31.12.06

とういわけで川島素晴個展

わが人生の曲がり角には、いつも川島素晴の作品がある。だからということでもないけれど、28日もアンサンブル・ボワ演奏会「川島素晴個展」を聴きに、すみだトリフォニーまで行く。

「Let's tri___!」や「ポリスマン/トランポリン」など、ほとんどシャレで作ったとしか思えないフォルムを持ちつつも、その言葉の意味する範囲を超えて快楽的な楽興をもたらす作品をのんびりと堪能できたのが良かった。

最近は、川島さん自身のアクションぶりも板に付いてきたというか、役者(芸人?)になってきたというか、以前のヤバそうな人特有の雰囲気が無くなってきたようにも感じる。これは悦ばしいことなのか、残念なことなのか、いまだ自分には判断がつかない。

これは演奏に関しても同じ。川島作品の第一世代の演奏家、道元さんとか神田さんとかに比べると、若い演奏家たちのアンサンブル・ボワは、妙にリラックスした雰囲気で聴かせてくれる。第一世代の演奏家たちは、舞台ではニコリともせず、ピリピリと互いの距離を測りながら、怪しげなことをやらかしていた。それが、また妙におかしかったわけだが。

アンサンブル・ボワの予定を見ると、3月に微分音特集があるらしくて、会場でウククと唸ってしまった。しかし、よく見ると、2008年。ぐわ。来年じゃないのかあ。だから、2008年までは生きていようと思った。

25.12.06

カーゲルくん75ちゃい。

昨日はマウリツィオ・カーゲル生誕75周年の記念日だったのでありました。
んでもって、こういう日こそ、記念演奏会があったのではと思って、コンサート情報をチェックしたがまったくござらん。第9とメサイアとクリスマス・コンサートばっかし。お客をなめんなよ。ま、あったらあったで、行けなかったことを深く後悔しちゃいそうなのでいいや。

そういえば、カーゲルには、自分の誕生日にまつわる《1931年12月24日》(...den 24.xii.1931 )という曲があったわな。バリトンと室内アンサンブルのための作品で、この日付の新聞に載っている事件や広告が歌詞として歌われてる。

その内容は、ブエノスアイレスでのクーデターとか、関東軍の欽州攻撃の際の司令官本庄繁のコメント、ローマの図書館で屋根が落ちてきて5人死んだという記事、煙草「パロール」の宣伝文句など。
ファシズムに進んでいく世界情勢が反映され、いつもの猥雑サウンドに失笑しつつも、ドンヨリ不安になる作品なんである。ただし、最後にアホのように打ち鳴らされるクリスマスを告げる鐘がこれまでの暗さを吹き飛ばすように、癒してくれるのがたまらんのですわ。一頃は、チャリンコに乗りながら、「パロール」の部分を歌ってたなあ(愛国者はパロールしか吸わない。6ペニヒ。マイルドでアロマティッシュ!)。

図書館で屋根が落ちてくる部分では、消防用サイレンがけたたましく鳴らされる。こういうサウンドが用いられるということは、ちょうどこの年に作曲されたヴァレーズの《イオニザシオン》と関連があるのかしらん。

こういう曲は、知らぬ顔してクリスマス・コンサートと銘打ったイベントで堂々とやればいいのである。ちゃあんとクリスマス関係の作品なんだから問題ない。日本にはうってつけのバリトン歌手松平敬氏もいるし。コンサートのアンコールは、シュニトケの《清しこの夜》で、オレ狂喜。

15.8.06

コーカサスは腹に来る。

先週土曜日。アテネ・フランセでアルメニア映画祭をやっている。パラジャーノフの「ざくろの色」をスクリーンで見たいなと思いつつも、家のなかでグズグスしてたら、雨がざばざばと降ってきよったので、ほうほうと雨見物。

結局、その日は最終上演のハルチュン・ハチャトゥリアン監督の「約束の地への帰還」だけを見る。災害や紛争によって、新しい土地への移住を余儀なくされた家族をドキュメンタリーっぽく描いた作品。セリフもなく、淡々と描き切るっていう、わたくし好みのまったりテイストだったにも関らず、直前に大メシ食らったせいか、眠気に誘われる。まったり系を極めるには、厳格なる体調管理が必要だと改めて痛感。

家に帰ってきて、本日見逃した「ざくろの色」が無性に見たくなり、ビデオを引っ張り出して、鑑賞。この映画、もう10回以上は見直しているけど、見るたびにドキドキしちまう。モダニズムと民族色の際どい融合。一つ一つのシーンがやったらと濃い。

翌日は、ふらふらと三百人劇場のソヴィエト映画祭へ。この日は、パラジャーノフの「火の馬」が上演される。十五年くらい前に見たときにゃ、ほかのパラジャーノフ作品のインパクトの強さにあてられて、ストーリーさえ覚えていなかったのだけど、やはりこの作品もかなり濃厚路線。こちらは、モダニズムと情感の際どい融合といった感じか。

そのあと、ノリでゲオルギー・シェンゲラーヤの「ピロスマ二」と「若き作曲家の旅」を続けて見る。このグルジア人監督の作品を見るのは初めてなのだが、ストーリーはシンプルながら個々のシーンの構成がむんむんと香しい。なによりも、トビリシの裏路地や荒れ果てた屋敷が、魅力的に描かれているのに心を奪われた。

結局、二日間でアルメニアとグルジア関連の映画を6本見た。
帰宅して、腹痛にあえぐ。帰り際に食った千石自慢ラーメンのスープを全部たいらげてしまったのが良くなかったか。前は全然平気だったのに、自分は胃だけは丈夫だったはずなのに、年を取りすぎてしまったのか。ぐすん。いやいや、これはアルメニアとかグルジアの映画を見まくったことも一つの原因なのかもしれん。一つひとつのシーンが濃いんだもん。以前、アルメニアを訪れたとき、ピアニストのK氏が地元の名物料理をさんざ食べたおかげで、ひどい下痢に悩まされてたのをふと思い出した(氏はそういう状態で、チェクナボリアンの協奏曲を見事に弾き切った。終演後トイレに籠もっていたが)。コーカサスは腹にガツンと来る。

2時間ばかりぐったりしてたが、おもむろにアイス食いたい欲望がむらむらと沸いてきて、黒糖モナカなる商品をバリバリと食ったら、腹痛は完治。甘いモノは美しい。

30.7.06

食う・綯う蚊

ここ二三年くらい、蚊の食いつきが悪かった。複数人でヤブのなかに入っても、自分だけ蚊に刺されることがない、という状態が続いたのである。蚊も見向きしないような血質になってしまったか、それとも二酸化炭素の排出が鈍くなったかして、新陳代謝に支障を生じておるのではないか、などと心配しつつも、カユイカユイ思いをしなくて済むのはなんて愉快なことなんだ、人生はかくのごとく美しい、などと心のなかでほくそ笑んでいたのであった。

