31.12.07

我が愛しの「スプレもん」

昨日ネットのニュースを見ていたら、「年賀状がもう届いた」みたいな記事があった。おお、民営化したので、速めの配達を心掛けるようになったのか、こりゃ感心なことでござるなあと思ってはみたものの、件の記事を読んでみれば、単なる従業員のミスとのことであった。そりゃそうか。でも、元旦前に年賀状が届くのは、相手にインパクトを与える意味では決して悪くない、と思うのだが、いかがだろう。なにしろ、年を越せば、「あけましておめでとう」云々はゲップが出るほど目や耳にするわけで、この言葉がインフレ気味になる前に使っておくのは、なかなか良いアイディアなのではなかろうか。先んずれば人を制す。そういうわけで、わたしも昨日初詣を済ましてきたばかりだ(これは嘘)。

わたしの場合、年賀状を書くという風習を断ち切って10年近く経つ。郵政が国営だったときは、年賀状なんて体の良い税金みたいなもんだと思っていたから、節税に励まなければならない貧しいわたしには到底容認できる風習ではなかった。とはいえ、民営化された今年も、やはり年賀状を書く動機は見つからぬ。用があるときにのみ、連絡を取ればいいと思う怠惰な性分なので。

なにしろ、12月は忙しいのである。まず年末進行というのがある。これは致し方ない。あとは、J2の入れ替え戦とか、クラブ・ワールドカップ(トヨタ・カップ)などというものもある。そして、なによりも忙しさに輪をかけるのが、高専ロボコンの放映が12月にまとめて行われることに尽きよう。まず、深夜放送で地区予選を二週間近くかけて見る。アイディア倒れ、あるいは一歩も動かぬロボットの悲哀をとくと堪能できるのは地区予選だけの愉しみなのである。気になるロボットはメモっておいて、これが国技館でどう活躍するのかドキドキしながら、全国大会の放送日を待つ。年によっては、飲み会が続いて地区予選を全部見るのは不可能なときもあるのだが(単行本一冊を12月の三週間で書き下ろした年は、何も見られなかった)。

今年の全国大会は、強豪の宅間電波高専(サッカーでいうとブラジルみたいな安定感がある)を決勝で破った和歌山高専に胸が熱くなった。さらに、昨日の深夜には、高専ロボコン20周年ということでこれまでの名勝負を振り返る特別番組まで放送された。あまりにもの懐かしさ。

この番組では、わたしをロボコンという競技に熱中させるキッカケともなった大分高専の「スプレもん」も紹介された。この年、1991年の競技は「ホットタワー」。二つのスポットの上に、赤チームは赤い箱、青チームは青い箱を積み上げる。より多くの箱を積み上げたロボットが勝ちだが、相手の色の箱の上に、自分の色の箱を置けばそのスポットを獲得できるというルールもあった。それぞれ、速度や箱を積み上げる性能を競ったわけだが、この「スプレもん」は、相手が積み上げた箱の上を覆って、スプレーを噴射、箱の色を塗り替えて、相手の箱を自分のものにしてしまうという荒行をやってのけたのである。当時、初めてこれを見たとき、「こんなのもアリなのか」と少なからぬショックを受けたものだった。さらに、ああ、人生だって色々なやり方があるのだなあ、と若い自分は深い感動を覚えたものだった。

「スプレもん」が登場する動画(WMP)。始まって1分50秒ぐらいに「スプレもん」が出てくる。残念ながら、このロボットは、地区予選で敗退した。

mms://vodt.kbs.co.kr/vod/robocon/nhk04.asf

26.12.07

ノーメンのある生活


最近、能面を買うてみた。というのも、今の仕事部屋にはこういうものが必要ではないかと考えたからだ。

人の気配があると、それが気になってあまり仕事が捗らない性分である。しかし、本当に何の人気もないと、つい気が弛んでしまい、やはり仕事が捗らぬ。

だから、部屋に能面を据えてみたのだ。確かに、その面からは、何らかの気配を感じる。クールな視線を受ける。

それは物質に過ぎない、ということははっきりとわかっている。そうであってもさえ、誰かの視線を浴びているという感覚から抜け切れない意識もある。

このちょっとした緊張感がいい。程よく空いた電車のなかで、読書が進むように。

経年劣化で眉はほとんど消えかかっている。近寄ると塗料の乾燥による細かいヒビが入っている。骨董趣味はないので、詳しい由来はわからない。ただ、全体のバランスの良さに惚れて購入したのだった。

さらに、効用があったのは、これをじっと見つめていると、自分がどのような精神状態にあるのか、よくわかるということである。気分がいいと能面はかすかに笑みを浮かべているように見え、怒っているときは目つきが鋭くなる。

能面、とくに、この小面はフラットな表情になるように作られている。角度や光の具合、そして、それを観た人の心理状態によって微細に変化するように設計されているわけである。無表情を表わすのに「能面のような」などという形容を使う人は、そういうことがわかっていない。能面ほど表情豊かなものはないのだから。

朝起きて、今自分はどのような精神状態にあるのだろうか、などと鏡代わりにも使えてしまう。自分自身を外在化させるというわけだ。ノーメンのある生活、オススメである。

25.12.07

憧れの家畜ちゃん化計画。

「2016年に東京オリンピックを」という掲示が町のおちこちに張り巡らせてありゃんして、あからさまに不愉快である。本当にオリンピックを東京に誘致して喜ばしいと思う人がどれほどおるのであろうか。政治家、土建屋、スポーツ関係者、マスコミ以外で。嫌みをいっているわけでなく、どうして喜ばしいのか、その理由をば聞いてみたいものだと真剣に思ってしまう今日この頃。

余計な施設、無駄な道路がバンバン出来るのも不愉快だが、もっと困るのは、起こるはずもないテロの対策で昨今は薄気味悪い思いをしているというのに、オリンピックなどという厄介なものがやってきおったら、ますます警備強化、警察がデカい顔して通行人の持ち物検査なんかやらかしおって(サミットのときは酷いものだったしのう)、そんなことをやられると、一つおいらも権力を混乱させちゃえとムクムクとスケベ心沸き立ち、使い古した黒いカバンに公序良俗に反するものをわんさと詰め込み、あえて奴らの網に引っかかり、まあ平和な日本、いきなり銃殺されることもないだろうから、そこであくまでも穏健にバトルの一発でもかましてやろうと、余計かつ無駄なことを考えてしまうので、こういう取り締まりはないほうが、わたしは気持ち安らかに暮らせるのである。だから、オリンピック誘致は絶対反対。

とはいえ、人々が管理されたがっている、という最近の風潮は止まることはないのだろう。子供に居場所を伝える携帯電話を持たせているというし。子供のときから管理されることに慣れきってしまい、管理されてないと不安になるような人格を作ってしまえということなのだろう。まあ、そっちのほうが安心だし、モノを考えなくていいから楽だし。みーんな仲良く相互監視社会。なーんだか、ハッピーではござらぬか。さあさ、みーんな家畜になっちゃえ。

というわけで、先日イメージ・フォーラムで「いのちの食べかた」を見てきたのだった。大量で計画的に製造される食材の現場を淡々と映したドキュメンタリー映画だ。ドイツ人の若い監督は、いかに自然をコントロールしているのかという問題をかなりクールに描いてみせる。たとえば、豚が屠殺され、肉になるまでの行程がオートメーション化している様子が何の思い入れもなく映し出される。屠殺シーンは、ベルトコンベアーで流れてきた豚が、機械のなかに入ると、ぐったりとして出てくるだけ。前に中国かどこかの豚の屠殺映像を見たことがあるが、それはもう、凄惨そのものだった。豚の断末魔が耳について離れなかったものだ。この、おそらくドイツで撮影された屠殺場には、そんなドラマティックなものは一切ない。ひたすらクールでスマート。

