14.1.06

「砂の女」の怖さ

図書館からビデオを借りてきて、映画「砂の女」を見ちまう。監督が勅使河原宏、武満徹が音楽を担当した、名作映画だ。岸田今日子の田舎くさい官能性もハマってる。安部公房の原作に忠実で、映画ならではの突飛な結末などはないものの、久々にこういうテイストの作品に接して、色々と考えさせられたもんだ。

最近、安部公房を読んでいる人が少ないような気がどこかでしていた。わたしが大学に入ったとき、「オレはコーボー・アベの研究をするんだ」と言っているヤツがいた。しかし、こういう学生は今はいないような気がする。映画を見てこの理由が、なんとなくわかった。

あらすじを書いておく。砂浜へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底の一軒家に閉じこめられる。そこには女が一人で住んでいて、家と村を守るため、脱出しようとする彼を引き留める。彼は脱出に失敗、失意を味わいながらも砂穴の生活を続ける。しかし、その生活に慣れていくうちに、新たな日常のヨロコビを発見し、「逃げるのはいつでもできるさ」と、 訪れた千載一遇の逃げるチャンスを自ら退ける。

女や村が男を砂穴から外に出さず、そこに同化させようという恐怖感は、この小説を初めて読んだ15年前には、わたしにとってまだまだアクチュアルであった(ムラに収束されること、家庭に組み込まれることに対して、今でも恐ろしさを感じちゃちゃうんですな)。だから、最後に主人公の「このまま、砂のなかで暮らしてもいいや」との開き直りには、まさに「敗北」という感想を持ったものだ。

しかし、今の世の中全体では、わたしが覚えたような恐怖が希薄になってきているように思える。砂穴でのまったりした幽閉生活が、面倒な「外」に出るよりも気楽になっている風潮が高まっているのではないか。因習で固められた単調な日常のほうが、モノゴトを深く考えずに済むし、人々はそちらのほうを「安定」という言葉に託して嘱望しているように思われる。これじゃあ、「砂の女」の意図した恐怖感がまるで伝わらねえ。安部公房がサスペンスあふれる筆致で描こうと、武満徹が恐ろしげな音楽をつけようと、今を生きている人たちは、「なんで、それが怖いの?」と思ってしまうだろう。

「敗北」することによって、明るい未来が待ってるんだわさ、という考えには同意する。でも、そのこと自体が「敗北」とも思われないことが、あたいにはちと怖いのさ。

8.1.06

【今年の初夢】刑務所が本だらけ

オウム説法集は「一般図書」 岐阜刑務所、持ち込み制限(朝日)
オウム真理教の説法集は宗教上の「経典」とは認めない——。そんな刑務所の判断に、服役中の元幹部が異議を唱えている。受刑者は通常、一般図書3冊に加え、宗教の経典や辞典などを別枠で持ち込める。だが、刑務所側は「オウムは宗教法人ではない」との理由で説法集を経典と認めていない。元幹部は「法人格の有無で差別するのは憲法違反だ」として、国に100万円の慰謝料などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

法人であるのか、そうでないのかによって、宗教であるかどうかが決められる。
まあ、明らかにおかしいのだけれど、お役所にとっては宗教かそうでないものに明確に線引きしなくちゃ、面倒でやってらんねえってことなんだろうな。そうでもしなきゃ、「完全自殺マニュアル」だの「アンチ・オイディプス」だの「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」だの、「これは自分にとって経典だもん」と言って何冊も本を持ち込みされかねん。刑務所が本だらけになってしまいかねない。

そういえば、オウム真理教が数々の事件を起こしたとき、「人を殺すオウム真理教は、宗教なんかじゃありません」なんて発言している人をよくテレビなどで見かけたものだ。ったく、この人は宗教を何だと思ってるんだろ、と若かりしころのわたくしは結構ムカついたものだ。人の心を落ち着かせるだとか、清掃作業などのボランティアしてますだとか、そういう無害そうなものだけを宗教と呼ぼうとする風潮は何とかならんかねと。

宗教とは、過激なもんじゃなくてはいかん。少なくても世俗の通念に反抗するものじゃなくちゃ、と思うのだが、最近ではそうではなくなってしまった。最初はキリスト教も仏教も、既製の認識を変えるという目的で興された、かなりヤバいものだったのにさ。
社会と宗教とは、当初は相容れないものだったのだけれど、だんだんと宗教が社会に適合していく歴史が、宗教史ってわけなんだろうな。もちろん、そうなったものはもう宗教ではなくなって、抜け殻みたいなもんなんだが。

オウム真理教がクローズアップされたとき、こいつは思いっきし宗教くせえのが現れたぞ、とわたしは興奮したものだが、ヤツらはあまりにもバカ正直に宗教路線を邁進してしまった。「人を殺してもオッケー」なんて調子こいて息巻くのは、あまりにも正攻法すぎて、新味さえない。世俗が力を持ちすぎている世界では、まったく愚かだ。何ら影響力を発揮せずに、みっともねえ集団で終わっちまうだけだ。
もっとチクチクと嫌らしく認識を変えていくような宗教が静々と現れないもんか。それまで、わたしくは大人しく正法眼蔵(ATOKは「消防現像」なんて変換しやがる。相変わらずバカですなあ)でも読んでることにすっべ。

もちろん、この「宗教」という言葉、そっくりそのまま「芸術」と読み替えてもいいわけで。