しかし、今年は何たるザマだ。先月、小石川植物園の樹木地帯で、一度に10匹くらいの蚊に集中攻撃された。それからも、少しヤブっぽい場所では、必ずや蚊に血を抜き取られるのであった。群がったこいつらに一度にざっくりやられると、ああ、オレにも人間の血が戻ってきたのだ、蚊にも欲望されるようなまっとうな血が、なんて阿呆な思いがアタマを一瞬過ぎりながらも、目がかすんでしまうくらいカユイカユイなのである。

だから、東京国立博物館の庭園で行われたク・ナウカの芝居「トリスタンとイゾルデ」を見に行こうぜ、と誘われたときは、一瞬たじろいだ。いかにも蚊がわんさといそうなところじゃねえか(というより、チケット代6000円という金額にたじろいだのだが、血は金なりという箴言にあるように、両者にはそう違いはない、ってことにしとく)。しかし、ク・ナウカの公演をナマで観たことがこれまでなかったし、「トリスタンとイゾルデ」というベタベタな話をどうやるのか興味があったし、夏の夜の庭園ってのも、げにげに風流かなと思って出かけることにしたのだった。

舞台は、橋掛、地謡座などを設け、能の様式を摸したもの。同行のO氏によれば、青山円形劇場での初演ではそうした趣向はなかったというから、今回は「薪能」のように見せたかったのだろう。事実、舞台の奥には、広大な庭園が場面に合わせて照明でうっすらと映し出され、その空間感覚がえらく気持ち良かったのだった。ただし、ク・ナウカの役者の動かし方は、歌舞伎を思わせる。この歌舞伎的耽美と、能的空間性がごっちゃになって、何やら怪しげに劇は進む。

初演では、トリスタンが三島由紀夫、マルケ王が昭和天皇、のような読み替えが明瞭だったらしいが、今回はそこまで強調されず。あくまでも、幻想は幻想のうちに留める。その中途半端さが、夏の戸外での公演にふさわしかったのかもしれない。

さて、わたくしは、開演前に肌身をさらす部分に念入りに虫除けクリームを塗りたくっておったので、今回は蚊からの攻撃は皆無なのだった。さすが、クスリは効くもんだぜ(っていうストーリーだったよな、このお話は)。舞台上では媚薬でクラクラしている二人を見ながら、こっちはカユイカユイでは、まったくどうしようもないし

17.7.06

かつて見せ物小屋だったもの

先週土曜、靖国神社みたま祭りの見せ物小屋に「新・蛇女」が登場したというので、出かけてみる。
じつは、わたくし、先代の蛇女を見逃してしまった人間である。さる友人が、「わたしの青春は見せ物小屋で培われた」とばかり、蛇女の素晴らしさについて目をキラキラさせながら語っていたり、また別の友人がこの見せ物屋で呼び込みのバイトをしたときに、「キミも蛇を食わないか」と薦められたが出来なかったなどという話を聞いているうちに、「新しい蛇女とは、いかなるものなのか」という興味が芽生えてきたのである。

見せ物小屋とは、もっとおどろおどろしいものかと思っていたが、そんな面はまるで感じさせない。これも今年からの新演出だから、ということらしい。次第に、寺山修司のノリを薄めたような三流芝居を見ているような気がしてムズムズしてくる。見事なまでに、ダルい。いや、これはすべて「かつて見せ物小屋だったもの」のパロディなのだ。

舞台上の男が、気だるそうに双頭奇形児のデス・モデルを取り出す。こういうのも、まさに見せ物小屋の定番だった。しかし、この男は、それを観客に示しながら、「こういうものを見せるのも、最近では人権が問題になって」なんて言っちゃってる。いやいや、見せ物小屋とは不具者にあえてスポットをあてることで、人間や社会そのものの存在を疑ってみる格好の教育的機会のわけなのだが、それも空振り気味。やはりパロディなのか。

いよいよ新・蛇女の小雪さんが登場。しかし、この蛇女もフツーのねえちゃんが、罰ゲームで蛇かじってみました、というノリ。そこにドロドロとした凄みはまるでない。何よりも、照明が平板で、まるで深夜番組のように、あっけらかーんとしている。すべてが平板で、パロディ。

闇はだんだんと消されていく。闇がなければ、光だって存在せぬ。欲望が分散化してしまった時代には、こういう方法しか残されていないのだろうか? そう思えば、ずいぶんと興味深い見せ物だったけれども。

30.6.06

なにゆえプートガァーがあたくしをドキドキさせるのか。

代表の国際試合といえば、ポルトガル代表がどういう出来なのか、今回はどこまで勝ち上がってくれるのか、そして、どのような悲しい負け方をするのだろうか、そんなことが気になって仕方がないのである。

これまでのポルトガルの試合は、華麗でロマンティックだったのだが、試合ではなかなか勝ち進めない、そういうリアリズムに欠けているといわれた。

しかし、今年のワールドカップに出場しているポルトガルはちと違うのである。妙に手堅い。まず信じられないことに、守備が堅い。中盤の組織力も攻撃のためだけではなく、実にいいカバーリングを見せてくれる。そんでもって、ストライカーのパウレタは地味なことこの上ないが、リアリズムに徹して無言でゴールを決めてくれる。せいぜい、クリスティアーノ・ロナウドが、試合と関係なく遊び心たっぷりのボールタッチを見せてくれることが、いかにもなポルトガルらしさを残しているものの。しかし、こんなのポルトガルじゃないやい、と思う人もいるだろう。

しかし、わたしはこの現実主義に傾きつつあるポルトガルにドキドキしてしまうのだ。たとえば、「オレはロッカーになるんだ」と言い張っていた息子が、「やっぱ、オレ、オヤジの仕事を継ぐよ」としおらしい顔で言ってきた朝。今、まさにわたしはそういう気分なのである。子供なんていない自分が言うのも説得力に欠けようが。

ポルトガルとオランダの試合はすさまじかった。どんどん人がいなくなる。不利っぽい判定も続く。こういうパターンは、必ずやポルトガルは負ける。いつかどこかで見た風景なんだよね。ユーロ2000のフランス戦、117分(時間までちゃんと覚えている)よくわからないハンド判定でPKを決められ、延長ゴールデン・ゴール負け。ワールドカップ2002、勝たなければ敗退の韓国戦では、またもや退場者続出で自滅。ユーロ2004の決勝戦、もう負けないだろうと思われたギリシアに力負け。ポルトガルの敗退するところには、すがすがしくない、異様といっていいほどの悲しさが漂う。そういう悲劇が良く似合うチームだといっていい。