音楽もナレーションも字幕も、そしてセリフさえない、映像と状況音だけで勝負しちゃえという思い切ったこの作品、まさに映像作品の鏡。音楽でこってりと味付け、ナレーションでギッチリと方向付けし、くどいばかりに字幕で強調、単純化するバカバカ映像ばかり跋扈する現在、このような視覚を研ぎすまされる映像に接すると、家に帰っても、しばらくテレビ番組などチンケすぎて見たくなくなっちまう。

食肉だけを扱った作品でもない。トマトや白アスパラの収穫や、岩塩の発掘など、かなり多岐に渡った食材の現場が映し出され、その都度、唐突に画面は切り替わる。そして、いずれも撮影アングルは練りに練られている。ちょっと狙い過ぎといわんばかりに。

どこか切なく、可笑しくも悲しくもあり、ゾゾと後ろめたい気持ちも起こり、それでも、シュールな光景に魅入っててしまう。このようにあらゆる感情が同時に沸き上がってしまうのは、「生きるための死」という矛盾がそこに描かれているからだろう。

何よりも、食材がどのように生産されているんでございましょう、などというお勉強映像でも、現場ではこんな凄惨なことが行われています! 的な告発ノリもないのが気に入った。エピソードを連ねただけのニュートラルな制作姿勢。ただ、「いのちの食べかた」という日本語タイトルは気になる。原題は「OUR DAILY BREAD(Unser taglich Brot)」、つまり「日々の糧」と訳されるべきなのに、「いのち」という言葉が入ることにより、生命倫理的な意味合いが強くなった。ま、「日々の糧」という聖書の言葉を使わないことで、家畜は人間様に食べられるために神が創造したものというキリスト教的なスタンスから距離を置きたい、との判断だったのかもしれないけれど。

ニュートラルといっても、観る者にある種の強い感情をもたらす場面もある。たとえば、ラスト直前の肉牛の屠殺シーン。狭いゲージに押し込められた牛に、作業員が電極を押し付け、感電死させる。最初の牛は「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに感電させられてしまうが、二番目の牛は自らの運命を悟ってしまったのか、ガタガタと震え出し、電極を押し付けられるのを激しく拒否する。かなりショックなシーンである。

そこで思ったのだ。これが、牛ではなく人間であった場合、つまり、あたくしたちが捕まって殺されてしまうとしたら……管理されることに慣れた人間は、最初の牛のように「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに殺されてしまうのではないか。つぶらな瞳で何の疑いも抱かず。そして、相互監視社会にイマイチ乗り切れないあたくしみてえにちょっぴしネジクれた考えを持った人間はガタガタ震えながら、恐怖と憎悪に満ちた表情のまま殺されてしまうのだろう。うぎゃあ。どちらが幸せかといえば、前者なのかもしれん。だから家畜化だって悪くない。東京オリンピックはそのための一つの布石なのだろう。うんうん、きっとそうなのだろう。お上のやり方に間違えはねえからなあ……。

14.12.07

ハーディングの第九?

昨日の昼過ぎのことでおじゃった。来年のダニエル・ハーディングの東フィルとのチケットをそろそろ何とかすべえ、とネットをぐるぐると回っていたら、とんでもない情報に出くわした。

12月13日(木)「聖響×第九」公演に出演予定の指揮者 金聖響は急病(急性腰痛症)のため、本人の友人でもある指揮者 ダニエル・ハーディング氏が出演いたします。
http://www.imxca.com/information/071213.html

ハーディングのCDライナーノーツに金聖響が文章を寄せていたりして、二人は仲良しということは知っていたが、何とも豪華な代役だぜ。オシムの代表監督の後任にモウリーニョが来るような、いや、それよりもずっとサプライズな贅沢三昧。金聖響はナマ演奏を聴いたことがないから何の判断しようもないのだが、にしたって、こりゃあ金がプラチナに化けたって以上のことはあるよなあ。

この指揮者変更のお知らせが出たのは、まさしく演奏会当日。チケットを買った少なくない人が、ハーディングが指揮台に昇ることを知らずに会場に駆けつけることになり、来てみてビックリ、なんちゅう果報者め。おいらもそんな果報にありつきたいものよのう。

んで、困った。この日はまったりと映像を見る日だったのである。天才なんだか変態なんだかもう混濁してしまうわっちゅう魅力に満ちた大木裕之の上映会、しかもゲストの帯谷有理(90年代、日本でもっともエキサイティングな映画を撮ったのはこの人だと思う)の新作短編も観れるという、個人的には激烈な魅力に満ちたイベントがあったのだ。ハーディングか、帯谷有理か。あたし孤独なパーシバル。時間が経過するにつれ、二者択一を迫る山下奉文の怒号が聞こえてきそうで、クラクラしちゃうの。

時刻は18時。この時間に家を出なければ、ハーディングの演奏会場であるミューザ川崎まで間に合わなくなってしまう。わたしはまだうじうじと悩んでいたのである。ハーディングはろくに練習つける時間も無かったろうし、新日フィルとは初顔合わせだし、まあ、彼の演奏にはならないかもしれない、けれど、彼は本番一発でオーケストラをノセることも出来るだろうし、オーケストラのほうも初顔合わせということで必要以上に刺激的な演奏をしてくれるかもしれねえ、などと思考が堂々巡り、映像イベントの会場、neoneo坐はおもろい企画が多いけれど、長時間あの椅子に座るのも疲れるなあ、などと本当にどうでもいいことまで脳髄を駆け回った末、やはりふんぎりがつかぬのである。こんなに迷うなら、いっそどちらも行かずに家で無言でネギでも刻んでいようか、コンニャロめ、などと破滅的かつ義理堅いことさえ考えてしまいそうになる。

新しく出た情報に従え。ふと、そんな言葉が過った。ハーディングの情報は、何時間か前に偶然に発見した新しい情報。これは啓示みたいなもんではないか。今回は、もうそれに決まり。猛然と支度して、川崎に向かったのであった。

本当にハーディングは舞台に出てくるのか。オーケストラの音合わせが終わったとき、そんな不安に襲われた。だいたい、なぜこんな時期にハーディングは日本にいたのだろう。もちろん、今月も来月も日本での本番はないから、ヨーロッパから急に呼んだのか。それにしては急すぎる。まさか、クライバーみたいに熱海あたりでお忍び湯けむり紀行中だったのか。謎だ。少なくとも、この日、同時刻、演奏会場の隣の市で行われている、クラブ・ワールドカップと称した大会で、浦和レッズと戦う相手が、もしもマンチェスター・ユナイテッドであったなら、こんな素敵な代役は無かったに違いなかろう。ハーディングは、マンチェスター・ユナイテッドの熱烈なサポーターなのだ。

