15.12.05

不忍池で「萌え」について考えたこと

昨晩、寝床に着いてから今日〆切の原稿を一本思い出した。年末だ。
「チケット・クラシック」誌で連載している「訴」というページの原稿で、毎月コンサートのチラシを一枚取り上げ、それについて摩訶不思議なことを述べまくるという企画。
ネタとして集めていた手持ちのチラシにピンと来るものがなかったので、わらわらと資料を漁りに上野の文化会館までチャリでひとっ走りする。

ユリカモメに占領されつつある不忍池を走りながら、今回のテーマは「萌え」にしようと思った。
オタク文化の浸透により、アニメやゲームなどの二次元キャラクターなど現実に存在しない女性に胸をときめかすことなどを、最近は「萌え」と呼び表わすようになってきた。
しかし、そんな狭義な定義で、「萌え」をわかった気分でいるのは、ちいと浅薄すぎるのではないかぁ、なんてわたくしは思ってしまうのですよ。

まず、従来の文脈から切り離し、記号化するという認識力を人間は持っている。鑑賞者がその記号に自らの想像力を発揮し、新たに文脈を付与しちゃうことこそが、「萌え」の本質といえるんじゃないか。

つまり、日本文化は「萌え」そのものなのである。能の所作、浮世絵、そして昨今のアニメやゲームなど、日本が文化的に世界にアピールできたのは、「萌え」だけだといえるかもしれない。

クラシック音楽の文脈でいえば、朝比奈隆のブルックナー演奏は、まさに「萌え」だった。ブルックナーの演奏様式など従来の文脈から自由であり、しかも「これぞブルックナーっぽい」というキャラクター(それは一つの先入観=文化なのだが)を見事に具現したものだから。