ちなみに、ポルトガル代表に退場者が少なくないのは、判定に恵まれないという理由だけではない。彼ら、実際にラフなプレーが多いのである。ポルトガル・リーグを見ればわかるのだが、けっこう激しくバシバシ削っり合ってる。一般的にはポルトガル=ビューティフルという構図がまかり通っているものの、それと同時にけっこう荒っぽいのである(だから、ポルトガル・リーグは意外につまらなかったりする)。

というわけで、今回のオランダ戦でも退場者が出たとき、そしてオランダがイケイケになって攻めてきたとき、またもやポルトガルの悲しみを伴う敗退がチラついたのはいうまでもない(これは多くのポルトガル・サポーターも感じたに違いない)。ところが、今年のポルトガルは一点を守り抜いて、勝ってしまった。すげえ。親父号泣。さすがおいらの息子だっぺよ。

そんな試合を見てしまったら、次のイングランド戦、けっこうイケるんじゃないの、という気もしてくる。デコとコスティーニャが出場停止。ロナウドもケガっぽい。それでも、こんなリアリズムをもって試合をしているポルトガルが、連繋ゼロのイングランドに負ける気がしないのである。と、ここまで期待させつつ、ありゃまあ、コロっと負けてしまい、あわれな姿をさらすのも、またポルトガルらしいといえば、そうなんだけど。

23.6.06

日本の裏番組はオモロイ

日本とブラジル戦は後半20分くらいから、まったりモードに入ってしまった。前半は緊迫感あって面白かったけどね。まあ、前の試合まで不調だったデブにロスタイムに決められたんじゃあ、フツー立ち直れないわな。フレッジ様の登場もなさげだったし。そこで、裏番組のオーストラリア対クロアチア戦を見ることにした。

んで、これが異様にオモロイ。四年前の日本対チュニジアの裏番組、ロシア対ベルギーも、個人的には大会ベスト・ゲームの一つだった(ほとんど誰も見てないので、話が合う人がいない)。まあ、勝利でグループ抜けがかかる試合だけに、ガチンコになってしまっただけともいえるけど。

一点ビハインドのオーストラリア、ヒディングが相も変わらずディフェンスをアタッカーに代える交代を繰り返しまくって、最後は5トップというとんでもない布陣にするかと思えば、クロアチアにもストライカーになってしまったトゥドールに絶好のチャンスが訪れるは、乱れまくりの肉弾戦、両チームのセンターバックが退場になり、しかも二枚イエローもらってるのに審判が退場させるのを忘れてプレーを続けているクロアチアのシムニッチは(彼がゴールを決めたらどうなったんだろうとドキドキした)終了間際に三枚目のイエローを貰ってしまうは、最後は中盤省略のロングボール合戦になってしまうは、で妙にアツい試合に目が潤んでしまったのでありました。

これで負けてしまったクロアチアのショックは日本よりも大きいだろうな。日本戦も勝てたと思ってたろうし。でも、最終戦でここまで、ハチャメチャ、ガチンコでやってくれれば、負けてもスッキリしたのかもしれん。

したたかに満足して(本当はクロアチアに勝って欲しかったけど)、チャンネルをもとに戻すと、中田ヒデがピッチの上でほろほろと泣いておる。中田中心のチームが作れていたら、すべてが円滑だったろうに。などと思うと少し悲しくなる。

22.6.06

報道できぬもの

都合の悪いことは報道しないのは、北朝鮮ならずとも世界共通なんだが、日本のメディアはいったい何を報道しないのか。今回のようなワールドカップを見ていると、それがよくわかちゃったりしますわな。

フランス—韓国戦の、フランスのまぼろしのゴールは、あからさまにゴール・ラインを割っていたし、ブラジル—オーストラリア戦の、ロナウジーニョからロナウドに渡ったパス(そのあとにアドリアーノに渡り、ブラジルの一点目につながる)はオフサイドだった。こういう誤審はよくあるもんじゃいな。むろん、映像で見ないと、正しい判定ができないこともある。しかし、日本のメディアで、これを「審判の誤り」と報道したところはないんですよなあ。そう、この国では、「審判は間違えないもの」として定義されているらしいのだ。

それはJリーグの中継を見てもわかる。海外のメディアが、ハンドやオフサイドの疑惑シーンを徹底的、ときにはイヤミったらしく繰り返し流すのに比べ、日本の放送局が撮影、中継したものは、ほとんどこれに触れない。せいぜい「微妙な判定でしたね。ヌホホ」と流す程度。そこには、審判が判定したものは絶対で、それが表向きは間違ってはいけないという不文律があるようにも思えてくる。それは、一神教の文化を生半可のままに輸入した明治以来の伝統かもしれぬ。

審判も人間だから間違う。そのような間違いがあるから、サッカーという競技はけっこう面白くなる。たとえ試合に負けても、「オレだのチームが弱ぐないべ。あのクソ審判のしぇいだべず」と責任をなすりつけることもできる。こんなふうにして、完全なる強者、完全なる弱者を作らないところが、いかにもリアルに出来ている(そして、リアルすぎるので、夢見るアメリカ人にはサッカーが人気がない)。

そいえば、4年前のワールドカップでも、誤審が連続して起こったが、メディアはFIFAが「誤審がありました」と認めるまで、一切それを報道しなかった。映像を見れば誰にもわかることをあえて無視したっちゅうわけ。これは日本のメディアの体質だろうねえ。つまり、日本の報道は、明治以来、上意下達が基本だということ。お上が発表したものを、そのまま報道するだけの機関がマスコミってこと。

極論するなら、目の前で家が豪勢に燃えていても、消防庁の発表があるまでは、それを火事とは報道できない、みたいなもん。だから、日本の新聞もテレビもどれをとってもみな同じ。記者クラブ発のネタばかり。でも、新聞の原稿料は高いから、オレだって新聞の悪口は言わない。言うわけがない。うんうん、みんな同じですばらしいじゃないかあ(絶賛)。

あとは、電通などの、大手広告代理店が絡んだネタはあまり報道されないわな。今回のワールドカップで、日本のグループリーグの二試合が15時開始だったのは、抽選でもなんでもなく、日本での視聴率を稼ぐために、電通が仕組んだことらしい。だから、ジーコが 「暑っついなかで再び試合をすることになったのは、まさに犯罪」と記者会見で不満を述べても、 それが日本のメディアに乗ることは、まずない。

18.6.06

決してクロアチアの姉ちゃんのためではなく。


四年前のワールドカップの期間中は、スカパーですべての試合を生中継してくれていたから、地上波を見ずに済んだ。たまたま付けたNHKで、堀尾アナがバカなことを言っていたので、これを見続けるのはツラいなと思った。

今回スカパーはすべて翌日の録画放送なので、リアルタイムで見るには地上波を見る必要が出てきた。これがまた、ひどいんですね。四年前のワールドカップ期間中、トルシエ監督が日本代表にスカパー以外のテレビを見ることを禁じたことを思い出しちまう。

