18.12.09

東京流星会西村朝雄参上!

道が暗いのである。
象徴的な意味ではなく、物理的に駅からの帰り道が真っ暗なのだ。街灯も少なく、いや「街」じゃないんだから、そんなものは最小限しかないのは当たり前なのだが……。。先日も、電車のなかで、人が読んでいた新聞を覗き込むと、「今晩は双子座流星群がもっとも多く見られますぜ」などということが記されており、東京に住んでいた頃は、「どうせ見られないし。関係ないし」みたいな心意気だったのだけれど、今ならば、「ほほう。家までの帰途にちょっくら見てみっか」などという気持ちになってしまうくらい、帰り道が暗いのである。

そして、実際、駅に下りると、星がずわーっと見える。早速、双子座の位置を確認すると、なんと天頂付近ではないか。これでは歩きながら見るには首が痛くなる。痛くなるくらいなら良いものの、下手すると雨続きで流れが抜群な側溝だのに落ちて、星と一緒にわたしも流される状況になって、ひじょうに危険なのである。

視線が空と前方の両方を捉えるように腰を落として歩くことにする。こんな妙チクリンな格好で歩けば、東京ならば「即、不審人物発見」ということになるのだろうが(まあ、こういう取られ方をされるのは慣れているけど)、こちらでは安心である。深夜に歩いている人などおらぬからである。立ち止まるなり、家に帰って落ち着いて空を見上げればいい、という正統な意見もあるが、やはりここは歩きながら流れる星を見る、という感興を優先したい。歩きながら食べるアイスクリームみたいにさ。

新聞の仰せの通り、星がひゅんひゅん流れている。一度、辺りが明るくなるくらい、どでかいのが流れ、ひょおおと思う。今そんなことを言う奴がいるかわからないけど、昔は「流れ星に向かって願い事を唱えると叶う」なんてことがよく言われていたものだが、果たしてそんなことをすることが可能なのだろうか。星が線を描く一瞬のあいだに心中に響くのは「ひょおお」とか「うほほ」みたいに言葉にならないものばかりで、間違っても「志望校に入れますように」とか「ナントカ君と結婚できますように」とか「お父さんの借金が早く返せますように」みたいな文言が閃くことはまるでない。「腹減ったな」ぐらいのツブヤキぐらいが関の山。

これは、ある拍子に願い事が出てしまうほど、強く思っていれば叶う、ぐらいの意味なのであろう。そういう思いが心のなかで常時起動している、という状態が好ましいということでもある。。だとすれば、わたしの心のなかでは、「ひょおお」とか「うほほ」、せいぜい「腹減ったな」という言葉程度を紡ぎ出す思いしか常駐していないことになり、みみっちいな俺、などと星空の下でたそがれてしまったわけである。

19.11.09

壊れたこと。寂しいこと。

 しばらくのあいだ、体調を崩してぐったりしておった。高熱で神経がへらへらしてしまって、寝床のなか、まったく抑揚を欠いた調子で「犬のおまわりさん、困ってばかりでわんわんわわーん」とおもむろに歌ってしまう。起きてみても、何度も気を失いそうになり、これって新型ウィルス? 流行りものゲット? と気分を高揚させたまま、病院まで歩く。真っ直ぐ歩けなく、途中で記憶が飛びそうになるが、ハタからみれば単なる酔払いがふらふら歩いている午前11時。診察してもらったら、ただの風邪やんけ。解熱剤と抗生物質投与で熱は下がる。
 
 それから一週間おきにノドが痛くなるという現象が起き、仕舞いにはヨダレも呑み込めなくなり、二階の窓からびよーんとヨダレを垂らしてみる。お釈迦さまだぜ、クモの糸ごっこ。周囲から見られない場所に住んでいて良かったと一安心してみるものの、食事どころか水も飲めなくなって、しかたなく医者へ。扁桃腺が腫れて、膿がたまっていたらしい。ノドに穴空け、膿を排出。痛え。
 
 現在は小康状態だが、薬をたんまり飲んでいるせいか、身体が妙に重い。いつまで続くのだろ、こんにゃろ、といった状態で過ごしている。今年初めて帰省して、モンテディオ山形対大宮アルディージャの歴史的な一戦を観るのも取り止め。寂しいのう。
 
 最近、もっとも寂しかったことといえば、死体遺棄の市橋容疑者が捕まったことかねえ。別に彼には、何の共感も思い入れも一切ないのだが、誰であれ、逃げている人が捕まるのは、やはり寂しい心地がする。この管理化が進む日本で、うまく自らを隠して逃げおおせることの困難さ。これを成し遂げようとするロマンティシズム。捕まることよりも、リスクが大きい逃亡生活を選ぶことに実存を置こうとする精神。単に容疑者が捕まったのではなく、自分のなかにあるロマンティシズムが壊れてしまったような寂寞に襲われたのだった。
  