不安は打ち消された。舞台に出てきたこの若造の音楽は、まさしくハーディングそのものだったからだ。オーケストラはさすがに水っぽさは否めねえ。先日、郡山市立美術館の食堂で食べたカレーを思い出してしまう。けれども、激しい身振りで、その水っぽい音に微妙な表情を与え、グイグイと引っ張っていくハーディング。第一楽章の展開部のフーガを強調するなど、弦楽器のアンサンブルの精緻さは見事じゃけん。第二楽章のスケルツォ主題には効果的にテヌートを取り入れ、第三楽章は対旋律をクローズアップさせることを忘れない。演奏にノメリ込んでいるうち、オーケストラの水っぽさが瑞々しいという印象に変わっていく。最終楽章は、すばらしいバランスを保ちながら、抜群のノリで締めくくった。12月の日本でこんなに退屈しない第九演奏を聴いたのは、生まれて初めてかもしれない。

兄貴分であるラトルと比べられるハーディング。両者も相当強引なことをやりまくる。しかし、ラトルの音楽からは「やってこませ」などというわざとらしさ(これはこれで楽しいのではあるが)が聴かれるのに対し、ハーディングはもっと爛漫にそれをこなしてしまう。自分のキャリアにはちっとも加算されない代役を引き受けてしまうような彼らしさが現れていた演奏でもあった。電車に大量のレッズ・サポが乗り込んでくる前にササと早足で会場を後にした。

30.10.07

秋深しマドリー沈めむ少年の歌


今年のリーガ・エスパニョーラの国際中継はスペイン国内の権利元の揉め事から、それを放送するwowowはかなり不思議な中継を強いられているようだ。とくに、今節のマドリー対ラコルニーャ戦は、試合直後の七分間の映像無し(この時間帯にお互いに得点シーンが一つずつあるのに)、しかも画質はネットみたいだし、音声は現地からの電話回線で、という呆れ返るほどの低クオリティにのけぞった。まあ、放送されるだけマシ、ということかい。

番組冒頭、wowowのアナウンサーが、この世も終わり、といった絶望的な表情で、本当に申し訳なさそうに何度も何度も謝る。これがたまらなく不愉快である。謝罪という定型的なパフォーマンスが自己保身のためにしか思えないわたしは、こんなことをするくらいなら、この状況をもっと楽しめるように誘導するのがプロの仕事だろ、と思ってしまうので、涙目で謝罪されても苛々が増すだけなのである。

放送がこのようなカタチになったのは、そのアナウンサーはもちろんのこと、放送局にも直接の非はない。だから、そんな謝罪はまったく無意味なのだ。いっそのこと、「こんなことになっちまって、俺も怒ってるんだコンニャロ」と、スタジオで物を投げつけるなど、ブチ切れしてもらったほうが、はるかに爽快だ。それを偉そうに馬鹿丁寧に謝るもんだから、ムッとしてしまうのである。

この中継を担当するのが、倉敷保雄アナウンサーだったら、かなり印象は変わったろう、と勝手に妄想してみる。彼なら、軽く謝罪した上で、視聴者と同じ目線で「この状況をいかに面白おかしく乗り切ろうか」ということを真剣に考え、軽快にそれを実行してくれそうな気がするからだ。こういうマトモな人は、あまりテレビ業界にはいない。

電話回線を経由した現地の観衆のざわめきは、水中で一斉に泡立つような音に聴こえる。
まるでシュトックハウゼンの電子音楽「少年の歌」みたいなカンジ? このシュールなサッカー中継、わたしは「うけけ」と結構楽しんでしまったのだけど。マドリーが逆転などせずに、そのまま、ぶくぶくと水中に沈んでしまえば、もっと良かったのにぃ。

テレビ・ネタをも一つ。

大和証券のCMに指揮者の西本智美が出ているのだけど、そんなことはどうでもよく、そのロケ地に使われている場所にドキリとした。
北ドイツ放送響の本拠地ハンブルクのムジーク・ハレなのだ。あの狭そうなエントランスも映っているし、インタビューのシーンはホワイエで撮影されているようだ。うーん懐かしいぞ。

CMはここ↓
大和証券CM「ファのない世界」

17.10.07

ぶらりモーゼス

15日。ぶらりと上野でベルリン国立歌劇場の《モーゼとアロン》を見てくる。指揮界の黄金の仔牛、バレンボイムの空疎な指揮でも、いや、とりあえず指揮技術があって、外面の部分をキチンと鳴らせる人であれば、シェーンベルクの音楽は自ずと響いてくれるものなのである。何よりも、オーケストラの自発性を引き出し、こういうプログラムを日本に持ってくる政治力があるバレンボイムには十分に感謝せにゃならんて。

ムスバッハの演出は、いつもながらのスタイリッシュなのだが、時代を超えた様式を求めていながら、どうも古くさい感じがどこからか臭ってくるのだ。たとえ、その「マトリックス」とか「スター・ウォーズ」とか「サダム・フセイン」などの要素を取り除いたとしても、だ。その古くささを感じられたところに、おそらく、彼の持ち味が隠されているのであろう。完全にスタイリッシュを極めるということなら、何をやってもまったく同じのロバート・ウィルソンみたいになっちゃうしねえ(そして、ウィルソンのそんな金太郎飴なところが、割りとツボだったりするわな)。

今出ているチケット・クラシック誌で、ムスバッハとコンヴィチュニーの特集をしている。この二人の演出家の舞台写真を一斉に並べているのだが、その違いがあまりにも際立っていて興味深く眺めてしまった。ムスバッハが手がけた舞台のははるかに見映えが良い。とても色彩にこだわっているし、想像力をかき立てられる舞台なのである。一方、コンヴィチュニーは、何だかゴチャゴチャしてて、小汚い。劇場で見たことがあるものはそうではないにしても、スチル写真だけでは少しもイマジネーションがわかないのだ。ところが、実際に舞台に接すると、その印象はまるっきり逆転してしまう。

やはり第二幕、最後のモーゼの嘆きの印象は強烈だった。このあとにシェーンベルクが第三幕を書けなくなった理由もわかろうというもの(形式と内容が分離したあと待っているのは、山岳ベース事件とかあさま山荘事件みたいなもんばかりだし)。すっかり気分を良くして帰る。

26.9.07

ボケ満喫中

昼間、死ぬように眠くなる。時差ボケなのである。
海外にちょこっと行って帰ってきたのは十日ほど前なのだが、いまだ治らぬ。
数年前までは、時差ボケという意味さえわからなかった。生活時間不規則、寝たり起きたり超フレキシブル、というのが当たり前だったので、年がら年中ボケっぱなし、時差ボケならぬボケボケで通してきたのだ。

ところが、昨年、久々に欧州便で帰ってきたとき、どうも昼間眠くて、夜(といっても、朝に近かったりするのだが)寝つきが悪いことに気がついた。これが、例の時差ボケなのか、と興奮した覚えがある。人間、何か発見すると、ちょっとは嬉しいものだ。

そのときの旅行中、指揮者のアーノンクールとのインタビューで時差ボケについて彼の見解を聞いてしまったのがいけなかったのかもしれない(彼は時差ボケが酷くて、日本にはしばらく来れなかったのだ)。あのとき、彼の時差ボケが伝染ったのかも。俺の時差ボケはアーノンクール仕込みなんだぞぅ、とアホなファンタジーにはまってみたり。

冷静に考えれば、我も老いたり、ということなのだろうと、鼻毛に白いものが交じったとき以来の感慨にふける。まあ、以前よりは生活パターンも決まってきたようにも思えるし。

まだぐるぐる眠いのだけど、今回は人生二度目の時差ボケ、新鮮な気持ちで楽しもうと、意味もなく前向き。

18.9.07

僕はこの本を買うことに決めた?