すべてを陳腐な物語に変換するのは仕方ないにしても、有名人やサッカー関係者がテキトーな戦術を語ったりする。ほぼ2ちゃんねる状態。これはトルシエじゃなくても、禁止したくなるわけだ。そんなアホの戯言を耳に入れても、まったく影響されないのが理想なのだが、それだけ成熟していない社会なのが実状なのだ(ネット掲示板の書き込み一つで警察が動く国だし)。ちなみに、そんなトルシエも今年は地上波で活躍中だったりするのが、またおかしいのではあるけれども。

試合の実況や解説も、ふだん海外のリーグ戦などチェックしていない連中ばかりだから、選手の名前一つ発音するのに愛情がまるでない。しかも、これまでのイメージの範疇だけで語ろうとする。この業界も志鳥栄八郎先生ばかりなのか。そろそろ「ゲルマン魂」とか「無敵艦隊」とか言葉を使ったら、罰金ものにすべきじゃあないか。

毎度のようにヨーロッパ、ヨーロッパと言うのはいいかげんバカっぽくてイヤなのだが、サッカーに関しては、さすがに向こうのテレビは違う。ドイツのZDFでは、試合が終わって30分後にキーパーから見える位置を3Gで再現していたり、かなりマニアックな内容だった。イタリアでは、国内リーグ戦終了後のゴールデンタイムに、試合内容について討論し、そこに当事者の監督や選手などが電話で参加するなどという番組を日常的にやっていた。日本では考えられるか? 土曜日のゴールデンタイムに、「Jリーグ・アワー」なんて放送できる環境ではないだろ。

もちろん、RTLなどの軽い番組では、ワールドカップでの売春婦の活躍や風俗店の健闘を紹介したり、外国人サポーターにドイツ国歌を歌わせたり、ブラジル人サポをいじりたおすアホ企画などもてんこ盛りなのだが、これはこれでコントラストがはっきりしてていい。要は、試合内容と、その他のものを分けて考えてくれということだ。

だいたいサッカーなんて、みんなそんなに興味あったんかいな。「負けられない一戦がある」なんて陳腐に煽られると、「じゃあ、負けてしまえ」などとわたしは思う性格なので、今日は堂々とクロアチアを応援することにする。前回の試合を見て、ジーコどころか川渕体制ではまるでダメだということがハッキリしたので。どーんと行け行け、ニコ・コバチ。憎々しげにヘッドで決めろプルショ。でも、小笠原には活躍して欲しいかな。

などと言いつつも、「日露戦争とか大東亜戦争の前夜は、メディアも世論もこんなふうに騒いでいたんだろうなあ」ということを擬似体験するには、ワールドカップは最適なのである。なにしろ戦死も爆撃もなく、その気分だけ味わえるのだから。ならば、永井荷風のように一切を黙殺する手もあるかもしれないが、小人物のわたくしにはそれができないだけなのである。

(写真はウィーンの街角で、試合後負けたのにも関らず、奇声を挙げていたセルビア・モンテネグロのサポーター)

6.6.06

百姓ぶるう。


街中にサムライ・ブルー2006っていうフラッグが目立ってきている(写真は、茗荷谷のカイザースラウテルン広場にて)。何かというと、日本は「サムライ」だ。でも、これって違和感バリバリなんすよね。

だいたい、今の代表が「サムライ」ではまずいんじゃないの? 「侍」は「さぶらい」、つまり主君に仕える身分のものを指す言葉だ。自分のことは何も決められず、すべては規範と主君の命令によって動く人々のことである。トルシエ時代だったらともかく、ジーコになって、「主体的に動こう」とモットーのもとにチーム作りをしてきたのに、これじゃあねえ。

やっぱり、ここは「サムライ」じゃのうて、「ヒャクショウ・ブルー」で行かなきゃならんでしょ。もちろん、百姓とは、農作業に専従する人々を指すのではなく、語義のとおり「百の姓」、さまざまな職業の庶民を表わす言葉だ(網野史学っぽく言えば)。つまり、色々な職能を持った人々が、さまざまなやり方で、一つのチームを作るっていう、ジーコの方法論にバッチリ適合してるんじゃないかい。しかも、百姓は、手段を選ばぬ力強さがある(生来、百姓はマリーシアなのである!)。体裁つくろうために「オレ腹切るわ」って散っていく侍では、長いワールドカップを闘うには、ちいと不安が残るんである。人間としては、こっちのほうが多少は信用がおけるけどな。

17.4.06

ユルさの美学

もうそろそろ次号が出る頃だが、「レコード芸術」の4月号をまだほとんど目を通してないのに気づいた。目を惹くのは、やはり吉田秀和の連載が久々に復帰していることか。
さすがに高齢を極め、文面から緊迫感が薄れたかというか、とにかくユルい。何か一つのテーマで深く突っ込むのではなく、新旧の録音を並べ立て、まさに走馬燈のような批評だ。

いきなり、論語の引用から入るところなんざ、まるで田舎の校長先生の「朝の訓話」のノリ。これまでの吉田秀和ならば、そのイモっぽさが恥ずかしくて絶対やらなかったようなユルさなのだ。

読み進めると、アレ、そうだったっけ?という記述も目に付く。
1968年のバイロイト音楽祭で、ブーレーズとシェローによる、という記述があるが、シェローがバイロイトに呼ばれたのは百年祭のあった70年代後半ではなかったかしら。

思い違いをしているのだ。もちろん、批評では「思考の筋道」がいの一番に問われるのだから、事実誤認なんぞ二の次以下。それどころか、事実を誤って捉えていることからこそ見えてくる「筋道」がある。批評の面白さはそこにある。

「新潮」2月号の小島信夫の「残光」も、あまりにものユルさにこちらのアタマが溶けかけたが、あっちは小説、こっちは批評。ユルい批評って、何かソソるんだよねえ。ガキにはやりたくっても真似できねえぜ。

最近、フリーペーパーの「チケット・クラシック」が届くと、最初に黒田恭一の連載を読むのが楽しみになってきている。従来の「当たり障りのないことばかりスマートに書く」という黒田節が、「スマートながらも、チクチク文句を垂れる」方向へぐっと傾いてきたからだ。しかも、音楽業界相手への苦言が多い。これも、高齢を極めたおかげで、少々我慢が足りなくなったきたおかげかもしれない。これまで、書きたいことをグッとこらえていたのかなあと思うと、少しばかしじーんときた。

9.4.06

なんでもポルノ

「児童ポルノが違法でない」国は138カ国
児童ポルノ所持が犯罪にならない国は138カ国、ネット児童ポルノを取り締まる法律がない国は122カ国——4月6日に公表された調査報告書により明らかになった。