 気を紛らわそうと、携帯メール着信音を例の「花みづき、夏には白い花を、秋には赤い実」に変えてみる。うーん、携帯から突然人の声が流れるのはやっぱ落ち着かねえな……と一日で挫折。それにしても、彼はいったいどんなシチュエーションでこれを録音したのかねえ。激しく気になる。

24.10.09

鉄オタになったような気分

「今日も自転車?」
「そだけど」
「チャリ・オタだね」
「そういうあんたも、毎日毎日飽きもせずに電車に乗って、まさに鉄オタって感じなんだけど」

などという会話をした日々が懐かしい。都心から千葉の片田舎に引っ越した今では、そうなにからなにまで自転車で行くというわけにも行かず、すっかり鉄オタになってしまった気分だ。とくに、コンサートのシーズンである今月来月は、鉄道乗りまくりである。千葉からチャリで来ればいいじゃん、という意見もあるだろうが、さすがに千葉市まで1時間半、そこから都心まで2時間近くかかるのを考えると、夕方のコンサートに行くだけで一日仕事になる。行きはいいけど、帰りのことを考えると、げっそりしますわな。

しかし、鉄道ってホントに不便だ。目的地まで直行できないし、無駄に改札とか通らせて遠回りさせるし、階段多いし、電車のなかは混んでるし、臭い。これで立派に銭を取ろうというのだから、その見上げた根性に感心してしまうくらいだ。これが市民意識の強い先進国だったら、暴動が起きちゃうはずだぜ。自転車でどこでも移動できた時代を思って、満員の丸の内線のなかで泣きたくもなりますわよ。

今日も野田線のなかで泣こうか? それともチャリで行くか。夜の天候がちょっと心配になってきたんだべ、大一番の柏レイソル—モンテディオ山形戦。

23.10.09

「パリ・オペラ座のすべて」は、いろいろあって、ややすべり

ワイズマンの新作ドキュメンタリー映画「パリ・オペラ座のすべて」を見に行く。
もちろん、例によってナレーションもBGMもインタビューもない、バリバリに硬派なドキュメンタリーなのだが(個人的には、これぞドキュメンタリーだと思う)、どうもワイズマンらしくない。というか、ワイズマンを見てきたぜっヒャッホーといった感慨が薄い。なぜなのだ。

「コメディ・フランセーズ」「バレエ(アメリカン・バレエ・シアターの世界)」に引き続く三作目のパフォーミング・アーツ物なのだが、この二作に比べても、いささか毒が薄いように感じられちゃうのよね。「コメディ・フランセーズ」における、規定以上の枚数のチケットを買えなくて窓口で喚くモンスター公務員と、それを冷たくあしらう係員のシーンのような、ワイズマンならではのシーンがほとんど見当たらないのだ。「バレエ」では、ほとんど冒頭といっていいシーンに、いきなり「寄付金が足りなすぎるわよ」と電話口で怒鳴る支配人らしき女性が出てきて度肝を抜かれるが、そうした場面は今作では見られないのである。

どうも微温的なのである。団員たちが年金についての説明を受ける場面や、配役を換えてくれと談判するダンサーなどのシーンはあるし、それぞれのダンサーの熱意ある稽古を見られるにしても。まあ、ワイズマンはバレエ好き、パリ好きだから、いつものような対象への鋭利な視点をちょっとだけ損ねてしまった、ということもいえるかもしれない。

タイトルからの違和感もある。原題は「La Danse, Le Ballet de L'Opera de Paris」。直訳すれば「パリ・オペラ座の舞踏とバレエ」。このくらいに素っ気ないのがワイズマンのタイトル。「高校」「病院」「州議会」「肉」「法と秩序」みたいにさ。出来れば「舞踏とバレエ」ぐらいにして欲しかったのう。

不必要な字幕も付いている。作品とダンサーの名前の日本語字幕は余計だろう。ワイズマンの映画のコンセプトは、その対象となっている施設やら団体やらのシステムを描き出すことにある。よって、個人名などをわざわざ出す必要はまるでないのだ。それは映像を観て、わかる人がわかればいいだけで、知らない人にそれを伝える意味はまるっきりない(これは、ハッキリと断言できる)。

心配してしまったのは、それぞれの場面を字幕で説明しちゃったりしないだろうかということ。ワイズマンの映画は、これは何のシーンなのか、観客には一目でわからないことが多い。日常をそのまま切り取っているだけだからだ。観客は、その映像を凝視し、会話に耳をそばだて、自分のアタマで「へへー、こりゃお金でもめてんだ」などど判断しなければいけないのである。そして、カメラの存在を忘れ、そのまま映像の内部に入っていくことになるわけだ。これらの作業が、ひじょうに気持ちいいのである。この気持ち良さを奪われたら一大事と一瞬思ってしまったが、さすがにこれは杞憂。ホッとして映像に魅入る。

