16.12.05

実名はおいしい

犯罪被害者は実名発表を キャスターらが申し入れ(共同通信)
犯罪被害者の実名、匿名発表を警察の判断に委ねる政府の犯罪被害者等基本計画案をめぐり、鳥越俊太郎さんらテレビキャスターやジャーナリスト計21人が16日、この記述を削除、修正するよう求める緊急提言を内閣府に申し入れた。
 提言は、(1)実名発表がされないと犯罪の背景や事実確認の検証、調査が困難となり国民に真実が伝わらない(2)原因究明に支障が生じ、事件の再発防止に影響を与える(3)捜査ミスや怠慢隠しのために恣意(しい)的に使われる可能性がある−と指摘。


事件や事故の被害者の名前を容赦なく出して報道するのは、今や日本のメディアの特徴でもある。
報道機関にとっちゃ、事件や事故はお宝コンテンツだ。それをいかに扇情的に暴いて、ワイドショーに仕立て挙げ、視聴率を上げなければいけないか、ということに関係者は心血を注ぐ。
だから、被害者が匿名になってしまっては、ひじょうにヤバい。被害者が匿名だと、ドラマティックな物語作り(これを日本では報道と呼ぶ)ができなくなってしまうからである。

一方、視聴者からみれば、「ここで亡くなった人は、あなたとは関係のない人ですよ」という安心感を与えると同時に、「死んじゃったナントカさんは、本当に気の毒だなあ」という感情移入を促すために、実名報道はあるようなものである。
ヨーロッパの新聞のように「船が沈んで、男性乗組員(45歳)が死亡」程度の報道だと、「あら、この人、うちのイトコのナントカ君じゃないかしら」と不安に陥るものだ。
そして、そうでないことが確実になった場合でも、匿名であれば感情移入しにくくなる。被害者が「犬好きで親孝行の上、職場のみんなに愛されていた人」なんて情報がまるで入ってこなくなるからである。これじゃ、面白くもなんともない。

だから、記事にある(1)や(2)の理由は、まったく意味がない。匿名報道されたからといって、事件の検証に支障がでることはない。ただ、ニュースがワイドショーにならなくなって、送り手も受け手も旨味にありつけないだけである。
また、再発防止にも実名報道は役に立たない。視聴者を感情的に煽るだけで、逆に冷静な原因究明に水を差す。
確かに(3)だけは問題だけど、捜査ミスや怠慢隠しなんて今じゃ警察の枕詞みたいなもんじゃけ。

それにしても、CLトーナメントの組み合わせにはたまげた。チェルシーとバルサがまたぶつかっちゃうんだもん。うげげ。

神さまを祀ってみるプロジェクト序章



うちにはなぜか神棚のようなものがある。
単なる棚なのかもしれないが、微妙に神を祀るのに適した棚、と申し上げたほうがよかろう。
しかし、現在は箱が置かれているだけであり、その光景は殺伐たるものだ。
これでは、単なる棚にすぎない。
お前は、微妙に神を祀るのに適した棚を物置としてしか使えないのか、と嘲笑されても仕方がない。
さらに、この噂が広まって、やーい、神なき家に住んでるなんてダサーい、なんて近所のガキにバカにされたくない。
それに反応して「なにお、コンニャロ」なんて手を挙げてしまってはいけない。
「これでもくらえ」とばかりに、下半身を丸出し、なんてことをしてしまっては、もっといけない。
これは何とかしなければいけない。

神そのものを祀るのは、それなりに手続きが大変だ。
だから、それを表わす物質をそこに配置することにしよう。
でも、今日は眠いからもう寝よう。

15.12.05

不忍池で「萌え」について考えたこと

昨晩、寝床に着いてから今日〆切の原稿を一本思い出した。年末だ。
「チケット・クラシック」誌で連載している「訴」というページの原稿で、毎月コンサートのチラシを一枚取り上げ、それについて摩訶不思議なことを述べまくるという企画。
ネタとして集めていた手持ちのチラシにピンと来るものがなかったので、わらわらと資料を漁りに上野の文化会館までチャリでひとっ走りする。

ユリカモメに占領されつつある不忍池を走りながら、今回のテーマは「萌え」にしようと思った。
オタク文化の浸透により、アニメやゲームなどの二次元キャラクターなど現実に存在しない女性に胸をときめかすことなどを、最近は「萌え」と呼び表わすようになってきた。
しかし、そんな狭義な定義で、「萌え」をわかった気分でいるのは、ちいと浅薄すぎるのではないかぁ、なんてわたくしは思ってしまうのですよ。

まず、従来の文脈から切り離し、記号化するという認識力を人間は持っている。鑑賞者がその記号に自らの想像力を発揮し、新たに文脈を付与しちゃうことこそが、「萌え」の本質といえるんじゃないか。

つまり、日本文化は「萌え」そのものなのである。能の所作、浮世絵、そして昨今のアニメやゲームなど、日本が文化的に世界にアピールできたのは、「萌え」だけだといえるかもしれない。