「僕はパパを殺すことに決めた」一部図書館で閲覧を制限(魚拓)

なかなか、きな臭いことになってまいりました。供述調書が流出したという点についてはさておき、公立図書館の馬鹿対策の馬鹿っぷりがだんだんと板についてきた、という感じでしょうか。

「問題になっている本なので、決着がついてから出そう」ではなく、「問題になっている本なので、その問題についてとくと考えてもらおう」と、なぜならないのか。まあ、「問題」なんて、最初から存在しないことにしちゃえば、問題解決だもんね、楽勝楽勝。

出版社はウハウハですな。こういう扱いをされると、「どりゃ、拙者もかくなるまでに話題になっておる書物をば購うてみようかの」という気を起させるもん。このニュース自体が、すげー購買心をそそられる宣伝になっちゃってる。

かくいうあたくしも、先月アマゾンでこっそり購入してたりする(供述調書の文体について、ちょっとお勉強しようと思ったので)。忙しゅうて、まだ読んでないので、内容についてはパス。

1.5.07

ツって見た風景とその前後

ヤホーイと階段を最上段まで駆け上がったその瞬間、いきなり足をツる。その場で動けなくなる俺。スコアが目に入る。「湘南0—1山形」。ウホホ、先取点入れてやがる。彫像のように硬直したままで、安堵。

平塚競技場には、悲しい思い出しかない。グダグダな試合をやった上、勝ち点をベルマーレ様に献上。こんなことばかり。今回も家を出る前、したたかに迷った。家にこもってテレビ中継でも見たほうが良いのかと。しかし、なんという快晴。平塚までエッサッサと自転車漕いで、暮れたスタジアムでビール飲みながら、好調モンテディオ山形の得点をウホーイと満喫できれば、これぞスペシャルな連休気分。走れ。自分のなにかが命令した。

ちょうど横浜のZAIMでは「アジアの新★現代美術!!」をやっているので、休憩がてら立ち寄る。もっとチマチマした空間かと思ったら、ここ結構広いんね。空間の贅沢さがたたってか、作品によってはそれ自体がチマチマして見えるのが傷。

最上階での「脳波VS母乳」と題されたトークショーが終わりかけたところに遭遇。「脳波と母乳を飛ばし合って、締めにしましょう」ということになり、「脳波は飛ばせませんよ」と逃げ腰の脳波派中ザワヒデキ目がけ、母乳派の増山麗奈が至近距離から母乳を発射。ド・シュールな光景。ナマ母乳を頭から浴びた中ザワさん、ハンカチを取り出し、眼鏡をせっせと拭きながら、たたずむ様子がかなりキュート。

横浜で時間を食ってしまった。慌ててチャリに飛び乗って、平塚まで向かう。キックオフまであと二時間を切っている。ちょっとギリギリだったが、戸塚駅の踏み切りの長さで、時間に間に合わない可能性が濃厚になる。横浜新道に合流してからは、夕暮れの富士山の方角を目指して飛ばしまくったが、茅ケ崎ですでに試合開始の19時。

よろよろとスタジアムに駆け込んだときは、前半30分を過ぎていた。ツった足を引きずりながら、ようやく席に滑り込む。ハーフタイムには、昼から何も食ってないあたくしの五臓六腑を満たすために売店に赴くが、食い物はほぼ売りきれ。ビールとスナック菓子を買う。こいつがディナー。やはり、平塚はむごすぎますわ。

ところが、後半はモンテディオ山形のゴール・ラッシュ。ボールが面白いくらいに左右に散らされ、エグいクロスがベルマーレのゴール前にポンポン上がる。たまんねえ。あれよあれよと点数が加わり、0—4の勝利。久しぶりだよ、おっかさん。こんな一方的な試合見ちゃうのはよぉ。

小躍り気分でスタジアムを出る。気がついたら、ここはどこ?状態。帰りは鎌倉あたりまで自転車で勝手にウィニング・ランして、そこから電車で東京まで帰ろうかと考えていたのだった。さすがに来た道をチャリチャリ戻ったのでは、テレビのバルセロナ戦生中継に間に合わぬ。

目の前に「厚木まで10キロ」という標識。これならば小田急線に乗れると、さっさか裏道に入って厚木を目指す。無事、急行が動いている時間帯に本厚木駅に到着。夜間、土地勘まるでないところで、平気で裏道に入ってしまえる自分の裏道&旧道感覚を自画自賛。新宿から再び走って、無事にその日のうちに帰宅。デザートはビアー。

3.4.07

フッキと異教徒の踊り。

日曜。今シーズン初めてのモンテディオ山形の試合を見物しに味スタへ参拝。5分遅刻で入場したあと、いきなりレオナルドがフッキを引っ張ってPKの現場に遭遇。なんてこと。フッキに一発決められ、すでに心のなかは曇天。

後半はモンテ側に攻撃のカタチがたくさん作れて、こりゃあイケるかもと思わせつつも、やはり決定力がメロメロ。ヴェルディは、策がないのか策なのか、攻めさせ最後に刈り取る流れ。んもう、今シーズンでもっともいい攻めのカタチを見せつつも(山形の波状攻撃を見たのは、久々じゃった)、結局はPKで取られた1点でヴェルディに敗れ、トホホと自転車をさいたま方面に走らせる。今日はこれから「信仰の現場」へと向かうのだ。

調布から三鷹→田無→新座→志木と走って、さいたま市への道のりは、案外遠かった。荒川の橋の上で両足をほぼ同時にツッて悶絶。調布までゲーム開始に間に合うように甲州街道を飛ばしまくった祟りじゃ。ふと、首筋に手を回すと、異様に砂っぽい。黄砂浴びまくり。

なんとか18時にさいたまスーパーアリーナへ。今晩の夜の出し物は「Berryz工房」のコンサートなのである。Berryz工房というユニットは最近まで知らなかった。ハロプロという言葉さえ知らなかったのだ。最近知り合ったS君が、このユニットの篤実な信奉者で「一度詣でましょう」と、俺のような不心得者を誘ってくれたのである。有り難く、得難い経験である。

あたくしは、アイドルとか美少女系とかには、生涯一度もハマったことがない。いつも身の回りのイカれてキュートなお姉さんにばかり気を取られておって、そんな精神的余裕がないのである。でも、篤い信仰心を持つことはいいことだ。こういう体験がないから、自分は精神的成長が足りないのではないかなどと疑ってみたりもする。というわけで、この手のライヴは初めてだった。

オープニング直前に会場入りしてみると、やはり、なかなかすごい光景なのであった。「連中」が騒いおる。「連中」とは、世界各地に点在するコアなサポーターたちのことを自分が勝手に呼び表わしたものだ。でも、ここいらの連中は、ビールを飲みまくって強烈なブーイングかますわけでもなく、ゲバラとかドクロの旗を振り回してもない。服装も、レッズみたいに赤一色というわけでもなく、黄色とかピンクとか明るい色が多い。

サッカーのユニホームの人も多い。オランダ代表ユニに「MOMOKO」などとメンバーの名前がマーキングしてある。語感からして、まるでアフリカ系の移民みたい。技術と身体能力高そう。左サイドに置きたいアタッカーだ。一方、ブラジル代表ユニに「RISAKO」。現地、ポルトガル語だと「ヒサコ」になる(ホナウジーニョ、ヒバウドみたいに)。これが「ヒサッコ」だとブラジル人にリアルでいそう。右サイドバックで使いたい。