あと、会場の雰囲気も変だ。平日の朝の上映に駆け付けたのだが、これが見事に満席なのだ。確かに、ワイズマン作品は人気があるから、そこそこの人はいつも入るのだけれど(先日の日本未公開だった「エッセネ派」は満席だったし)、どうも客層が違う。見渡せば、いわゆる、無職のバレエおばさんが大挙して押し寄せているようだ。それが証拠に、混雑状況を調べると、夕方からの上映のほうが空いているのだ。

ははん。配給元もきっとこのバレエおばさんたちに受けるように、タイトルをいじり、余計な字幕を付けたっちゅう魂胆だな。たしかに、ワイズマン全作観てますぅといった、小汚い格好のドキュメンタリー映画ファンのよりも、ハイソっぽい雰囲気のバレエ好きおばさまたちのほうが、絶対数も多いし、お金も持ってる、いいお客様だ。うん、仕方ないね、これは。アテネフランセ文化センターあたりで再演するときは、せめて余計な字幕は取り払って下さいましな。約束だぜ。ふぎゅう。

17.10.09

たまにはだいひょうのはなしを

サッカーは週に3試合以上は観戦するけど(ほとんどはテレビだが)、日本代表の試合はほとんど観ない。
つまらないからである。チームとして、何をしたいのか、はっきりしないので、退屈だし、時間の無駄だからである。JFLとかの試合でも観ていたほうが、ずっと面白い。

オシムが監督をやっていた頃は、勝ち負けはともかく、コンセプトが明快で、「やっと日本代表にも文明開化がやって来た」と思ったものだ。トルシエのときは、彼のやり方が強引で、まるで幕末のペリーかハリスみたいで、妙なところで楽しめた。しかし、岡田監督になってからは、また暗黒の時代に逆戻り。

「なぜカズ外した?」に岡田監督不快感

岡田監督「もう、二度と出ねえ」 過激インタビューの一部始終

いやもう、この監督、かなりヤバいのではないか。監督というのは、言葉で説明しなければならない義務がある。選手に対して、そしてファンに対して。
カズを外したことが悪いのではない。そのことを少しも負い目に感じる必要さえない。自分の行った判断について、言葉で説明できない、あるいはしようとしないことが問題なのである。それをテレビのインタビューで突っ込まれて、怒るだけでは、どんだけ痴れ者なのか。もちろん、なんでもかんでもストレートに話す必要はない。レトリックを駆使してはぐらかす、ことだって、十分なコミュニケーションになる。そういうことをせずに、インタビュー拒否ではあまりにも幼すぎる。

サッカーとは、畢竟、コミュニケーションのスポーツだから、こういう人は監督に向いていないのである。クラブのように、代表は時間をかけてコミュニケーションを構築できない。一瞬にして、それを成立させるような手腕が必要なのだ。

テレビ局の対応も不自然だ。監督に謝罪するとか、まるっきり必要ない。「そんなんでキレるお前がバカ」と悠然としてればいいのである。そもそも、日本のインタビューでは、インタビューイに不快な質問をするのは避けようという「空気」が強いのが問題なのだ。聞きたいことを聞かず、予定調和的に終わる(仕込まれた)インタビューなど、単なるプロモーションに過ぎない。そして、対話がない国のサッカーは弱い。

ただし、テレビ局とケンカすることがエンターティナーとして責務であると岡田監督が考えているなら、話は別だ。それは興業としては悪いことではないからだ。面白い「見せ物」で、日本代表に注目を集めるという考えならば。だったら、もっと激しく、過激にやってこませと言うしかないのである。

12.10.09

自衛隊 自衛隊 私は私よ 関係ないわ(中森明菜の節で)

ハードディスク・レコーダーの奥底を掃除しようと思ったら、「なんでこんなの録画したんだろ」というような映像がごろごろ出てきて、面喰らう。そのなかに『戦国自衛隊』と『戦国自衛隊1549』という映画があった。「自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、現地人とバトル」という同じ主題を用いた作品が、昭和と平成という時代を隔てていかに描かれているのだろうかと思って、二つ続けて見てみた。

『戦国自衛隊』は、1979年製作。70年代の角川の映画だけあって、やたらにアツい。自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、「ここで戦って天下を取ってやる」という野望を抱いた伊庭三尉は武田信玄との戦いに勝利するが、戦力を失って最後は滅亡するというストーリー。タイムスリップするときの、サイケデリックな映像効果がたまらなく70年代。劇中に流れる気だるい歌謡曲がたまらない。

