26.8.10

故佐治敬三氏に代わって、サントリー芸術財団をひっぱたきたい。

作曲家の夏田昌和氏が覚醒剤取締法違反で警視庁に逮捕された。今月末には、サントリー・サマー・フェスティバルで2作品が演奏され、本人も芥川作曲賞の選考員として、公開選考に臨むはずだったが、作品は演奏されず、選考員も外されることが公表された。

容疑者が公の場に出てきて、役付きで他人の作品を選ぶ、なんてことはなかなか難しいというのはよくわかる(本人だってやりたがらないだろう)。しかし、過去の作品の演奏が直前になって取り止めというのは、過剰反応がすぎるのではないか。何の根拠もないのだから。それが証拠に、取り止めた理由は絶対に公表されることはないだろう。その理由を言語化することさえ出来ないのである。

この決定を知り、「ああ、やっぱりな」という気持ちがしたのは事実である。「嘘だろ? 信じられない」じゃなくて、「ああ、やっぱりな」。自分がこういう気持ちになったのには、ちょっと驚いた。とても嫌な気分だ。だって、こういう「ああ、やっぱりな」という淀んだ気持ちを多くの人が抱くことによって、世の中はだんだん悪くなる、ということだもの。

フェステバルを主催するサントリー音楽財団および東京コンサーツが、自らのイメージを守り、文化庁からの助成金をカットされるのを恐れるあまり、「そういう悪い作曲家は自分たちで処分しました」ないし「そういう作曲家はいなかったということで」にしてしまいたくなる気持ちもよくわかるのだ。ケガレを徹底して忌避する文化の国じゃもの。

でも、彼らが夏田氏の作品を予定通り演奏したとしたら、どうなったのだろう。騒ぐマスコミもいるだろう。週刊新潮あたりが「シャブ中の作曲家が書いた作品をサントリーホールで堂々と演奏」なんて嫌みたらしく書くだろう。聴衆の一部からは「くだらないプレッシャーに負けず、よくやった。さすがメセナの王様サントリー」と賞賛の声も挙がるのは間違いないが、一方では「なんのコンサートか知らないが、とにかくけしからん」と主催者にクレームを付ける人もいるだろう。

問題となっているのは、文化庁のお役人が「薬物中毒者の作品を演奏しちゃうようでは、来年からサントリー芸術財団さんには助成金出しませんよ」と言ってくるケースだという。これをフェステバル関係者、並びに現代音楽業界の人々がひじょうに恐れているらしい。でも、こんなことが本当にあるのか、謎なのだ。なにしろ、何の論理も説明もそこには展開されそうもない。確かに、官僚からしてみれば、何らかの理由を付けて助成金をカットしたがっているご時世だということはわかる。でも、本当にこんな前例あったの? 実はそう思い込んでいるだけじゃないの?

必要以上にお上をモンスター化していないだろうか。十分な議論も無しに、「そんなことは、お上が許さないだろう」と勝手に思い込んでいないだろうか。そうやって、国家の権力は勝手に大きくなってしまう。わたしたちの考えを狭めていってしまう。国はこう言うだけだ。「表現の自由を損なうような検閲めいたことはやるわけないじゃありませんか。ええ、あなたたちが勝手に判断したまでのことで」。

最終的に判断を下した、主催者については残念に思う。そして、その判断を支えた「ああ、やっぱりな」と思ってしまった一人である自分自身に対しても憤りを感じる。だから、その精神を踏みにじられた故佐治敬三氏に代わり、この手を振り上げて、サントリー芸術財団をひっぱたきたい。俺も俺の手でひっぱたきたい。部室に飛び散る汗と涙。そんなビミョーな感じの青春ドラマなのでありました。