異教徒のなかにポーンと放り込まれて、彼らの激しい動きとステージ上のご神体との連繋などにひたすら見入っていた。隣のS君は、ほかの誰もやっていないような身体芸を披露している。これはオタ芸と呼ばれるものらしい。なかなか呪術的なオーラを感じさせた。アイドルのコンサートは、一遍上人の時宗と同じ構造を持っていると誰かが書いてたが、まさにそれを実感。時宗から阿国歌舞伎を経て、ニッポンの近代アイドルのステージは確立されたのだろう。

面白いと思ったのは、メンバーの挨拶で「自分は中学○年生」などと、必ず学年を付けることだった。S君によれば、「4月だから、そういう挨拶になるのでしょう」とのこと。そうか、4月は進級、入学のシーズンなのかと、何年も味わったことのない季節感をじんわりと覚える。そういえば、歌詞にも「模擬試験」などの単語がたくさん出てくる。妙に日常的な「学校生活」の部分が持ち込まれていることが不思議な感じ。

つんくの作った歌は、歌詞にコラージュ的なものが多いという印象があったけれど、スローテンポの曲になると、いかにもなストーリー性を伴った陳腐なものになる。しかも、「青春」という言葉がたくさん出てくる。「青春」って、まんまオヤジの語彙じゃん。いや、歌っている彼女らにしてみれば、オトナにコントロールされているのだから、そういうコンセプトをあえて露出するっていう方法もアリなのか。それにしても、さいたまスーパーアリーナのスピーカー音声はひどかった。全部割れまくってますよ。それでも、文句の一つも言わず、歌って踊ってるみなさんはすごい。見よ、これが信仰者の姿だ。こういうことがクラシック系の演奏会であれば、主催者が血祭りに上げられてるぞ。ひー。

終わったあとのアリーナの通路は、「連中」に囲まれて芋洗い状態。S君が「いつもアウシュヴィッツ状態なんですよ」と気の効いたことを言う。おかげで、手続き上の間違いでユダヤ人たちと一緒に収容所に連れて来られたような気分になる。こういうとき、人間の理性はどう働いて、どうやって自分はこの窮地を切り抜けられるのか、しかし自分だけ解放されるのは人道的にどうなのだろうか、いや、自分だけでも生き残ってこの惨状を後世に訴えなければならぬ、などというドラマティックな思考がぐるぐると頭を廻る。

31.3.07

荒ぶったもの。

最近のあたくしのアイドルは、篠原聡子さんである。
彼女のことを知ったのは、先日、広島の原爆ドームに不法侵入した女性が逮捕されたというニュースからであった。「いったい、なんなんだ、この人は」とネットでご芳名を検索したら、わりと有名な方なのであった。

ジャニーズの滝沢くんが自分をストーカーしていると妄想し、さまざまなアクションを起こしていたのだという。その数々の業績は各自ネットで検索していただくとして、わたしが感銘を受けたのは、この二つの音声ファイルである。

http://eastinside.org/~soulsonicforce/cgi-bin/upload/source/up1457.wma

http://eastinside.org/~soulsonicforce/cgi-bin/upload/source/up1458.wma

最初のほうは、篠原さんがジャニーズ事務所に乗り込んで、社員と直談判する様子を、篠原さん本人が録音して、自分のブログにアップしたものである。
その下のリンクは、その直談判したあとに、事務所の近所の乃木神社で器物損壊を働いた後、警察を呼べと神社関係者に詰め寄っているところの実況録音である。
いずれも尺が長いし、強烈なので、うかうか気軽に聴いてしまうと、痛い目に合うのは必至だが、これがなかなか考えさせられるものであった。

一つの劇作品として、わたしは聴いた。荒ぶる超アウトローが、市民社会の不思議さを浮き出させるコンセプトを持った作品として。
ジャニーズ事務所の対応は、いかにも「会社」的であり、いかなるコミュニケーションも取ってやんないぞという魂胆がミエミエである。もちろん、篠原さんのような人と満足できるコミュニケーションを取るのは絶対的に困難なのだけれど、彼女のような媒介があると、そうした魂胆が怖いくらいに明瞭に見えてくるのである。

乃木神社のシーンは、まさに、お能の世界だ。神域に笹を手にした狂女が入ってくる。「三井寺」や「賀茂物狂」などの四番目物を観能するとき、わたしはきっと篠原さんのこの金切り声を思い出し、その恐怖に打ち震えるだろう。

激高したかと思えば、妙に論理的なことをまくしたてる瞬間がある。わたしだけの経験かもしれぬが、こういうのは女性ピアニストの演奏に多い。その特徴は、表現の切り替えが鮮やかなほどに際立っていることだ。決して、直前のアーティキュレーションを引きずらない。感嘆はすれど、ちょっと苦手なタイプではある。

妄想の世界は、決して論理的能力が弱い人が作り出すものではない。逆に、強い論理志向が、強度な妄想の世界を作り上げてしまうことが多いものだ。確実にいえるのは、多くの人が日常的に安住している「妄想」と、一見強烈そうな篠原さんの「妄想」とは、思っているほど違いはないということだ。それが一番恐怖なんじゃないのかなあ。

28.2.07

たまにはさっき終わったばかりのコンサートの感想を駆け足で書いてみる。

トッパン・ホールでロジェ・ムラロを聴いてくる。ムラロといえば、メシアンが有名だけど、あたくしはラヴェル演奏のとことんマニエリなところが気に入っておって、このピアニストは是非ナマで聴いてみたいもんじゃのうと思っていたところなのだった。

CDを聴いた感じ、「小男の小業師」といった印象だったのだけど、舞台に出てきたムラロはけっこうデカい。しかもガンガン弾きまくる。このときのわたしの気持ちを喩えるならば、ラシン・サンタンデールと対戦するチームのディフェンダーが、試合前ミーティングでムニティス(1m67cm)をマークしろと監督から指示されていたのに、キックオフ直後にジキッチ(2m02cm)のマン・マークに変更になった、という感じである(リーガ・エスパニョーラを知らないと、すんごくわかりにくい喩えだな)。

前半のリスト、アルベニスは、ムラロの強い当たりに、ちょっと翻弄された。ハーフタイムのあとの後半はショパン。結果からいうと、これがとても面白かったのである。

録音で聴いてもわかるのだけど、彼は音の重なる部分で、工夫を凝らして立体的な音響をこさえる。バリバリにやかましいだけではなく、小技がピリリと効いておるのである。しかも、滑舌がはっきりしてるパキパキ系。

音色は多彩だし、表現の幅も広い。しかし、それらをキチンと統一するものがないのだ。心地よい流れには絶対にならない。つまり、完全にマニエリスティックな演奏なのだ。そして、その過剰なマニエリさに、わたしは充分満足したのだった。闇鍋パーティーでのワクワク感とでも言おうか。ただ、心底真面目な聴き手にとっては耐え難いものがあったかもねえ。友人の一人がソナタのあとに退席してしまう姿も目撃したし。

19.2.07

梅と赤痢

雨が晴れた日曜の午後は図書館に行きたくなる。いや、雨が振っていようと、木曜だろうと図書館に行きたくなる気持ちは変わらないし、家に買って未読の本がごろごろしてんのに、そういう誘惑の場に足を運びたくなるのは、ほとんど病気だといってよい。

ちょうど梅の季節なのだった。桜より梅派のあたくしとしましては、こういう時期は、家々の庭先の梅を見てそぞろありく。こんな目的があって眺めると、東京の家々の庭先には意外と梅の木があることがわかる。こうやって、家々を覗き込みながら散歩するのは、ほぼ不審者。観梅で通報されれば、そりゃ本望ぢゃて。

