18.2.06

アダルトな夜

なにやら、おおっぴらにアダルトビデオを見ることが流行っているらしい(こんなことがニュースになって全国に報道されるのか、という事実にまず驚くわけだが)。
<アダルトビデオ>免許更新講習で誤放映 福岡県警の試験場(毎日新聞)
京大生が図書館でアダルト映像見る、女子学生が届け出(読売新聞)

こういう風潮が広まると、日本のエロ文化にも大きな影響を与えることは必至である。18歳以下は禁止だと口うるさく制止され、「そんなの見てんの、エッチね」とからかわれ、こっそりと家族が寝静まってから見るからこそ、アダルトビデオはエロく、代え難きものとして君臨しているわけである。

性衝動のスイッチというものは、後天的に作られている要素もあるのではとわたしは思っている。他人が性交する映像を見ると興奮するという作用も、成長の過程で文化として習得したといっていいのではないかと。だとすれば、鰯の頭を見ると性的な興奮が高まるという人がいてもいいわけだが、たぶんその人は社会的に苦労することことだろう。

しかし、当たり前のようにアダルトビデオを堂々と見ることが広まれば、そのようなビデオ自体が性衝動を引き起こすスイッチに成りにくくなってしまうのではないか。とくに、幼いうちからそういうことが当然になれば、エッチビデオで興奮するという文化は無くなってしまうのではないか。わしゃ、それでも別に構わないんだが。

いや、今ではアダルトビデオや官能小説などは、すでに「性衝動のスイッチ」ではなく、「癒し」として機能しているような気がする。高橋源一郎が「エロゲーは癒し」といっていたように、それらは衝動を高めるものではなく、精神を落ち着かせるために存在しているとのではないかと。そこに描かれているものは性行為という日常にすぎないし、それを導くためのストーリーが用意される。まるでテレビの「水戸黄門」のように、平穏無事な世界が描かれている、という見方だってできよう。

アダルトビデオは癒し——そんなことを言えば、アダルト業界や愛好者の方々はちょっとムカつきを覚えるかもしれない。わたしだって、「クラシック音楽って癒しよね」とかなんか言われれば、問答無用でそいつの胸倉を掴み、はっしはっしとその頬を打擲し、そのまま地べたに引きずり倒して、拳骨を振り上げながら「これが癒しだというのか、この拳が癒しだというのかぁ」と声を張り上げ、たくなる気持ちをグッと抑え、振り上げた手で髪をかき上げ、「まあね、そういう効果も作品には内在しているのでしょう。そもそも創造というものは、作り手ではなく、受け手のほうにウェイトが置かれるから」などとロラン・バルトの愛読者のようにニコヤカにのたまうに違いない。この腰抜けめが。

だから、アダルト系の人だって、「アダルトビデオは癒し」なんて他人にぬけぬけと言われた瞬間、「問答無用でそいつの胸倉〜〜中略〜〜ロラン・バルトの愛読者のように振る舞う」などいう葛藤めいた過程をたどっていたとしても不思議ではない。

もちろん、「癒し」とか「水戸黄門のように平穏無事」という言葉に、賤しめてやろうという魂胆は宿ってはいない。そればかりか、決まった枠組みのなかで、細かい差異を見出して楽しむという行為こそ、とても高度な鑑賞態度であるようにも思われるのである。そこには複雑な人間関係も、錯綜した心理状態も描かれることはない。そうした世界ならではの独特な詩情があると思われるのである。

先日、官能小説を作家の方よりいただいた。この方が拙著「わたしの嫌いなクラシック」をお読み下すって、大いに官能され、ご著書をお送りなすったのだという。わざわざありがとうございますです。なんとオペラをモティーフにした官能小説らしいので、今宵にでも、じっくりまったり癒されるとするか。