一方、『戦国自衛隊1549』は、2005年公開。もう完全に平成といったクールな映像で、CGも多用、前作のようなエロやグロは完全に封印されている。自衛隊の実験中に、戦国時代に飛ばされてしまった中隊。彼らのせいで歴史が狂い、磁場に変化が起きていることから、もう一度別の中隊が戦国へ飛び、歴史を修正しようというストーリー。平成の作品だから、もちろん気の抜けるハッピーエンドが用意されている。

二つの作品、その違いがもっとも顕著なのは、戦国に飛ばされた個々の自衛隊員の描き方だ。『戦国自衛隊』は、現地の女を武力でかき集めハーレム作っちゃう奴、現地の農村に溶け込んじゃう奴、村の女と出来ちゃう奴、恋人と駅で会う約束を果たすために脱走しちゃう奴、など、それぞれの隊員の個性がくどいまでに描かれていた。一方、『戦国自衛隊1549』は、隊員はほとんど逸脱行動は見えず、上官に従う忠実な兵隊に過ぎなく、よって、その個性もほとんど描かれない。「個性などくだらない」という親世代に反抗した昭和の世代と、「個性は大事です」と教えられて「そんなもの必要ない」と長いものに巻かれたがる平成の世代の違いを如実に表しているようだ。

『戦国自衛隊』の最後は、武器を失った主人公たちが隠れている廃寺を、かつて友情を熱く交わした長尾景虎に襲われ、全員死んでしまうシーンである。システム(あるいは運命)に押しつぶされる人間たちを描くというテーマがそこにある。『戦国自衛隊1549』のほうは、救ってやった武士が仲間になって主人公たちの強力な助っ人になるなど、時代を超えた友情が華々しく描かれる。「友情」(え? 友愛?)こそ大事という、これまたファンタジー系メディア調のテーゼがはっきりと刻印されているのだ。

さすが角川映画というべきか、『戦国自衛隊』の燃え盛る廃寺のシーンは、なかなかに迫力がある。クサいくらいの滅びの美学。これに対応するかのように、『戦国自衛隊1549』にも城が爆発する場面があるが、こちらはCGで軽々と描く。その爆破が激しければ激しいほど、CGならではのヨソヨソしさが強調される。ゲームみてえ。

両作品とも、自衛隊という、取り扱い注意の団体を扱っていると共に、国防やら、平和やらに、言及したいという欲望が見え隠れする。最後に、象徴的なセリフを二つばかし抜き書きしてみた。

「昭和の時代に戻って何になる? ぬるま湯に浸かった平和な時代に戻って何になる? 武器を持っても戦うことができない時代に戻って何になる?」
『戦国自衛隊』〜戦わずに現代に戻りたいという隊員に向かって、伊庭三尉が説教する場面より

「平成の日本人が日本人であることを誇りにできる強固な国家を作ってやる」
『戦国自衛隊1549』〜信長に成り代わった的場一佐が、歴史を変える必要性を説く場面。

7.10.09

いつもの16分間だった

テレヴィでJリーグ初だという再開試合を見る。中断された鹿島アントラーズ1—3川崎フロンターレというスコアのまま、74分からスタートする、たった16分間の贅沢極まりない試合だ。

何年か前のリーガ・エスパニョーラ、ベティス対レアル・マドリーの試合で後半が停電のために続行不可能になって、後日後半45分間だけ試合が行われたのを見たことがあるのだが、それはもう伝説になっていいほどすごいものだった。何せ45分しかないのだから、最初からフルパワーで走りまくり、攻めまくり、やたらに凝縮度の高いゲームだった。

こういうものをJリーグでやってけつかるとは。しかも、今回は16分しかない。凝縮度はハンパない。下位チームの応援者としては、優勝争いなど他界の出来事だけど、これは見ておかなければならぬだろう。試合内容的には、優勝は川崎、清水、広島あたりがいいとは思っているけれど。

いきなり最初のプレイで鹿島がフリーキックで一点返してしまう。おお。あとは一方的に鹿島が攻めるだけ。気付いたらロスタイムに突入。あっという間に終了。2—3のスコアで川崎が勝利。

うーん。どうも物足りない。いつもの試合を後半74分から見ただけのような。最初に一点返されて、守りに入るしかなかった川崎。ここは、やはり16分間限定でいつもに増したイケイケな攻めを見たかったものよのう。鹿島もロング・ボールで前線に合せるだけで、ひどく単調で退屈。16分というのは、逆に短かったのか。


ことごとくマイナーなネタで恐縮極まりないが、わが愛しの「蜂さんチーム」をこんなとこで発見。ジダン息子なんて一刺しじゃっ。

6.10.09

舐めるように読んでしまった記事

なんでこんなものが報道されるの? という不思議な記事に出会うことが最近になって目立ってきているように思う。芸能人の薬物騒動なんて、スポーツ新聞とかワイドショーだけでやるぐらいの小ネタに過ぎねえのにさ。まあ、明治時代の小新聞だって、そういうバカバカしいノリだったから、それを忠実に受け継いでいるといえば、そうなのかもしれない。もともとジャーナリズム不在の国だしねえ。

