遣いであるからにして何らかのメッセージ性があるに違いねえ、などと妄想にふけってみたが、どうも落ち着かない。別に蛇の夢を見たわけではなく、言葉だけがニョロニョロとはい出て来ただけなのだから。
この言葉が気になって仕方なくなって、この言葉をタイトルにしたblogを立ち上げてしまった、というわけなのである。よって、このblogがどういうカタチで進行していくのか、わたしにはまったく憶測がつかない。
その言葉が「蛇の目ミシンは売れ売れ」でなかったことだけを、わたしは感謝しなければならないような気がするだけである。