「現時点では、各国の法律は憂慮すべきほど不十分だ。これは許されない。各国首脳は今こそ行動を起こすべきだ。われわれは彼らと協力してこの痛ましい問題を根絶することに全力を注いでいる」とICMECのバロン・ダニエル・カルドン・デ・レクチャー会長は発表文で述べている。

児童ポルノが違法と定めていない国の多くは、法意識が低いのではなく、単に児童ポルノというメディアがないだけである。
つまり、クソガキのハダカなんか見ても誰も興奮しませんわな、そんなアホどこにいるんですか、というわけである。

日本でただの「ガキのハダカ」が「ポルノ」に認識上で昇格したのは、一つは宮崎勤の功績があった。「おお、あんなものでもイケるのか」と少なくない人が感化されてしまったわけである。もちろん、日本には稚児の文化もあったが、これはこの問題と直接リンクさせるにはちょっと議論を有する(いつかやってみたいと思っているけど)。

極論すりゃ、牛のハダカを見ても、あるいは火葬場の煙突を見てもムラムラさせちゃうことは、必ずしも不可能ではない。こうなると、牛ポルノ問題、火葬場の煙突ポルノ法だって出来てしまうわけだ。

記事を読むと、法整備のない国はこれからしっかりせにゃいかんぜよ、という主旨のようだ。つまり、児童ポルノというメディアを普及させろ、というわけである。もちろん、法整備の遅れた国から多量の児童ポルノ(とポルノ先進国が見なしているもの)が流出していることが問題なんだろうけれども。

これらの関係者の熱意によって、あと何年もすれば、世界中各地でガキのハダカに興奮することがスタンダードになるに違いない。興奮するものがたくさんあることは、いいことだ(ということにしておこうか。たまには無難にまとめてみた)。

17.3.06

「少年は重い刑に」が25%

「少年は重い刑に」が25% 最高裁司法研修所が調査
殺人事件の被告が少年だった場合、市民の4人に1人が「成人よりも刑を重くするべきだ」と考えている−。最高裁の司法研修所は15日、市民と裁判官を対象に実施した量刑意識に関するアンケート結果を発表、判断のポイントによっては両者に大きな隔たりがあることが明らかになった。

なあんか、すごいことになってないか。こんな調子じゃ将来の裁判員制度はかなりヤバくないか。成人よりも少年のほうが重い刑罰を与えなければならぬと考える人って、いかなる法哲学に基づいてそう主張してるんでちゅかね(人間は血筋だけが重要にして、環境とか教育とか更正などは意味がない、という思想でちゅか??)。

だいたい、国内の少年犯罪などというものは年々減少傾向にあるのだし、「未成人は勢い余って殺人を犯す率が高い」のが万国共通なのに日本だけはそれが極端に少なく(宮崎学「殺人率」などの統計を参照)、他国から気味悪がられているくらいなのにな。

ただ、未成年の「動機なき」犯罪みたいのが、マスコミによってクローズアップされ、「なんだか怖いね」という風潮を生んでいるのは確かなんだろうね。「動機なき」というのは、そんなふうに思った人のアタマが悪いから。穏当にいえば、自分のアタマで考えようとすることを放棄してるから。それだけじゃんか。「あの世代はワケわかんない」などという、くだらない俗流世代論に踊らされて、「怖い怖い」と言っている人々がいることが、マジ怖い怖いでやんす。

16.3.06

winnyで世界平和

小泉首相もウィニー不使用呼び掛け
ウィニーに衝撃、芸能界困惑…住所、電話番号流出

すべての人民に感染されたwinny搭載のパソコンを!!
すべての情報を共有することによって、人々は平等になる
どうせ、みんな大した情報持ってないんだし
(それを秘匿することによって、価値が生まれているようなもんだ。いや、価値を生み出すために隠しているだけにすぎない)

24.2.06

指名手配写真は味わい深い

指名手配wiki

それらの写真は、もともとは「自動車の免許」「パスポート」「遠足での思い出」などという目的で撮影されたものである。
そういうものが、コンテクストからムリヤリ切り取られて、並列される。
それが指名手配の掲示である。そのムリヤリさに、哀愁を感じてしまう。

渡部克正(55歳)のいきなりポートレート(フケ専ホストか?)くさいのがあれば、吉屋強(28歳)のあまりにも無惨な切り抜かれ方もある(ちゃあんとイラストレーターくらい使ってくださいな)。大坂正明(56歳)の時代がかかった雰囲気も印象深い。

高橋克也(47歳)の「現在のイメージ図」もグッとくるものがある。お兄さん、ずいぶんと老けましたなあ。時代も変わりましたなあ。そういえば、あの子は今どうしてる? などと、縁側でお茶を出してあげて、面識の一つもないのに懐かしい話の一つもしてあげたくなる。

わたしも、学生時代こういう指名手配ポスターを集めていた。お巡りさんがよそ見をしているスキに交番からはがして持ってくるのである。窃盗である。なにしろ指名手配のポスターは「期限が過ぎたら、燃やしてしまう」らしく、わたしのような愛好者の手には渡らないシステムなのである。何度もお巡りに交渉したが、ダメだった。仕方がなく、やった。よって、こういう犯罪は許されてしかるべきだろうと存じ奉る。

一昔、街を歩くといたる所に「オウムの手配犯」のポスターやら人形やらが飾ってあって、まるで、中国における毛沢東、北朝鮮における金親子、イランにおけるホメイニ師みたいだった。事情を知らない外国人旅行者などは、「彼らは日本の支配者に違いない」と思ったことだろう。

18.2.06

アダルトな夜

なにやら、おおっぴらにアダルトビデオを見ることが流行っているらしい(こんなことがニュースになって全国に報道されるのか、という事実にまず驚くわけだが)。
<アダルトビデオ>免許更新講習で誤放映 福岡県警の試験場(毎日新聞)
京大生が図書館でアダルト映像見る、女子学生が届け出(読売新聞)

こういう風潮が広まると、日本のエロ文化にも大きな影響を与えることは必至である。18歳以下は禁止だと口うるさく制止され、「そんなの見てんの、エッチね」とからかわれ、こっそりと家族が寝静まってから見るからこそ、アダルトビデオはエロく、代え難きものとして君臨しているわけである。

性衝動のスイッチというものは、後天的に作られている要素もあるのではとわたしは思っている。他人が性交する映像を見ると興奮するという作用も、成長の過程で文化として習得したといっていいのではないかと。だとすれば、鰯の頭を見ると性的な興奮が高まるという人がいてもいいわけだが、たぶんその人は社会的に苦労することことだろう。

しかし、当たり前のようにアダルトビデオを堂々と見ることが広まれば、そのようなビデオ自体が性衝動を引き起こすスイッチに成りにくくなってしまうのではないか。とくに、幼いうちからそういうことが当然になれば、エッチビデオで興奮するという文化は無くなってしまうのではないか。わしゃ、それでも別に構わないんだが。