そのなかでも、「これはすごいんじゃなかろうか」と思ったのは先月に報道された、コレ。

読んだら売るつもり…「坂の上の雲」など文庫4冊万引き

文庫本を四冊万引きするだけで、こんなふうに報道されるなんて、新鮮すぎる。日刊万引き新聞とかじゃなくて、全国紙の産経新聞ですよ。しかも、この報道、最初は容疑者が実名で記されていた(たった今、リンク先を確認したら、実名が忽然と消えていた)。実名で報道する意味の無さに、後から気付いたのでしょうな。そりゃそうだろ。

で、このニュースのどこらへんにニュース・バリューがあるのか。一通り読んでも、いつもながらの、つまんない日常がそこにあるだけ。これが報道の対象になるのだったら、すごいことになるざますわよ。警察に捕まった万引きの総数が年間約十万件くらいだから、朝刊開くと約三百件の万引き記事が並ぶわけ。壮観すぎねえか。

ただ、一つひっかかるのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」ですかね。なぜ、わざわざ盗んだ本の書名がこのように見出しにまでなるのか。ははん。要するに、産経新聞は、「坂の上の雲は、万引きして読むほど面白い!」、これだけを言いたかったのではないだろうか。このメッセージを伝えるための報道というわけだ(この事件、他紙は一切報道無し)。そういえば、「坂の上の雲」の単行本は文藝春秋だけど、連載は産経新聞だった。社会面で堂々タイアップ記事というわけですか。さすが、野蛮な国で出ている新聞は、ちょっと違うぜ。

3.10.09

千葉駅付近の賑わい

華々しくも千葉県人になってしまって、すでに四ヶ月目に突入だ。
先月のある日、打ち合わせにかこつけて、県の中心街といわれているらしい千葉駅付近を初めて散策してみた。同じ県内でも辺鄙なところに住む自分にとって、千葉駅付近は間違いなく、大都会。お上り気分ではしゃいでやるぜ、へへい、と思っていたのだ。

店はそこそこある。本屋。電気屋。CD屋。でも、品揃えはやはり……。ただ、家電を買うなら秋葉原、本を物色するには神保町に食後の散歩気分で繰り出していた四ヶ月前を思うと、その落差は小さくない。

腹が減ったので、ラーメン屋に入る。「こってり」を看板にしたいささか汚らしい店(こういうところがソソるのだ)。食べてみると、異常なまでに塩辛い。「味が濃い方は薄めます」と掲示してあるので、すかさずスープをつぎ足してもらう。しかし、周囲を見渡すと、誰もそんなことをしている者はいない。みんな平気な顔して食べている。塩辛さが文化にもなっている東北出身のわたしでさえ濃いと思うのに、恐るべし千葉。

客は男女のカップルばかり。そういえば、街をぶらついても、その手合がやたらに多い。平日の夕方なのだが、なぜ千葉駅前はカップル天国なのだろう、と思案してみたのだが、一つ思い当たるのが、「一人で来てもあまり面白いものがない」ということだ。地方都市とはこういうところなのかもしれないが。

チェーン店は揃っている。さまざまな飲食店、カラオケ・ボックス、靴や服を売る店などなど。しかし、こんな当たり前のところに一人で行っても何も楽しくはないのだ。このような店には、おそらく誰かと連れ合っていかなければ間がもたない、ということなのだろう。件の塩辛いラーメンだって、誰かと一緒ならば、ネタぐらいにはなる、ということかもしれない。

つまり、ここには都市のワンダーランドである古書店も、怪しげな映像を堪能できる単館映画館もなく、爬虫類専門ショップも、異常なまでにマニアックな自転車屋もない。当たり前だけど、クラシック専門中古LP屋もない。こういった個人の好奇心を満たす場所がちゃんと存在している東京って、かなり偉いトコロなのだと改めて感心した次第だ(だからこそ、20年以上もぬくぬくと生活できたわけである)。

あたくしなんぞは、どこにいても一人で結構楽しめちゃう奴なんで、あまり問題ないのだが、そうでない人は、かなりストレスを溜めることになる。いや、地方都市は最初からそのように設計されているのだろう。一人で楽しめる奴なんて、世間から浮いた変な考えを持ちたがるし、子供も作らんし、あまり生産的じゃないからな。この日、駅前で個人情報を交換しているカップルを二組見かける。出会い系だって流行るわけか? ふむう。

1.6.09

ヨロコビ疲れ

ヨーロッパのサッカーの日程が終了。今年はユーロもワールドカップもない年なので、じっくりと仕事にでも勤しもうかな……と。それにしても、なんか今年はちょっとスゴイのである。自分の贔屓のクラブが、次々とタイトルを獲得しちゃってるのだ。こんな年はなかなかない。昨年末のJリーグから引き続き、ヨロコビ疲れしてる。

