20.1.06

文化の均質化に異を唱え、恵方巻の置いていないコンビニを求めて街を彷徨う。

この時期、コンビニに行くと、恵方巻というものが売られている。去年あたりから目立ってきたが、今年はそれがもっと徹底されているようだ。どこのコンビニに行ってもコーナーが準備されているなど、恵方巻を扱っていないコンビニを探すのが大変なほどである。

恵方巻とは、なかに7種類の具を詰め込んだ太巻きなのだが、これを節分の日、一定の方角を向き(それは毎年変わるそうである)、願い事をしながら無言で食べる(まるかぶりする)のだという。昨年、その話を聞いたわたくしは、なんておバカな奇習だぜ、と面食らった。紳士淑女のみなさんが一斉に、一定の方角に向かって寿司を黙ってもぐもぐと喰らうビジュアルを想像し、おかしみを禁じ得なかったのだ。こんなマヌケなことは、メッカの方角を向いて祈るイスラム教徒への冒涜的なパロディではないかと思ってしまったほどだ。

恵方巻は、大阪あたりの風習だという。なるほど、そういう民俗があるのはわかる。でも、そんなヘンなものを全国に広めてどうする気なのだ? イタコは恐山に居ればいいのだし、ナマハゲは秋田という文化的背景によって成立しているものだ。イタコが歌舞伎町の角で口寄せをしていたり、ナマハゲが世田谷区の住宅街に出没なんてことになれば、ありがたみや怖れ、奇抜ささえもなくなってしまう。

奇習は、それが生まれたところで行われているからこそ、その意味があるのである。文化の均質化は、モノゴトを本当につまらなくする。

ところで、この恵方巻、昔からある風習ではなくて、1970年代に大阪の海苔問屋の組合が始めたものだという。たった30年前とはいえ、風習は風習。30年間も続いたのも、その土地にそれが根付くだけの文化があってこそのものだろう。それが、全国に広まって、国民が一斉にまるかぶり出したら、その奇習のありがたみが失われてしまう。そのヘンテコな様子を見て、ヘンテコだと思う感性も無くなってしまう。そういう世の中って味気ないのよね。がうう。

16.1.06

条件


この画像は、変人ピアニスト大井浩明氏がある朝突然送ってきたものである。
「のだめカンタービレ」という売れ線マンガ一コマらしいが、わたしはこの作品はまだ読んだことがない。だから、このコマのコンテクストがどうなっているのか、サッパリわからぬのだが、おそらく「オマエも山形出身だから、こういう気持ちになることあるんやろ?」というメッセージなのだろう。いや、遠く故国を離れている大井氏自身の心情がそこに密やかに仮託されているのやもしれぬ。

ともあれ、モノゴトに嫌気が指したときはどこかに逃げ落ちたいという気持ちはわたしにもある。こういう場合、「奥多摩に籠もりたい」などと真っ先に考えてしまう。無意識のうちに、交通費やらを計算してしまっておるのかもしれぬが。

山形に帰りたいと思うときももちろんある。
モンテディオ山形の大事なホームゲームが控えているときとか、親戚親兄弟が亡くなったときとか、財産分与するからとりあえず顔を見せろと言われたとか、「会いたくなったから、すぐ来て」と初恋のあの娘に言われたとか、「今回☆ラッキー☆なことに、あなただけを特別にご招待します。もちろん完全無料!!」なんてメールが来たときとか……。
要するに、あまりそういう機会は多くはない、ということである。

ほかに強いて挙げれば、東京で思わず蕎麦屋に入ってしまい、何とも味気ない蕎麦を食っているときである。なんだい、この白々としたソウメンみたいな代物はよ。しかも、ここいらの原住民は「蕎麦というものはな、タレにちょっとだけ付けて食うんだよ」なんて説教こくから、たまったもんじゃないずら。こんな貧しい食文化を目の当たりにすると、だしぬけに山形に帰りたくなることがあるものである。

そもそも、このセリフ「もうイヤ! 山形へ帰りたい!!」じゃ、オレ様的にゃ切迫感がまるで出てないんだな。ここはこうあるべきではなかろうか。
「もうやんだは! 山形さ帰りだいず!!」
うん、こっつの方がずぅぇっとリアルだよ、おっかさん。