いや、今ではアダルトビデオや官能小説などは、すでに「性衝動のスイッチ」ではなく、「癒し」として機能しているような気がする。高橋源一郎が「エロゲーは癒し」といっていたように、それらは衝動を高めるものではなく、精神を落ち着かせるために存在しているとのではないかと。そこに描かれているものは性行為という日常にすぎないし、それを導くためのストーリーが用意される。まるでテレビの「水戸黄門」のように、平穏無事な世界が描かれている、という見方だってできよう。

アダルトビデオは癒し——そんなことを言えば、アダルト業界や愛好者の方々はちょっとムカつきを覚えるかもしれない。わたしだって、「クラシック音楽って癒しよね」とかなんか言われれば、問答無用でそいつの胸倉を掴み、はっしはっしとその頬を打擲し、そのまま地べたに引きずり倒して、拳骨を振り上げながら「これが癒しだというのか、この拳が癒しだというのかぁ」と声を張り上げ、たくなる気持ちをグッと抑え、振り上げた手で髪をかき上げ、「まあね、そういう効果も作品には内在しているのでしょう。そもそも創造というものは、作り手ではなく、受け手のほうにウェイトが置かれるから」などとロラン・バルトの愛読者のようにニコヤカにのたまうに違いない。この腰抜けめが。

だから、アダルト系の人だって、「アダルトビデオは癒し」なんて他人にぬけぬけと言われた瞬間、「問答無用でそいつの胸倉〜〜中略〜〜ロラン・バルトの愛読者のように振る舞う」などいう葛藤めいた過程をたどっていたとしても不思議ではない。

もちろん、「癒し」とか「水戸黄門のように平穏無事」という言葉に、賤しめてやろうという魂胆は宿ってはいない。そればかりか、決まった枠組みのなかで、細かい差異を見出して楽しむという行為こそ、とても高度な鑑賞態度であるようにも思われるのである。そこには複雑な人間関係も、錯綜した心理状態も描かれることはない。そうした世界ならではの独特な詩情があると思われるのである。

先日、官能小説を作家の方よりいただいた。この方が拙著「わたしの嫌いなクラシック」をお読み下すって、大いに官能され、ご著書をお送りなすったのだという。わざわざありがとうございますです。なんとオペラをモティーフにした官能小説らしいので、今宵にでも、じっくりまったり癒されるとするか。

7.2.06

「どうで死ぬ身の一踊り」

知人から電話があって、西村賢太の単行本が出たことを知らされる。鶴首していたのに、すっかり忘れていた。いかんいかんと近所の本屋を回るが、置いてない。三軒目でやっとゲット。平積みにもされてない。何という不憫な扱い。雪がちらつき始めた道を家に帰り、一気に読む。文学界に掲載されていた「けがれなき酒のへど」が収録されていないが、こいつはいつか文春から出るのだろう。

「どうで死ぬ身の一踊り」には、私小説の王道ともいえる「自らの情けなさ」を綴った三作が収められているが、核になるのは、大正期の私小説家・藤澤清造への傾倒だ。毎月一回追善供養を挙げてもらうために石川県の菩提寺に出かけ、古くなった墓石を譲り受けて自宅へ設置、故人の手紙などを精力的に収集し、「藤澤清造全集」の刊行を目論んで編集に明け暮れる日々。その執念は、まさに宗教的帰依といっていい。
そのための費用は同棲している女の実家に出してもらっているが、たびたび激昂してその女を殴るやら蹴るやら。もちろん、女は逃げ出すが、主人公はその女に惨めなほどに固執する。今日において、オトコが何かに強烈に「帰依」するということは、ミソジニーをも誘発する。同棲している女とのトラブルは必然的ともいえるだろう。

こういう生き方をしたのは藤澤清造その人だった。つまり、西村賢太は藤澤清造と一体化を目指しているというわけだ。まさしく、真剣なパロディ。もはやパロディでなくては生きていけないということ、さらにそれは軽いノリなんかじゃダメでつねに真剣でなくてはならない、という今日ならではのテーゼがここにはある。ともあれ、藤澤清造の辿った道筋を全身全霊、真剣にトレースしていくような作者の物狂いっぷりが鮮烈だ。

3.2.06

次第に振り込め詐欺になってきつつあるNHK

故意の未契約50万件対象 NHK民事訴訟検
NHKの橋本元一会長は2日の定例会見で、受信料未契約者への対応について「信念を持って受信料契約をしない人が推計で約50万。その人には民事訴訟を考えていかざるを得ない」と述べ、故意に契約を結ばないケースを対象に、訴訟を検討していくことを明らかにした。

やるなNHK、いいぜNHK、そのコワモテなとこ大歓迎だぜ。
とは申しましても、たとえ未契約者と民事に持ち込んでも、現行法ではあまり勝てる材料はないから、とりあえず脅してみました、というのがその本音だろう。これでビビった視聴者がNHKにゲンナマを振り込んでくれればラッキーというわけだ。まあ、やり方としては、振り込め詐欺とか架空請求詐欺みたいなもんだ。しかし、こういう詐欺での被害総額は400億円を越えるのだから、それを闇の組織ではなく、「みなさまのNHK」に使っていただくのは、ひじょうに望ましいのではないだろうか。振り込め詐欺でも架空請求詐欺でもいい、どんどんやってこませNHK。

もちろん、NHKの未契約の増加は地域共同体の崩壊と関係があるわけで(「公共放送だから払わなきゃ」という倫理観よりも「みんなが払っているから自分も」という判断基準)、そのへんをいじらなきゃ、何も変わりはしねえ。いっそのこと、今の予算の半分くらいでやったほうがいいのではないか。そもそもNHKは金持ちで金遣いが荒い放送局。ここで、ロハス路線に転向というのも悪くない。

NHKのビンボーな番組が好きだった。こういう番組は地方局の限られた予算内で作られていたから、見せ方一つにもアイディアがふんだんに盛り込まれていたものだ。たとえば、「ふるさとのアルバム」の「こんぴらさん」(1973年)は、スチルを多彩にコラージュして、コレってイメージ・フォーラムのシネマティークですか、っていうぐらいの実験映像だった。こういうの、またやってくんないかなあ。そういえば、トルストイはある小説の冒頭をこんな文句で始めてなかったっけ?