FC.バルセロナ(チャンピオンズ・リーグ優勝/リーガ・エスパニョーラ優勝/国王杯優勝)

前回のチャンピオンズ・リーグ優勝のときは妙に泣けたが、今回はへらへら笑って試合を見ていた。なにせ、あのマンチェスター・ユナイテッド相手に、猛烈に美し過ぎるサッカーをやってんだもの。至福。ただ、最初の十分の間は正直負けると思った。

FC.ジロンダン・ボルドー(リーグ・アン優勝/リーグカップ優勝)

10年ぶりのリーグ優勝。長かったなあリヨン時代。前回はちょうど海外サッカー中継見始めたばかりで、やはりその美し過ぎるパス・サッカーに虜になった。今年は、日本で中継が無かったのでリーグ戦の試合を見られなかったのが残念だ。立役者グルキュフを完全獲得して安堵。

SC.フライブルク(二部ブンデスリーガ優勝・一部昇格)

優勝決定戦は紙芝居状態のネットテレビを見ながら、大騒ぎしてました。フィンケ監督(現浦和監督)時代のパス・サッカーを継承しつつも、サイドからの質の高いクロスがガンガン入るイケイケなサッカーで、不気味なくらい今年は強かった。来年は久々の一部リーグを満喫するぞう。

残るは、ザンクト・パウリ、ラージョ・バジェカノあたりがキッチリ昇格を果たしてくれればのう(と、欲望は尽きない)。

26.5.09

本日の入り損ね。

オペラシティのコンポジウム。今年はラッヘンマンということで、ヒャッホーと小躍りしながら駆け付けてみると、見事なまでにソールドアウト。当日券の販売無し。あんれまあ。場所がタケミツ・メモリアルじゃなくて、リサイタル・ホールだったということもあって、チケットの有無は多少心配はしていたものの、「現代曲のコンサートは当日売りしか買わねえ」などという、どことなく江戸っ子じみた考えを持ったわたくしにとっては痛い痛い仕打ちである。

キャンセルなんか出るかもしれんと淡い期待を抱いて(まあ、普通はなかなか出ないもんだが)、無いものは出せません光線をモロに浴びつつ、開演間際まで受付の前で待っておった。そして、タイムアウト。ホールのほうから拍手が聞こえ、ラッヘンマンが挨拶を始める。そのとき、同じくキャンセル待ちに淡い期待を抱いていたに違いない一人のおじさんが、「モニターの映像ぐらい見せてよ」と係員に交渉し出した。係員はまるで虫を追い払うかのような仕草と言葉で、おじさんを排除してしまう。チケット無い客を一度入れたら収拾つかなくなるんで、いささか非常識な要求かとは思ったけれど、それに対してのあまりにもの邪険な応対に驚かされたのだった。

こういう「いかにもラッヘンマン大好きオーラ」を出しているおじさんは、この手のコンサートにおいて上客の素質を持っているもの。そうした客(今回はチケットを買ってないから、客ではなくて虫みたいなもんなんでしょうけれどねえ)を邪険に扱うのはいかがなものかと思うのだ。このやり取りを見て、ひどくさもしい気分になり、自分も虫扱いされたような不快な心地がして、そそくさと会場を後にした。コンサート主催者が購買層をどう見ているのかという一端に触れたような。しばらくは、東京オペラシティ文化財団主催のコンサートは行きたくねえなあ……。

7.3.09

エロス&タナトス路線で行こう

気づいたら、J開幕の日であった。
まあ、あたくしの贔屓であらせられるモンテディオ山形は、下馬評ではダントツ最下位、降格最有力候補というより降格確実ということなのであるが、ここまで決めつけられちゃうと、逆にすがすがしいというか、ノープレッシャーで、勝ってすみません路線を突っ走ってもらたいものである。J2時代は、こことあそこには勝たなきゃ、などというプレッシャーとか、勝って当たり前だろ的な空気が少なからずあったわけだが、J1の今年はどこから勝っても、大福饅頭、凱旋パレードもんなんだから、こりゃあずっぽり楽しまないといけません。

今年のユニフォーム胸スポンサーは「つや姫」。以前の「はえぬき」を継承してデビューするという山形県産ブランド米の名前である。たまにはお米っぽい名前を付けろよな、と注文を付けたくなるのだが、このシュールなネーミングがJA山形の流儀でして。最初はショックだけど、慣れるに従って、「悪くないかも」と思わせるのが味なのである。

たとえば、この「つや姫」って、「艶姫」とか「通夜姫」みたいな漢字を連想させるのが、すごいと思うのだ。つまり、エロスとタナトス、ってわけ。実に味わい深い。モンテディオ山形も、エロスとタナトスあふれるゲームを見せて欲しいものである。