クラシック音楽の文脈でいえば、朝比奈隆のブルックナー演奏は、まさに「萌え」だった。ブルックナーの演奏様式など従来の文脈から自由であり、しかも「これぞブルックナーっぽい」というキャラクター(それは一つの先入観=文化なのだが)を見事に具現したものだから。

非日常より日常が心の支え。

先日、サッカーのワールドカップ、グループリーグの組み合わせが発表された。
早速、ヨーロッパのメディアでは「ドイツのグループが楽すぎるんじゃね? 組み合わせ抽選にインチキがあったんじゃ?」と報じたところもある。
開催国が割と楽に戦えるグループに入るのは、前回の日韓の大会をみても明かなように、今では「当たり前」になりつつある。
真剣な戦いの場であるワールドカップに、そんな「操作」じみた抽選が行われるなんてトンデモねえぞ、と憤る人もいるだろう。
でも、ワールドカップなんだから仕方ないんじゃないの、とわたしは思う。
ワールドカップは大きくなりすぎちまった。
こんなに大きくなったものは、誰かが管理しなけば、興行として成り立たないもんだ。
多くの企業が関り、大金が動いているんだから、リスクを侵さぬよう万事順調に進めつつも、多くの人々の関心を集めるために、何らかの「操作」が必要になるってことだろう。
もちろん、「スポーツ=聖なるもの」という夢を人々から奪うことになるから、それがおおっぴらになることは、よっぽどのことがない限りありえないだろうが。

わたしもワールドカップは楽しみにしているが、アタマのどこかで、「しょせんお祭りでしょ」とも思っている。
サッカーはクラブ同士の対戦のほうが好きだし、ナショナルチームでも、EUROやアジアカップなど地域別のほうが白熱した試合を見せてくれるような気がする。
たとえば、同じオーケストラのコンサートに行くにしても、特別演奏会とか海外公演ではなく、なるべくなら地元での定期公演を聴きたいと思う。非日常より日常ってわけなんですな。

だから、わたしはFIFA主催の試合は「お祭り」として、楽しむことにしてる。それほどアツくはならない(とはいえ、前回大会はほぼ全試合観ちまったんだけどね)。
ワールドカップ開催中は、早くリーグ戦が始まらないかなあと、夏休みがなんとなく気が重いヒネくれた小学生のように過ごすんだろうな。その夏休みを充分に満喫しつつ、ね。

13.12.05

12月の南西ドイツ放送(SWR2)の聴きドコロ

久々に南西ドイツ放送のサイトにアクセスしてみたら、SWR2のライヴ・ストリーム放送が復活していた。こいつは妙に縁起が良い。自分用のメモに今月の聴き所をアップしてみる(時刻はすべて現地時間)。


●15日(木)
13:05
モーツァルト:2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ
ヴォルフガング・ホック(vn)ヴィリ・レーマン(vn)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

21:03
ラッヘンマン特集

●16日(金)
20:03
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ベンヤミン・シュミット(vn)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

●19日(月)
06:10
モーツァルト:交響曲第41番
ハンス・ツェンダー指揮南西ドイツ放送so

●20日(火)
00:05
ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》第3幕より
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送so

ヴォルフ:スケルツォとフィナーレ
フィッシャー=ディースカウ指揮シュトゥットガルト放送so


●22日(木)
05:03
ブルックナー:交響曲第9番
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送so

13:05
ビゼー:《アルルの女》組曲
井上道義指揮南西ドイツ放送so

●27日(火)
13:05
グリーク:《ペールギュント》組曲
スメタナ:モルダウ
ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送so

12.12.05

解題

このblogは、国内外に生息する蛇の生態を解明、主にヤマカガシの関東山岳地域における生息状態をレポートする、という趣旨で設けられたものでは、決してない。
では、なぜ、こういうタイトルになったのか??
もっとぐっと来ちゃうblogタイトル、たとえば「この醜悪さがたまらぬ"崖の下"日記」とか「ハツラツ!! ハアハア墓地紀行」とか、「Рай сдуру персоны」とか「この人を舐めよ」とかにすれば良かったのに、という声はあろう。

ある日の朝、目覚めとともに「蛇の道はうねうね」という言葉がアタマを去来した。あたしゃ、いったい何の夢を見ていたのか。フロイトに言わせりゃ「蛇にペニス」(なんて小説があったな。いや、ちょっと違うぞ)だし、いや、蛇は神の遣いであるからにして何らかのメッセージ性があるに違いねえ、などと妄想にふけってみたが、どうも落ち着かない。別に蛇の夢を見たわけではなく、言葉だけがニョロニョロとはい出て来ただけなのだから。
この言葉が気になって仕方なくなって、この言葉をタイトルにしたblogを立ち上げてしまった、というわけなのである。よって、このblogがどういうカタチで進行していくのか、わたしにはまったく憶測がつかない。
その言葉が「蛇の目ミシンは売れ売れ」でなかったことだけを、わたしは感謝しなければならないような気がするだけである。