17.4.06

ユルさの美学

もうそろそろ次号が出る頃だが、「レコード芸術」の4月号をまだほとんど目を通してないのに気づいた。目を惹くのは、やはり吉田秀和の連載が久々に復帰していることか。
さすがに高齢を極め、文面から緊迫感が薄れたかというか、とにかくユルい。何か一つのテーマで深く突っ込むのではなく、新旧の録音を並べ立て、まさに走馬燈のような批評だ。

いきなり、論語の引用から入るところなんざ、まるで田舎の校長先生の「朝の訓話」のノリ。これまでの吉田秀和ならば、そのイモっぽさが恥ずかしくて絶対やらなかったようなユルさなのだ。

読み進めると、アレ、そうだったっけ?という記述も目に付く。
1968年のバイロイト音楽祭で、ブーレーズとシェローによる、という記述があるが、シェローがバイロイトに呼ばれたのは百年祭のあった70年代後半ではなかったかしら。

思い違いをしているのだ。もちろん、批評では「思考の筋道」がいの一番に問われるのだから、事実誤認なんぞ二の次以下。それどころか、事実を誤って捉えていることからこそ見えてくる「筋道」がある。批評の面白さはそこにある。

「新潮」2月号の小島信夫の「残光」も、あまりにものユルさにこちらのアタマが溶けかけたが、あっちは小説、こっちは批評。ユルい批評って、何かソソるんだよねえ。ガキにはやりたくっても真似できねえぜ。

最近、フリーペーパーの「チケット・クラシック」が届くと、最初に黒田恭一の連載を読むのが楽しみになってきている。従来の「当たり障りのないことばかりスマートに書く」という黒田節が、「スマートながらも、チクチク文句を垂れる」方向へぐっと傾いてきたからだ。しかも、音楽業界相手への苦言が多い。これも、高齢を極めたおかげで、少々我慢が足りなくなったきたおかげかもしれない。これまで、書きたいことをグッとこらえていたのかなあと思うと、少しばかしじーんときた。