帰ってきて、図書館から借りてきた「赤痢」のCDを聴く。地元の図書館にこういう貴重な資料が置いてあるのは心強い。なにしろ、このアルバムの一曲目は「夢見るオマンコ」だぜ。税金の納めがいがあるってもんだ。パンクならではのシンプルさが、実にいい曲。

高校時代に、「あぶらだこ」やら「D-DAY」とか「原爆オナニーズ」、そして「赤痢」をやたらに薦める友人がいた。自分もクラシックっていうか、ヘンな現代曲ばかり聴いていたので、お互いにマイナー好みとして共通する何かがあったのだろう。ただ、当時のわたしはロックも歌謡曲もからきし聴いてなかったので、こういうものがポピュラー音楽の本道だと思っていたものだった。そういうものはお茶の水のジャニスのインディーズ・コーナーに固めて置いてある代物、ということに気づいたのは、かなり後になってからである。

「赤痢」を聴いていたら、妙に懐かしくうれしい気分になり、今でもこういうCDを買えるのかなと思って、アマゾンで検索してみたら、二枚組のベスト盤が現役で出ている。ラッキーと思ってカートに放り込もうとしたら、レビューにとんでもないことが書かれている。

「放送禁止用語にノイズが被せられ、消されている」だと。また言葉狩りかよ。レコード会社が自主規制したがる、くだらなさについては理解しといてあげよう(オマエラに何を期待するもんか)。でも、よくこんなむごい処置にも関らずアーティストのほうが発売許可したもんだな。そう思うと、急速にさみしい気分になったのであった。

13.2.07

東京砂漠といえば、内山田洋とクール・ファイブ。



じゃが、あたくしだって、東京都内で砂漠を走りたいやん。そんなわけで、伊豆大島行ってきたのだった。今回はチャリ仲間のTさん、Kさん、Dさんのご相伴に預かることに。昨年大島に行ったときは、目の前まで行ったのに突風のあまり砂漠紀行を断念、午後はまるまる温泉にしけこんでしまったので、ちょうど砂漠への思いが募っていたところ。

今回のお供はMTBのブードゥー子ちゃん。昔は北国のオフロードをガンガンに飛ばし、レースにも出場していた男気たっぷりなフレームらしいのだけど、おいらの手に渡ってからは、スリック・タイヤを履かせられ、青山とか深川あたりをチャラチャラと流すだけの軟派な第二の人生を送っていたところだった。でも、昔取った杵柄、お蔵入りしていたブロック・タイヤに換装してやると、シャキッとしたお姿に生まれ変わる。

土曜夜に竹芝桟橋発、もちろん船内では激しく飲み食いしたため、完全に抜けきれぬアルコールと寝不足のまま、翌朝、大島岡田港に放り出される。それでもメシ、メシとメンバーを促して食堂がある元町港まで急行。何か罰が当たるくらい天気がよろしい。暖冬のため、いつもなら椿の全盛期なのだが、すでに終わっていて、所々で桜が開花してたりする。9時に飛行機で合流するDさんを大島空港まで出迎え、全員で路面ガタボコなサンセット・パーム・ラインを南下する。

再び元町港で大島一周道路を走る他のメンバーと別れ、単独で御神火スカイラインをよちよちと登る。とりあえず、この急勾配の登りが無ければ、三原山の砂漠に到達しないので、ただただライヒの《砂漠の音楽》を脳内にリフレインさせながらペダルを漕ぐ。びぎーん、まいふれんず。

休憩もそこそこ、御神火茶屋から表砂漠に入る。火山灰と砂の入り交じった道をよろよろと走る。火山灰のほうは固まっているけど、砂が深い場所は完全にタイヤを取られてしまうのだ。人生、こんなふうによろけてばかりいると、いつしか穴に落ちて、砂の女と一緒に生活しちゃう羽目に陥るのかなあなどと、安部公房的世界をアタマのどこかで息づかせつつ。

ふと、止まってあたりを見渡す。三原山周辺の砂漠のすばらしいことは、なんといっても人がいないところ。奥に踏み入ると、遠くから飛行機や鳥の声がする以外、何の物音もしない。恐ろしく静謐。目に入るのは、荒涼とした地面と山々、それを覆うように流れる雲、遠くに浮かぶ海。それでも、ここは東京都。

今回は椿まつりの真っ最中で、島内の観光スポットには人が溢れているのに、ここを通行する人はほとんど誰もいない。観光ガイドには、「月のような光景」などと書かれているけど、表砂漠のほうは、だだっ広い「賽の河原」という感じ。どちらも肉眼で見てないので、何ともいえぬが(恐山の賽の河原は実にしょぼかった。あそこはテーマパークですもん)。

裏砂漠に入ってメインの海に向かってダウンヒル。もうスピード出しまくり。ってか、ブレーキ全然効かねえ。滑るように落ちる。ときどきリア・タイヤが砂に埋もれて左右に振られるけど、止まるには転ぶしかない。いやもう、これはエグ楽しいずら。

集合時間にはまだ合間があるので、大島公園へ。椿まつり真っ最中なので、次々と観光客が押し寄せてる。砂漠の静謐から、なんとも俗な世界に降りてきた。賽の河原をうろついた、つまり臨死体験をしたような、ちと悟りめいた顔つきで、この公園のお目当てである動物園に行く。この動物園、入場無料だけあって、かなりシンプルなのだけど、そのへんが好き。二時間はたっぷり楽しめる(ラマの往復運動だけで30分くらい見てたし)。夜はロッジに宿泊。疲れ切って20時には就寝。

次の日は、皆であじさいレインボーラインを昇って、大島観光ホテルへ。そこから、また一人で砂漠へ。二日続けて砂漠に行けるなんて、なんてすばらしい日々。ただ、この日は、コース取りを間違えたのか、最後は地図にない道なき道を走る。ほとんどダカール・ラリー二輪車部門の世界。砂丘でスタックしまくり。4WDの轍を辿りつつ、なんとか大島一周道路まで戻る。

帰りの船では、中学生とその家族が島を離れるらしく、部活動らしき仲間が大挙して押し寄せ、歌うやら、エールを送るやら、ここまでやられては功なり名なり挙げねば島へ戻って来れませんってくらいに盛大に送り出されている。船が出ると、その見送りの中学生たちが船影を追って一斉に埠頭に向かって走り出す。徹夜明けで大映ドラマを見たときのような感動が胸を突く。船室でうたたねしたあと、すっかり暗くなったデッキに上がり、激しい痴話喧嘩をする男女のやり取りを傍らで聞きながら、羽田に発着する飛行機を眺める。なんともいえぬ旅情。

10.2.07

今週のお出かけ日記。

今週行ったコンサートの感想など、何かメモ代わりに残しておかないと、揃ってすぽーんと忘れてしまいそうになるので、ちょこちょこと書いてみやがることにした(加齢したから忘れやすいのではなく、ガキの頃から記憶力がものすごく悪いのだと強弁もしたくなる最近37歳になった男)。

7日は門仲天井ホールで、ソフィー・マユコ・フェッターによるシュトックハウゼンの《シュピラール》を聴く。短波ラジオと器楽による作品なのだが、彼女の演奏のおかげで、この曲がどんなことをやっているのかがよくわかった。演奏直前にレクチャーがあったおかげもあるけれど、丹念に楽譜の指示に従った演奏であったことは間違いねえ。今日の演奏を聴くと、これまでの演奏家は、かなり好き放題やっていたんじゃないかというA立T美氏の意見に同感。まあ、作曲家の世代とも近く、しかも身内の演奏であれば、許されることだって多いはず。同時代の音楽とは、そういうものじゃし。

