17.10.09

たまにはだいひょうのはなしを

サッカーは週に3試合以上は観戦するけど(ほとんどはテレビだが)、日本代表の試合はほとんど観ない。
つまらないからである。チームとして、何をしたいのか、はっきりしないので、退屈だし、時間の無駄だからである。JFLとかの試合でも観ていたほうが、ずっと面白い。

オシムが監督をやっていた頃は、勝ち負けはともかく、コンセプトが明快で、「やっと日本代表にも文明開化がやって来た」と思ったものだ。トルシエのときは、彼のやり方が強引で、まるで幕末のペリーかハリスみたいで、妙なところで楽しめた。しかし、岡田監督になってからは、また暗黒の時代に逆戻り。

「なぜカズ外した?」に岡田監督不快感

岡田監督「もう、二度と出ねえ」 過激インタビューの一部始終

いやもう、この監督、かなりヤバいのではないか。監督というのは、言葉で説明しなければならない義務がある。選手に対して、そしてファンに対して。
カズを外したことが悪いのではない。そのことを少しも負い目に感じる必要さえない。自分の行った判断について、言葉で説明できない、あるいはしようとしないことが問題なのである。それをテレビのインタビューで突っ込まれて、怒るだけでは、どんだけ痴れ者なのか。もちろん、なんでもかんでもストレートに話す必要はない。レトリックを駆使してはぐらかす、ことだって、十分なコミュニケーションになる。そういうことをせずに、インタビュー拒否ではあまりにも幼すぎる。

サッカーとは、畢竟、コミュニケーションのスポーツだから、こういう人は監督に向いていないのである。クラブのように、代表は時間をかけてコミュニケーションを構築できない。一瞬にして、それを成立させるような手腕が必要なのだ。

テレビ局の対応も不自然だ。監督に謝罪するとか、まるっきり必要ない。「そんなんでキレるお前がバカ」と悠然としてればいいのである。そもそも、日本のインタビューでは、インタビューイに不快な質問をするのは避けようという「空気」が強いのが問題なのだ。聞きたいことを聞かず、予定調和的に終わる(仕込まれた)インタビューなど、単なるプロモーションに過ぎない。そして、対話がない国のサッカーは弱い。

ただし、テレビ局とケンカすることがエンターティナーとして責務であると岡田監督が考えているなら、話は別だ。それは興業としては悪いことではないからだ。面白い「見せ物」で、日本代表に注目を集めるという考えならば。だったら、もっと激しく、過激にやってこませと言うしかないのである。

12.10.09

自衛隊 自衛隊 私は私よ 関係ないわ(中森明菜の節で)

ハードディスク・レコーダーの奥底を掃除しようと思ったら、「なんでこんなの録画したんだろ」というような映像がごろごろ出てきて、面喰らう。そのなかに『戦国自衛隊』と『戦国自衛隊1549』という映画があった。「自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、現地人とバトル」という同じ主題を用いた作品が、昭和と平成という時代を隔てていかに描かれているのだろうかと思って、二つ続けて見てみた。

『戦国自衛隊』は、1979年製作。70年代の角川の映画だけあって、やたらにアツい。自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、「ここで戦って天下を取ってやる」という野望を抱いた伊庭三尉は武田信玄との戦いに勝利するが、戦力を失って最後は滅亡するというストーリー。タイムスリップするときの、サイケデリックな映像効果がたまらなく70年代。劇中に流れる気だるい歌謡曲がたまらない。

一方、『戦国自衛隊1549』は、2005年公開。もう完全に平成といったクールな映像で、CGも多用、前作のようなエロやグロは完全に封印されている。自衛隊の実験中に、戦国時代に飛ばされてしまった中隊。彼らのせいで歴史が狂い、磁場に変化が起きていることから、もう一度別の中隊が戦国へ飛び、歴史を修正しようというストーリー。平成の作品だから、もちろん気の抜けるハッピーエンドが用意されている。

二つの作品、その違いがもっとも顕著なのは、戦国に飛ばされた個々の自衛隊員の描き方だ。『戦国自衛隊』は、現地の女を武力でかき集めハーレム作っちゃう奴、現地の農村に溶け込んじゃう奴、村の女と出来ちゃう奴、恋人と駅で会う約束を果たすために脱走しちゃう奴、など、それぞれの隊員の個性がくどいまでに描かれていた。一方、『戦国自衛隊1549』は、隊員はほとんど逸脱行動は見えず、上官に従う忠実な兵隊に過ぎなく、よって、その個性もほとんど描かれない。「個性などくだらない」という親世代に反抗した昭和の世代と、「個性は大事です」と教えられて「そんなもの必要ない」と長いものに巻かれたがる平成の世代の違いを如実に表しているようだ。

『戦国自衛隊』の最後は、武器を失った主人公たちが隠れている廃寺を、かつて友情を熱く交わした長尾景虎に襲われ、全員死んでしまうシーンである。システム(あるいは運命)に押しつぶされる人間たちを描くというテーマがそこにある。『戦国自衛隊1549』のほうは、救ってやった武士が仲間になって主人公たちの強力な助っ人になるなど、時代を超えた友情が華々しく描かれる。「友情」(え? 友愛?)こそ大事という、これまたファンタジー系メディア調のテーゼがはっきりと刻印されているのだ。

さすが角川映画というべきか、『戦国自衛隊』の燃え盛る廃寺のシーンは、なかなかに迫力がある。クサいくらいの滅びの美学。これに対応するかのように、『戦国自衛隊1549』にも城が爆発する場面があるが、こちらはCGで軽々と描く。その爆破が激しければ激しいほど、CGならではのヨソヨソしさが強調される。ゲームみてえ。

両作品とも、自衛隊という、取り扱い注意の団体を扱っていると共に、国防やら、平和やらに、言及したいという欲望が見え隠れする。最後に、象徴的なセリフを二つばかし抜き書きしてみた。

「昭和の時代に戻って何になる? ぬるま湯に浸かった平和な時代に戻って何になる? 武器を持っても戦うことができない時代に戻って何になる?」
『戦国自衛隊』〜戦わずに現代に戻りたいという隊員に向かって、伊庭三尉が説教する場面より

「平成の日本人が日本人であることを誇りにできる強固な国家を作ってやる」
『戦国自衛隊1549』〜信長に成り代わった的場一佐が、歴史を変える必要性を説く場面。