3.4.07

フッキと異教徒の踊り。

日曜。今シーズン初めてのモンテディオ山形の試合を見物しに味スタへ参拝。5分遅刻で入場したあと、いきなりレオナルドがフッキを引っ張ってPKの現場に遭遇。なんてこと。フッキに一発決められ、すでに心のなかは曇天。

後半はモンテ側に攻撃のカタチがたくさん作れて、こりゃあイケるかもと思わせつつも、やはり決定力がメロメロ。ヴェルディは、策がないのか策なのか、攻めさせ最後に刈り取る流れ。んもう、今シーズンでもっともいい攻めのカタチを見せつつも(山形の波状攻撃を見たのは、久々じゃった)、結局はPKで取られた1点でヴェルディに敗れ、トホホと自転車をさいたま方面に走らせる。今日はこれから「信仰の現場」へと向かうのだ。

調布から三鷹→田無→新座→志木と走って、さいたま市への道のりは、案外遠かった。荒川の橋の上で両足をほぼ同時にツッて悶絶。調布までゲーム開始に間に合うように甲州街道を飛ばしまくった祟りじゃ。ふと、首筋に手を回すと、異様に砂っぽい。黄砂浴びまくり。

なんとか18時にさいたまスーパーアリーナへ。今晩の夜の出し物は「Berryz工房」のコンサートなのである。Berryz工房というユニットは最近まで知らなかった。ハロプロという言葉さえ知らなかったのだ。最近知り合ったS君が、このユニットの篤実な信奉者で「一度詣でましょう」と、俺のような不心得者を誘ってくれたのである。有り難く、得難い経験である。

あたくしは、アイドルとか美少女系とかには、生涯一度もハマったことがない。いつも身の回りのイカれてキュートなお姉さんにばかり気を取られておって、そんな精神的余裕がないのである。でも、篤い信仰心を持つことはいいことだ。こういう体験がないから、自分は精神的成長が足りないのではないかなどと疑ってみたりもする。というわけで、この手のライヴは初めてだった。

オープニング直前に会場入りしてみると、やはり、なかなかすごい光景なのであった。「連中」が騒いおる。「連中」とは、世界各地に点在するコアなサポーターたちのことを自分が勝手に呼び表わしたものだ。でも、ここいらの連中は、ビールを飲みまくって強烈なブーイングかますわけでもなく、ゲバラとかドクロの旗を振り回してもない。服装も、レッズみたいに赤一色というわけでもなく、黄色とかピンクとか明るい色が多い。

サッカーのユニホームの人も多い。オランダ代表ユニに「MOMOKO」などとメンバーの名前がマーキングしてある。語感からして、まるでアフリカ系の移民みたい。技術と身体能力高そう。左サイドに置きたいアタッカーだ。一方、ブラジル代表ユニに「RISAKO」。現地、ポルトガル語だと「ヒサコ」になる(ホナウジーニョ、ヒバウドみたいに)。これが「ヒサッコ」だとブラジル人にリアルでいそう。右サイドバックで使いたい。

異教徒のなかにポーンと放り込まれて、彼らの激しい動きとステージ上のご神体との連繋などにひたすら見入っていた。隣のS君は、ほかの誰もやっていないような身体芸を披露している。これはオタ芸と呼ばれるものらしい。なかなか呪術的なオーラを感じさせた。アイドルのコンサートは、一遍上人の時宗と同じ構造を持っていると誰かが書いてたが、まさにそれを実感。時宗から阿国歌舞伎を経て、ニッポンの近代アイドルのステージは確立されたのだろう。

面白いと思ったのは、メンバーの挨拶で「自分は中学○年生」などと、必ず学年を付けることだった。S君によれば、「4月だから、そういう挨拶になるのでしょう」とのこと。そうか、4月は進級、入学のシーズンなのかと、何年も味わったことのない季節感をじんわりと覚える。そういえば、歌詞にも「模擬試験」などの単語がたくさん出てくる。妙に日常的な「学校生活」の部分が持ち込まれていることが不思議な感じ。

つんくの作った歌は、歌詞にコラージュ的なものが多いという印象があったけれど、スローテンポの曲になると、いかにもなストーリー性を伴った陳腐なものになる。しかも、「青春」という言葉がたくさん出てくる。「青春」って、まんまオヤジの語彙じゃん。いや、歌っている彼女らにしてみれば、オトナにコントロールされているのだから、そういうコンセプトをあえて露出するっていう方法もアリなのか。それにしても、さいたまスーパーアリーナのスピーカー音声はひどかった。全部割れまくってますよ。それでも、文句の一つも言わず、歌って踊ってるみなさんはすごい。見よ、これが信仰者の姿だ。こういうことがクラシック系の演奏会であれば、主催者が血祭りに上げられてるぞ。ひー。

終わったあとのアリーナの通路は、「連中」に囲まれて芋洗い状態。S君が「いつもアウシュヴィッツ状態なんですよ」と気の効いたことを言う。おかげで、手続き上の間違いでユダヤ人たちと一緒に収容所に連れて来られたような気分になる。こういうとき、人間の理性はどう働いて、どうやって自分はこの窮地を切り抜けられるのか、しかし自分だけ解放されるのは人道的にどうなのだろうか、いや、自分だけでも生き残ってこの惨状を後世に訴えなければならぬ、などというドラマティックな思考がぐるぐると頭を廻る。