「金がかかった番組はみな一様であるが、ビンボーな番組はそれぞれ全部違う」

27.1.06

肩書きがイカしてるぜ元・自称占い師。

ホリエモンのあとは、東大和市の一夫多妻男と京大レイパーに人々の関心は引き継がれようとしているが、あと何日持ちますやら(個人的には、北海道のスケトウダラ散乱事件がツボだ。魚とパンで五千あまりの人々を満腹にさせたイエスの奇蹟を思わせるんだもの)。

例の一夫多妻君だけど、女性を脅した文句が、妙に素人くさく安っぽい。

「ここを出ていけばミンチにされる」
「ここでのことを人に話したら、殺されたり、事故に遭ったり、病気になる」

これが、脅迫ですかい、旦那。単なる寝言にしか思えないんだが。こんなもんが脅迫にあたるのなら、細木数子だって逮捕されているだろうよ。当然、ノストラダムスもな。
あたくしが暗がりでハゲおやじにこんなことを言われたら、プッと吹き出してしまうだろうよ。日頃、悪意から目をそらしてばかりいると、こんなにドラマティックな恐怖を体験できるというわけなのか。純粋ってすばらすい。

まあ、こんな低レベルのマインド・コントロールに引っかかる人はまだいるのだな、と皮肉抜きでわたしはひたすら感心するのみである。学校とか国とか会社とかマスコミとかの強烈なマインド・コントロールよりも、こんな怪しげなオヤジのコントロールに引っ張られちゃうユニークな人々が存在すること自体、世の中捨てたもんじゃないなと、何やら楽しげに思われてしまうのである。

26.1.06

ともかく神話には逆らうなっていう教訓

ライブドア騒動も一段落着いたかなと思ってテレビを付けたら、いまだ同じような報道ばかり。ホリエモンはいまだに重要なコンテンツらしい。せいぜい長生きしてくれよ。
ま、この騒動、5年後には忘れているような、よくある話である。
簡単な構図にしてみれば、これだけにすぎない。
宗教的な人間(組織)が、神話的な人間(組織)に葬られた。

宗教的とは、「教義」をもとに行動することである。「教義」という、これまでになく、突飛で、挑発的なものを「これが大事なんだぜ」と持ってこれるから、行動はそれ以外のものに縛られない自由さがある。
一方、神話的とは、「現状」をもとに組み立てられた物語に沿って、行動することだ。「神話」は、自分たちの民族や国家がどのように誕生したか、その正当性を証明するために都合よく作られた物語。こういう幻想を信じておれば、とりあえず破綻はない。

ホリエモンの教義は「なんでも金で買えちゃうもん」というあからさまな拝金主義と、アングロ・サクソン譲りの合理主義だった。これが、日本経済を支えている「神話」と噛み合わなかったというわけで。そんで、一度潰そうと思えば、法律など解釈次第。

宗教的な人間は、ともかく勢いがあるから、一定の人気を集めやすい。伝統などに反発する者からの支持もある。しかし、宗教的人間は、神話的人間によって占められた伝統勢力によって、必ずや潰される。これが日本の歴史といっていい。
平将門、織田信長、天草四郎、皇道派、学生運動……。

これが、毎回のように繰り返されるだけである。まったく退屈きわまりねえ。

まあ、ホリエモンが逮捕されたのは、彼が裏の世界に中途半端にしか繋がっていなかったからのような気もするわな。もっと悪人に徹して立ち回っておれば、検察も手を出せなかっただろうに。目立ちたがる人間は、そういうところに疎い。

この事件について、フランスのリベラシオンが面白いことを書いていると、日刊スポーツが報道している。
日本の大企業経営者や政治家は、ヤクザの不正行為には目をつぶることがあっても、堀江氏の米国風で無礼な日和見主義は拒絶した

(原文)Si la plupart des grands patrons et politiciens nippons ferment en partie les yeux sur les agissements illégaux de la mafia nippone (les yakuza), caste ancestrale à la tête, dit-on, d'environ 30 000 entreprises légales au Japon, ils refusent l'opportunisme insolent, «à l'américaine», de Horie.

ううっ、こんな真っ当なこと、日本のメディアは絶対に言えないよな……。財界や政界にはヤクザがねっとりと絡んでるなんて、こたあ。
このリベラシオンのホリエモン紹介はなかなか細かい。彼のニックネームが「ドラえもん」から来ているなどなど。

20.1.06

文化の均質化に異を唱え、恵方巻の置いていないコンビニを求めて街を彷徨う。

この時期、コンビニに行くと、恵方巻というものが売られている。去年あたりから目立ってきたが、今年はそれがもっと徹底されているようだ。どこのコンビニに行ってもコーナーが準備されているなど、恵方巻を扱っていないコンビニを探すのが大変なほどである。

恵方巻とは、なかに7種類の具を詰め込んだ太巻きなのだが、これを節分の日、一定の方角を向き(それは毎年変わるそうである)、願い事をしながら無言で食べる(まるかぶりする)のだという。昨年、その話を聞いたわたくしは、なんておバカな奇習だぜ、と面食らった。紳士淑女のみなさんが一斉に、一定の方角に向かって寿司を黙ってもぐもぐと喰らうビジュアルを想像し、おかしみを禁じ得なかったのだ。こんなマヌケなことは、メッカの方角を向いて祈るイスラム教徒への冒涜的なパロディではないかと思ってしまったほどだ。

恵方巻は、大阪あたりの風習だという。なるほど、そういう民俗があるのはわかる。でも、そんなヘンなものを全国に広めてどうする気なのだ? イタコは恐山に居ればいいのだし、ナマハゲは秋田という文化的背景によって成立しているものだ。イタコが歌舞伎町の角で口寄せをしていたり、ナマハゲが世田谷区の住宅街に出没なんてことになれば、ありがたみや怖れ、奇抜ささえもなくなってしまう。

奇習は、それが生まれたところで行われているからこそ、その意味があるのである。文化の均質化は、モノゴトを本当につまらなくする。

ところで、この恵方巻、昔からある風習ではなくて、1970年代に大阪の海苔問屋の組合が始めたものだという。たった30年前とはいえ、風習は風習。30年間も続いたのも、その土地にそれが根付くだけの文化があってこそのものだろう。それが、全国に広まって、国民が一斉にまるかぶり出したら、その奇習のありがたみが失われてしまう。そのヘンテコな様子を見て、ヘンテコだと思う感性も無くなってしまう。そういう世の中って味気ないのよね。がうう。

16.1.06

条件


この画像は、変人ピアニスト大井浩明氏がある朝突然送ってきたものである。
「のだめカンタービレ」という売れ線マンガ一コマらしいが、わたしはこの作品はまだ読んだことがない。だから、このコマのコンテクストがどうなっているのか、サッパリわからぬのだが、おそらく「オマエも山形出身だから、こういう気持ちになることあるんやろ?」というメッセージなのだろう。いや、遠く故国を離れている大井氏自身の心情がそこに密やかに仮託されているのやもしれぬ。