そういう音楽が、譜面というメディアだけを頼りに演奏をしなくてはならなくなる。説明など不要だったボンヤリとした時代性が失われ、作品そのもののコンセプトを鋭敏に伝えることが演奏者の責務となる(同時に、コンセプトの解釈の自由さも生まれる)。シュトックハウゼンにも、そういう時代がやって来ている。もちろん、それはマユコ・フェッターという生真面目&お茶目そうなピアニストの取り組み方にもよるものだろうけれど。

この古典になった明晰なシュトックハウゼンは、とても心地よいものだった。曖昧な時代性を押しつけられるのではなく、作品そのものをぐいぐいと聴かせてやるぜというパワーがこのピアニストにはあった。今回は抜粋だけど、彼女の演奏で全曲二時間たっぷり楽しみたいもの。帰り際、会場の後方に設置されていた閲覧用楽譜のコピーを、おばさんが何枚かごっそりと持ち帰るのを見た。しかも、くちゃくちゃと折ってカバンのなかに突っ込んでいたし。豪族めが、やってくれますなあ。

9日は、大田区民ホール・アプリコにあぶらだこ、いや、レ・ヴァン・フランセを聴きに行く。あたくしと同じ日に37歳を迎えたフルートのパユ、オーボエのルルーや、クラリネットのメイエ、ピアノのルサージュなど超豪華、おフランスなアンサンブルである。

ケージの五重奏はケージらしくもないせわしない初期作品だったし、ハイドンやベートーヴェンは、お綺麗でお上手なんだけど、何かそれだけって感じ。エスケシュのフランセへのオマージュ作品は、響きの巧みさには惹かれたけど、何といっても、プーランクの六重奏曲が、図抜けて光っていた。
なにしろ、お上手で多彩な音色を持っているけれど作品に何の共感もないパユのフルートが、それゆえに、プーランクにはハマりまくるのである。メイエのぬぼーとしたクラリネットが、思索深けに聴こえてしまうのである。おかげで、プーランクのシニカルな叙情性がぐわんと浮かび上がって、実に愉快愉快。もう踊り出したくもなる。アンコールのルーセルもなかなか。やはり、この人たちはフランス近代モノをやっておれば、もう最高なんだす。

昔、ベルリン・フィルがブルックナーを演奏したとき、首席奏者のパユがソロをあまりにも華麗で外連味タップリに弾くもんだから、客席から舞台に登って奴の首を絞めてやりたいと思ったことがあった。てめえがうめえのは充分わかるけど、作品の全体性をちっとは考えろと。オマエさんのスルーパスには他の奏者の誰もが反応できねえぞと。そう、こんときも、彼はブルックナーじゃなくて、プーランクを吹いてたわけだね。すげえといえば、すげえ。ギュンター・ヴァント大先生の棒の下でそんなことできるんだもん。

演奏終了後、サイン会の行列の長さに仰天。ホールを出て三分も歩かぬうちに「キャバクラいかがっすか」と何人もの呼び込みに囲まれる。さすが、ここは蒲田。やるじゃねえか。

そんな蒲田の翌日である今日は、紀尾井ホールにのこのこ出かける。お目当てはポッペン指揮の紀尾井シンフォニエッタ。しかし、当日券が出てくれない。開演時間まで粘ったのだけど、このホールには知り合いもいないから、「何とか入れてくだちゃいよー。一日レセプショニストするからさ。終演後は便所掃除して帰るからさ。なんなら、演奏中は罰として逆立ちしながら聴いたっていいんだぜ」というゴネゴネ戦法さえも使えない。

すごすごと退散。ことごとくポッペンには縁がない。当日券でもなんとか入れるんじゃねえかなどという、世の中をナメきった自分の態度を悔やむ。万事、こういうのがいつもの失敗の原因なんだあと気分がひたすら降下する。

そんなわけで、気分を盛り上げるためにも、今晩から伊豆大島に行っちょくる。明日は念願の裏砂漠ダウンヒルだぴょん。けけけ。仕事しろっつーの。

26.1.07

バラバラにすること。統合すること。

先日、友人と会うために調布まで行った。神田川、仙川沿いに自転車を走らせる。ルートの半分以上は河川脇の車が入れない道。思い切って音楽をかけながら行く。

といっても、ヘッドホンなどで耳をふさぎながら車両を運転するのは法律で禁じらてれおるし、実際に危険きわまりない。自転車は五感を働かせて乗らなければ意味がないのである。そこで、デイパックの肩のところにスピーカーが仕込まれている製品(アンプ内蔵で商品化されてるのです)を背負って行く。これなら、外界の音を塞がずに済む。

こういうときに聴く音楽は、あまり集中を促すようなものであってはならない。用意したのは、0.5秒から2秒くらいの単位で切り取った音声ファイルを数多く作り、それをメモリー・プレイヤーでシャッフル再生するコラージュである。

そういうインチキくさいコラージュは、カセットテープで昔はよく作っていたもんだ。調を合わせたり、リズムを整えたり崩したり、そのコントラストを考えたりと、いかにうまく繋ぐかということに心血を注ぐあまり、半日で1分くらいの分量しか作れなかったりする。しかも、時間がかかるわりには、凡庸なものしか出来なかったりする。作曲というものも、同じようなものなのかもしれないが、こういうものはちょっとセンスが良くないと話にならぬのである。

しかし、自分のような最悪なセンスの持ち主でも、偶然性を利用すれば、とてもすばらしいものが出来る可能性もある。ということで、「繋ぎ」は機械にまかせてしまえばいいのだ。

素材は、iTunesに眠る音源を総動員ってことになる。それこそ、雑多な素材をできるだけ沢山作っておく。音量は一定になるように調整しておけば心地よい。あとはそれをシャッフル再生するだけだ。うまく繋がったときは、「ナイス・パス!」と声をかけてやると、自ずと気分が盛り上がる。

交差点などで止まったときは、指向性の強いスピーカーとはいえ、音量によってはオープンカーのカーステレオ状態になるので、近くにいる歩行者にその音楽を聴かれてしまう可能性がある。そういうときに限って、足立智美の絶叫ファイルが再生されたりして、「なんだなんだ」と彼らがとまどう様子を見るのも、なんとも微笑ましい。ちょうど杉並区の交差点で止まったとき、周囲に「杉並のショーコ〜」と麻原彰晃の声が響き渡り、名状しがたく気まずい雰囲気になってしまったのも、また痺れる心地。

できれば他人に聞かせたくない、プライベート極まる音源も用意しておくのもいいだろう。こちらはつい赤面してしまうかもしれないが、せいぜい2秒間の羞恥プレイ。もともとの文脈を失ったまま、それは響くのだし(しかし、作り手はその文脈を知っていて、その残像を意識せざるを得ないのが、またファンタスティックなのである)。そのへんは、これからの課題っつうことで。

23.1.07

昨年末の横浜の悲劇以来、立ち直れないでいる。唯一の救いはうさぎちゃん。

週末のリーガ。三点取ってゼロ封で勝ったのに、ちっとも爽快な気分がしねえ。まったく連繋が出来てない。中盤がダメダメなんで、チャンス・メイクの機会が激減。それでも個人技あるから、少ないチャンスでも点が取れてる。そんなFCバルセロナの試合を見るのは、とてもさみしい心地がする。ここ二年くらい美しく奏でていたアンサンブルも、そろそろ終焉なのか。そんでもって、なぜかサビオラだけが調子ええですのん。