タナトス関連でいえば、この「つや姫」という名称が決定した2月23日(日本時間)、ロサンゼルスである日本映画がアカデミー賞外国映画賞を受賞した。いわずとしれた「おくりびと」。この映画のロケ地は山形県の庄内地方だったということで、「山形=死の文化」という構図がじわじわと浸透しつつある。

そんなことを書くと、「死」なんて縁起悪いじゃん、と抜かす奴がいらっしゃるはずだ。そういう考えって、誰もが必ず体験するものを縁起悪いなんてカテゴリーに入れることで隠蔽しちゃえという、一種の小賢しい認識。でも、そんな認識だけで生きていくのは、あまりにも貧しい。これを機会に、全県を挙げ、全国に向けて「死の文化」の普及、啓蒙に務める、なんてことになればいいのになと願う次第である。

そういえば、モンテディオ山形のフルモデルチェンジ構想というのがあって、クラブの有り方を変える試みが現在も討議されている。これが最初に出てきたときは、クラブ名称は「月山山形」、ユニフォームは「白と黒と銀」のカラーを用いる、なんて報道があって驚かされた。こんな名前や色が嫌だ、というよりも、こんな劇的な転換をしないとクラブの存続が危ういという切迫感にショックを受けたのだ。

現在は、名称や色の変更については保留のまま構想全体の内容を練っていく、という段階だそうだが、「月山山形」と「白と黒と銀」、決して悪くない。慣れるに従って、「悪くないかも」から「これってかなりいいかも」と思うようになってきている。そうしたさなか、「つや姫」「おくりびと」というニュースが入ってきたことで、この名前と色、まさにピッタリではないかと思ったのである。

なにしろ、「月山」は、死者が集まる聖地として信仰を集めていた山だ。日本における山とは、なべてそういうものなのであるが、とくにこの山はそうした役割を強く求められていたのだ。そして、白と黒を中心としたカラーは、まさに葬式っぽくてクールだ。

そう、モンテディオ山形は、徹底したタナトス路線で行けばいいのである。新キャラクターは湯殿山の即神仏、ミイラくんに決定だ。「ようこそ、死の国へ」「ここがお前らの棺桶だ」といった弾幕、そして周囲を白黒幕に覆われたスタジアムは、相手チームを圧倒するに違いない。日本では禁止されている発煙筒の代わりに線香をぼんぼんと焚き、敵チームの成仏を祈祷するのだ。それに、モンテディオ・サポーターの応援は、かつて「念仏」と言われていたそうだから、これは変える必要がない。Jリーグの審判はスキンヘッドが何人かいるから、彼らに袈裟着せて……というのは無理そうだな。

世界的に注目を浴びるクラブになることは間違いない。たとえば、ドイツ・ハンブルクのザンクト・パウリみたいに。ドイツ有数の歓楽街をホームタウンとし、ドクロをトレード・マークとするこのクラブは、世界中の同性愛者、ロッカー、アナーキストなど、はみ出し者たちから熱い視線を注がれている(わたくしもブンデス・リーガで二番目に好きなクラブ)。そうしたイメージをクラブが全面的に押し出しているからだ。クラブが二部や三部にいても、彼らの愛は変わらない。モンテディオ山形もそうしたスタイルを見習ったほうがいい。県民の大半は、流行れば付いてくるのだし。

タナトス的にはこれでいいが、エロスはどこに行った? 個人的には、それは試合内容で表現するのが理想ではないかと思うのだ。FC東京のセクシー・フットボールじゃないけど。

そんなわけで、これからそそくさとヤマハ・スタジアム行ってきます。

15.1.09

空飛ぶ神輿

昨日は昼前からヘリの音がうるさく、しかもなかなか立ち去る様子がない。これは事件か、それとも24時間テレビ(芸能人がマラソンするやつ。甚だしく近所迷惑)かと思ってネットを見てみると、速報で近所の大学で傷害事件(のちに死亡が確認されたので、すぐに殺人に切り替え)があったとのこと。

ちょうど、近所まで外出するところだったので、下の交差点から大学の前を見ると、衛星中継車がズラリと並ぶ。付近の地下鉄駅には、今日の講義が無くなったのだろう、手持無沙汰の大学生がグループ単位で立ち話中。みな、一様に興奮した様子で、目をキラキラを輝かせ、テンションもやや高め。事情を知らぬ人が見れば、隣のドーム球場にて、優勝がかかった試合でもあるのかと思ったことだろう。

彼らのテンションが高いのは、よくわかるのだ。なにしろ、自分たちが平穏に通っている学校で、全国ニュースになるくらいの事件が起こり、ピリピリとした緊張感が走り、わんさとマスコミが駆けつる。これはお祭りみたいなものだ。お祭りとは、ポジティヴとかネガティヴであるというのは無関係に、非日常がどーんと押し寄せること。報道ヘリは、空飛ぶ神輿みたいなもんだ。

