9.2.13

文化庁長官のありがたいお言葉について


 2月6日、東京藝術大学美術学部で『文化庁長官と語る会[白熱教室 第2弾] 文化芸術は社会に役に立つか』というイベントがあったらしいのだが、その会場で撮られた一枚の写真がちょっとした話題になった。いかにもお役人が喜んで作りそうなPowerPointのスライド。ここには、こんなことが書いてある。


一般の人が芸術を体験・鑑賞することで何が得られるか?

(1)音、色彩、形、香り、味などが与える心地良さ

(2)メッセージに感動
・苦難を乗り越え、目標を達成する喜び
・愛が成就した喜び
・家族愛(親への孝)の素晴らしさ
・友情の素晴らしさ
・正義が最後には実現することの素晴らしさ
・家系、組織、国に尽くすこと(忠)の素晴らしさ
・恩、義理に報いることの素晴らしさ
・それらが叶わなくても、一途に努力し続けることの素晴らしさ
・教訓

引用先
https://twitter.com/OkmtEli/status/299779691806593024/photo/1


 まあ、こういうの見ちゃうと、脊髄反射で「芸術を何だと思っているんだー、おめー」とつい血が滾ってしまうものだが、見れば見るほど不気味ではある。なんたって、こういう場に「忠」だの「孝」だの文字を引っ張ってくるなんて、喧嘩売ってるんじゃないかとしか思えぬ蛮行。
 さらに、家族愛とは、親への孝としっかり定義(それ以外はあまり認めなくないんだよーという意志表示)しているのが、なんとも時代錯誤であり、最後の「教訓」と一言ポツリと示されているのが、これまた怖いくらいにスパイシー。
 まさしく、このリストこそが、芸術そのものではあるまいか、などと思ってしまうほどだ。

 タイトルの「一般の人」というのも、秀逸だ。いざとなれば言い逃れできちゃうもんね的なお役人の作文技術が存分に発揮されている。つまり、「芸術は心地良さだけを与えるものではない」なんて主張する人は、一般の人とは到底認められぬ、退廃的あるいは狂った馬鹿者である、なんてエクスキューズできちゃいますものね。

 当日言った人のツィートなどを参照すると、主催者が題した「白熱教室」とはかけ離れ、長官が一方的にレクチャーし、都合の悪い質問は軽くスルーといった状態だったという。まったく盛り上がらずに、無事散会したというわけだ。

 これが、昔であれば(あたしもお爺さんになってしもうたわ)、「てめー、芸術をバカにしとるんか」などといった野次、怒号がのべつなく投擲され、長官が上野の杜で徹底的に吊るし上げられる、なんて事態が起こったと思うのだが、当日はいたって静穏な雰囲気だったという。
 なんて大人しい学生さんなんやろ、これだから今の学生は、などといった、お爺さん的なイラつきを覚えつつも、今回の学生の事なかれな反応も、さほど悪い選択じゃなかった、いや将来の美術を担う者として的確だったかもしれないなとも思うのだ。

 最近は、「戦後的なタテマエ」無しに、モノゴトを言うことが流行っている。政治家が「戦争も辞さぬわい」みたいな強い態度を示すと、少なからぬ国民が喜ぶ、みたいな状態になりつつあるくらいで。
 この長官が用意させたテクストも、国家が当たり前のように持っている価値観をそのまま反映しているように思われる。さっすが、平安時代から脈々と続く官僚制社会主義国ならでは。自由主義国で、なかなか「芸術とは、国への忠誠の素晴らしさを伝えるメッセージである!」なんて、言えませんし。

 国がここまで何の恥じらいも隠し立てもなく、「我々の方針」を示してくれたことに、ある種のサービス精神さえ感じられもしよう。
 少なからぬ美術学部の学生は、これから作家として、あるいは企画者として、国や都道府県などの役人たちと緊密にコミュニケーションを図り、予算や便宜を確保する能力を獲得しなければならぬ。
 交渉すべき相手の手の内を見せてくれた長官のテクストは、そうした際に重要な効果を発揮するのではあるまいか。こういう「国家の求める社会主義的な美学」に対し、自らの信ずる美学をどうすり合わせ、相手の裏を画くことを考えるのに、恰好の指標になるのではないか。つまり、「なるほど、敵の狙いはソコなのか」と、ありがたく受け取って置くべきなのだ。
 
 んまあ、とことん長官と美学論争するようなアバズレな学生も格別に好きなのだけど、それよりも、国の方針と相容れぬような(別に相容れてもいいけど)「いい芸術」を見せてくれる企画が、たくさん予算を獲得して欲しいと思うのでねえ。

5.2.13

AKBのおかげで大井町のエステに辿り着く。


 AKB絡みで、「恋愛禁止」という言葉が、報道などでもさも当たり前のように使われているけど、なにやら「痒いの禁止」「眠いの禁止」などと真顔で言ってるみたいで、滑稽な心地する。内面に相当することを禁止できるわけがない。だって、片思いだって恋愛なんじゃないの?

 少なくとも、「お泊まりデート」だけで、「恋愛」の構成要件を満たすのかについては、もっと議論の対象になってもいい。「恋愛」の定義は、近代文学では論争の対象に相当しよう。北村透谷的なのか、対幻想的なのか等々。
 せめて、新国立劇場は、急遽ワーグナーの「恋愛禁制」を上演することを決定し、国民のあいだでこの議論を共有してもらいたいものだと願う。ってか、そんな文化国家に生まれたかったぜ、ぼかぁ。

 なぜか、この「お泊まりデート」でふっと思いついたのは、漱石「虞美人草」のなかに出てくる「大森に行く」というキーワードなのだった。「男女が大森に行けば、その関係が認められるようになる」という意味が小説のなかで説明されているが、最初に読んだときには、ちょっとピンと来なかった。
 かつての大森に待合(ラブホ)が多かったのはわかるけれど、ここに行けば「認められる」というのが、どうも腑に落ちないのだ。

 これについては、漱石全集(岩波書店1994)の注解者である平岡敏夫が全集月報に寄せた文章が参考になった。「大森に行く」という意味は、小栗風葉「青春」で主人公の男女が一夜を共にし、女は妊娠、男は堕胎幇助で入獄というプレテクストを前提にしたものだという。風葉の「徳義」の無さに対する漱石の批判も込められていたらしい(「虞美人草」では、大森行きは実現されなかった)。
 さらには、「青春」が連載された読売新聞に対し、「虞美人草」の朝日新聞という、掲載媒体を意識した対抗心が漱石にはあったのだとか。

 ちなみに、「虞美人草 大森」で検索すると、大井町に「虞美人草」というエッチ系のエステがあることを知った。勉強になるなー。藤尾萌えーな方は行ってみるがよろしかろう。