前半好調だったセビージャも、ちょっと苦しんでる。リーガ・エスパニョーラのおまじないはシーズンの半分しかもたないのか。01/02シーズンのレアル・ソシエダもそうだったなあと懐古モード。このときのレアル・ソシエダもシーズン前半は鬼のように強かった。コヴァチェヴィッチにニハト、シャビ・アロンソ、そしておいらの大好きなカルピン先生。今でも、奴らのことを考えると胸が熱くなる。あの美しすぎる連繋はなんだったのだろう。そして、後半期のおまじないが解けてからの、なんともいえぬ物悲しい試合展開よ。前半はウィーン・フィル、後半は日本フィル。そんな諸行無常のシーズンはえらく記憶に残る。

新加入のイグアインとガゴの動きが見たくて、レアル・マドリの試合を続けて観戦。ラウルの代わりとしてはイグアイン君は淡泊そうだし、ガゴちゃんはミス・パスが多い。まだまだですのう(と、隠れバルサ・ファンとしては一安心)。

19.1.07

北コリア、ちょっといい話。

金総書記が小沢征爾氏にラブコール
金正日、小沢征爾に平壌交響楽団の指揮を依頼していた

個人的に琴線に触れるええ話やったのに、小澤さん受けてくれないなんて残念やわあ。ま、これで北コリアも自前のオーケストラをまだ捨ててないことがよくわかって、少し安堵する。いまさら小澤を呼ぼうとする時点で終わってるじゃん、というややマニアックな視点はなしで。

オーケストラというものは、いかに優秀な人員を集めようと、給料を高くしようと、それでうまく機能するかといえば、そうでもないという面白いところがあって(サッカーとまるで同じだけど)、そのなかでも、北コリアのオーケストラは独特な地位にあるのは事実。非人道的な国だからこそ、さまざまな権利が制限されているこそ、彼らの音楽に対するパッションやアンサンブルに対する熱意は並々ならぬものがあり、そのあたりをわたしは高く評価していたことがあった。

ただ、それらの制限があまりにもキツくなったり、生活レベルが落ちまくると、さすがに技術的に不安な点が顔を覗かせる。昨年、このオーケストラが演奏したショスタコーヴィチの交響曲の新譜を聴いてみたのだけど(例によって録音年月日は不明)、弦は独特の潤った響きで聴かせるが、管セクションはボロボロだった記憶がある。

やはり、ここは小澤クラスの世界的トレーナーにしごいてもらわないと、という主席サマの判断は意外にも的確だったわけである。ついでに、来日公演かなんかやってもらって、オーチャードホールなんかで革命歌劇なんか上映しちゃって、右翼やら拉致被害者の支援団体なんかが押しかけ、総連のメンバーともみ合い、ホール内外は騒然。こんな光景が見たかったぜ。

14.1.07

納豆の恨み。


スーパーに行くと、納豆の在庫が見事に切れている。ここでこんな光景を見たのは初めてだ。二三日前にネットに、「ダイエットのために納豆の売り切れ続出」という記事があったのを思い出したのだが、ここまで悲惨な状態になっているとは想像できなかった。

一日に一度はこの食品を召しやがる自分にとって、これは由々しき問題である。一般人の生活が脅かされているのである! ダイエットへの憎しみがメラメラと燃え上がる。「趣味はダイエットです」なんて平気な顔してぬかす奴らの家に押しかけて、その贅肉を小突きながら説教してやりたくなる。オマエらのその理想主義は、その肉体よりもずっと醜いのだぞと。

最近はノロ・ウィルス・ダイエットというのも流行ったらしい。今のシーズンなら、冬山ビバーク・ダイエットかな。無添加シャーベット食い放題で、みるみる痩せる。痩せることはこんなに簡単なのに、なぜ納豆が狙われるのかと思うとはらわたが煮えくり返る。

納豆メーカーは、これで大儲けのチャンスなのかもしれないけれど、こういう一過性のものは、業界の体力を無くすだけだ。増産だ増産だとばかりに規模を拡大すると、ブームが過ぎれば、結局は無駄な投資になる。最近は企業もそんなにバカじゃないから、そんなブームに乗っかって、自らの寿命を縮めるようなことはないと思うのだけど。

これはクラシック音楽における「のだめ効果」と同じ。まあ、通常は当日券で余裕で入れるNHKホールのNHK交響楽団定期が満員札止めだったり、カルミナ四重奏団の新譜が売り切れ続出で手に入らず、オークションで五倍の値段が付く、なんて自体がまだ起きてないから、まだ安心だ。ただ、クラシック系の業界人はこういうブームに慣れてないのがちょっとだけ心配。

しばらくは、海外に行ったつもりで、納豆なしで過ごすことにする。

11.1.07

ときのたつのもはやいもの、で。

今年も残り355日ほどになってしまった。あわわと焦っても仕方ないので、ウルマンとゴルトシュミットを聴きながら昼寝。文字通り退廃の一日。

年賀状をいただいた方、どうもありがとうございました。返事も差し上げぬご無礼をお許し下さい。決してあなた方のことを失念してしまったわけではありませぬ。そこまではボケておりませぬ故。
と申しますのも、わたくしは、ここ10年以上、年中無休、徹頭徹尾、喪中でなのでございます。なんて言い訳する子は嫌いだわ。

ってなこと言ってる奴に限って、お年玉くじが当たっちゃったりするんだなあ。まあ、やはり10年くらいチェックもしたことがないのだけれど。

ともあれ、今年も残り短くなりましたが、よろしくお願いいたしますです。

9.1.07

成人式から美しい国へ

成人式がもはや1月15日ではないことを知ったのは去年の今頃だったなあと感慨にふけっておったところ。今年もマスコミは楽しそうに「成人式で大暴れ」みたいな報道をしている。でも、このニュース・バリューって「世界のおもしろ映像」レベルにしか思えないのだが。まああと三年もたずに誰もニュースにしなくなるだろう。

だいたい、成人式は大暴れするもんに決まっとる。お祭りじゃもの。「みすぼらしい手製の爆弾で会場を爆砕。間違えて自分も爆砕」、これくらい盛大にやってもらわんと、通過儀礼の名が泣くわ。

成人式は昔でいう「元服」だから、もっと厳かなもの、なんていうことをぬかす奴もおる。そもそも「元服」なんぞ、国民の何%が必要としたものか、おのれの系図引っ張り出して考えてみやがれ、この百姓の子孫めらが。

なんていう、百姓が武家のモノマネをさせられることに対する憤慨ないし居心地の悪さというものも、成人式の騒動につながっているのではないかと。だいたいみんな押し黙って、お偉方の無意味な話を聞くなんて「無駄」な文化は庶民にはありませんから。

だから、せめて成人式ぐらい無礼講にしなさいな。それで目に余るなら、特例でボンボン逮捕しておしまいなさい。これも立派な通過儀礼。みんなで仲良く捕まれば、楽しそうじゃん。おまけにしばらく豚箱で反省の日々を送らせるのも、「熱狂」から「冷却」をたどらせることで、すばらしく忘れがたい儀式になる。きっと、おいらみたいに国家にたてついてやろうというヒネくれた人間にはならぬはず。「美しい国」がどんどん近くなる。