でも、新聞やテレビは、「学生たちは不安な気持ちを隠せず」とか「平和なキャンパスは、一転して悲痛な雰囲気に」などと報道するんだろうな、なんて思いながら、用事を済ませて帰宅し、ネットのニュースを確認すると、まったくそのままのようなことが書かれてある。この期待の裏切られなさに、愕然としてしまう。まあ、コピペみたいなもんだわな。ほんま。

もちろん、新聞やテレビが「みんなお祭り状態で、テンション高め」なんて報道しろとは思わないし、期待をするわけでもない。ニュースを作る側、あるいはそれを見る側だって、心のどこかで、お祭りを期待しているわけで、その心的代償として、「悲しみ」とか「追悼」を過剰なまでにクローズアップしなきゃという働きが起こるのだから。簡単にいえば、すべて丸く収まっているわけなんすけどね。

12.1.09

デジタル・コンサート・ホール

 国内のニュースでも報道されているようだけど、今月6日にベルリン・フィルの「デジタル・コンサート・ホール」のライヴ放送が始まった。フィルハーモニーで行われるすべてのベルリン・フィルを演奏をライヴでネット中継するという試みである。
 昨年10月末にベルリンを訪れ、担当のマニンガー氏から説明を受けたときは、「まだいつから始まるか決まってない」「最初はラトルが指揮する演奏会から始めたい」とうかがっていただけに、こんなに早く開始されるとは驚きだった。この時期ラトルのコンサートは予定にはなかったので、このネット中継のお披露目ために、急遽コンサートを企画したようだ。気合い入ってんなあ。
 
 最近はオーケストラが自前のレーベルを作って、CDをリリースすることが流行っている。コンセルトヘボウやロンドン交響楽団みたいに。こういうことをベルリン・フィルもやってみようかの、というのが事の発端らしい。ところが、さすが新しもの好きのベルリンというべきか、パッケージ・ソフトなんて古いぜ、これからストリーミング配信に決まってんだろ、というわけで、こういう映像ライヴ配信という形へ。ベルリン・フィルからすれば、我々がメディアに買われるのではなく、自分たちがメディアになり、この分野を促進するのだぞお、といった意気込みらしい。
 
 それでも、今さらストリーミング配信と言われてもねえ、なんてIT小僧に言われないように、かなり手の込んだものになっている。リモコン操作のカメラ五台を駆使、映像もHD画質、そして視聴料だって結構エグゼクティヴ。こうした配信では、ときたま蚊帳の外みたいになるMacintoshにも対応しているのが喜ばしい(ベルリン・フィルの映像制作者や配信担当者もMac使いだったのを先に確認しておいたから、これは心配いらず)。

 宣伝文句の通り、画質は問題ない。ポディウムの客の細かな表情もバッチリだ。なお、演奏前には客席などを舐めるように映すこともあるので、誰も見てないだろうと思って、過度にいちゃついたりするのは控えたほうがいいかもしれない。
 ただ、ライヴのときは回線が集中するのか、音と絵が同時に途切れることもある。画質は三段階選べるので、ライヴは低画質、後日同じものがアルヒーフに収録されてからは高画質を選択するのが良策かもしれん(うちの機械と回線スペックだと)。音が途切れるのはかなりのストレスだし。さらに、アルヒーフよりもライヴのほうが、弱冠画質が落ちる気がしてしまうのは帯域制限などをやっているせい?
 音質は、PCのヘッドフォン出力からヘッドフォン・アンプに通してゼンハイザー、というやり方をしているのだが、格別問題に感じるようなことはなかった。これより悪いCD録音なんてザラにあるしねえ。こちらとしては、画質を多少落としてもSACD並みの吃驚するような音質で提供してもらいたいもんだけど。
 
 さて、今シーズンのベルリン・フィルのプログラムだが、今年はベルント・アロイス・ツィンマーマンがテーマ作曲家なのか、彼の作品が毎月演奏される。ラトルが1楽章の交響曲、ホリガーとツェートマイアーによるヴァイオリン協奏曲、オラモの《フォトプトシス》など。目玉は、4月のエトヴェシュが指揮する《若き詩人のためのレクイエム》か。このコラージュ作品を映像で見られるとは僥倖だぜ。ブーレーズとエマールのラヴェルのコンチェルトも楽しみ(グラモフォンがディスク出しそう)。
  
 ちょうど現在、日曜のコンサートの中継の休憩時間。相変わらず、メータはアホみたいに元気が良いなあ(それ以外に感想がないところが、また天晴れなことである)。モーツァルトの協奏曲を弾いたペライアは以前よりちょっと荒れてる?