ともあれ、モノゴトに嫌気が指したときはどこかに逃げ落ちたいという気持ちはわたしにもある。こういう場合、「奥多摩に籠もりたい」などと真っ先に考えてしまう。無意識のうちに、交通費やらを計算してしまっておるのかもしれぬが。

山形に帰りたいと思うときももちろんある。
モンテディオ山形の大事なホームゲームが控えているときとか、親戚親兄弟が亡くなったときとか、財産分与するからとりあえず顔を見せろと言われたとか、「会いたくなったから、すぐ来て」と初恋のあの娘に言われたとか、「今回☆ラッキー☆なことに、あなただけを特別にご招待します。もちろん完全無料!!」なんてメールが来たときとか……。
要するに、あまりそういう機会は多くはない、ということである。

ほかに強いて挙げれば、東京で思わず蕎麦屋に入ってしまい、何とも味気ない蕎麦を食っているときである。なんだい、この白々としたソウメンみたいな代物はよ。しかも、ここいらの原住民は「蕎麦というものはな、タレにちょっとだけ付けて食うんだよ」なんて説教こくから、たまったもんじゃないずら。こんな貧しい食文化を目の当たりにすると、だしぬけに山形に帰りたくなることがあるものである。

そもそも、このセリフ「もうイヤ! 山形へ帰りたい!!」じゃ、オレ様的にゃ切迫感がまるで出てないんだな。ここはこうあるべきではなかろうか。
「もうやんだは! 山形さ帰りだいず!!」
うん、こっつの方がずぅぇっとリアルだよ、おっかさん。

14.1.06

「砂の女」の怖さ

図書館からビデオを借りてきて、映画「砂の女」を見ちまう。監督が勅使河原宏、武満徹が音楽を担当した、名作映画だ。岸田今日子の田舎くさい官能性もハマってる。安部公房の原作に忠実で、映画ならではの突飛な結末などはないものの、久々にこういうテイストの作品に接して、色々と考えさせられたもんだ。

最近、安部公房を読んでいる人が少ないような気がどこかでしていた。わたしが大学に入ったとき、「オレはコーボー・アベの研究をするんだ」と言っているヤツがいた。しかし、こういう学生は今はいないような気がする。映画を見てこの理由が、なんとなくわかった。

あらすじを書いておく。砂浜へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底の一軒家に閉じこめられる。そこには女が一人で住んでいて、家と村を守るため、脱出しようとする彼を引き留める。彼は脱出に失敗、失意を味わいながらも砂穴の生活を続ける。しかし、その生活に慣れていくうちに、新たな日常のヨロコビを発見し、「逃げるのはいつでもできるさ」と、 訪れた千載一遇の逃げるチャンスを自ら退ける。

女や村が男を砂穴から外に出さず、そこに同化させようという恐怖感は、この小説を初めて読んだ15年前には、わたしにとってまだまだアクチュアルであった(ムラに収束されること、家庭に組み込まれることに対して、今でも恐ろしさを感じちゃちゃうんですな)。だから、最後に主人公の「このまま、砂のなかで暮らしてもいいや」との開き直りには、まさに「敗北」という感想を持ったものだ。

しかし、今の世の中全体では、わたしが覚えたような恐怖が希薄になってきているように思える。砂穴でのまったりした幽閉生活が、面倒な「外」に出るよりも気楽になっている風潮が高まっているのではないか。因習で固められた単調な日常のほうが、モノゴトを深く考えずに済むし、人々はそちらのほうを「安定」という言葉に託して嘱望しているように思われる。これじゃあ、「砂の女」の意図した恐怖感がまるで伝わらねえ。安部公房がサスペンスあふれる筆致で描こうと、武満徹が恐ろしげな音楽をつけようと、今を生きている人たちは、「なんで、それが怖いの?」と思ってしまうだろう。

「敗北」することによって、明るい未来が待ってるんだわさ、という考えには同意する。でも、そのこと自体が「敗北」とも思われないことが、あたいにはちと怖いのさ。

8.1.06

【今年の初夢】刑務所が本だらけ

オウム説法集は「一般図書」 岐阜刑務所、持ち込み制限(朝日)
オウム真理教の説法集は宗教上の「経典」とは認めない——。そんな刑務所の判断に、服役中の元幹部が異議を唱えている。受刑者は通常、一般図書3冊に加え、宗教の経典や辞典などを別枠で持ち込める。だが、刑務所側は「オウムは宗教法人ではない」との理由で説法集を経典と認めていない。元幹部は「法人格の有無で差別するのは憲法違反だ」として、国に100万円の慰謝料などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

法人であるのか、そうでないのかによって、宗教であるかどうかが決められる。
まあ、明らかにおかしいのだけれど、お役所にとっては宗教かそうでないものに明確に線引きしなくちゃ、面倒でやってらんねえってことなんだろうな。そうでもしなきゃ、「完全自殺マニュアル」だの「アンチ・オイディプス」だの「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」だの、「これは自分にとって経典だもん」と言って何冊も本を持ち込みされかねん。刑務所が本だらけになってしまいかねない。

そういえば、オウム真理教が数々の事件を起こしたとき、「人を殺すオウム真理教は、宗教なんかじゃありません」なんて発言している人をよくテレビなどで見かけたものだ。ったく、この人は宗教を何だと思ってるんだろ、と若かりしころのわたくしは結構ムカついたものだ。人の心を落ち着かせるだとか、清掃作業などのボランティアしてますだとか、そういう無害そうなものだけを宗教と呼ぼうとする風潮は何とかならんかねと。

宗教とは、過激なもんじゃなくてはいかん。少なくても世俗の通念に反抗するものじゃなくちゃ、と思うのだが、最近ではそうではなくなってしまった。最初はキリスト教も仏教も、既製の認識を変えるという目的で興された、かなりヤバいものだったのにさ。
社会と宗教とは、当初は相容れないものだったのだけれど、だんだんと宗教が社会に適合していく歴史が、宗教史ってわけなんだろうな。もちろん、そうなったものはもう宗教ではなくなって、抜け殻みたいなもんなんだが。

オウム真理教がクローズアップされたとき、こいつは思いっきし宗教くせえのが現れたぞ、とわたしは興奮したものだが、ヤツらはあまりにもバカ正直に宗教路線を邁進してしまった。「人を殺してもオッケー」なんて調子こいて息巻くのは、あまりにも正攻法すぎて、新味さえない。世俗が力を持ちすぎている世界では、まったく愚かだ。何ら影響力を発揮せずに、みっともねえ集団で終わっちまうだけだ。
もっとチクチクと嫌らしく認識を変えていくような宗教が静々と現れないもんか。それまで、わたしくは大人しく正法眼蔵(ATOKは「消防現像」なんて変換しやがる。相変わらずバカですなあ)でも読んでることにすっべ。

もちろん、この「宗教」という言葉、そっくりそのまま「芸術」と読み替えてもいいわけで。