23.12.05

今週の困ったちゃん。

正直、困ったちゃんな演奏だった。
今週水曜の都響定期、指揮者ジャン・フルネの引退コンサートのことだ。
そのときの概要は「ぶらあぼ」のサイトに書いたけど、これはあくまでもニュースとしての記事。
そんで、オマエは個人的にどう感じたか、と聞かれれば、冒頭の「困ったちゃんな演奏だった」と答えるしかないのである。
そのコンサートは演奏会というよりも、完全にセレモニーでしかなったからである。
いや、コンサートとは一種のセレモニーなのであるから、今回はセレモニー的要素がなければ演奏そのものが存在しなかった、と言い換えたほうがいいかもしれないけど。

この日の演奏は録画され、DVD化されるという。その前にNHKの芸術劇場でも放送されるらしい。
やめたほうがいいのに、と思う。
演奏は記録したものでも楽しめることがあるが、セレモニーはその場に参列した者でないと、その意味を心から享受することはできない。
果たして、「フルネの引退コンサート」というセレモニーに立ち会っているという興奮を除外してこの演奏を聴いた場合、人々は何と感じるだろうか。
フルネの演奏を知らない人が視聴すれば、彼がこんな程度の指揮者だと思ってしまうだろう。
そういう演奏会だったのである。

だいたい、演奏開始前の場内アナウンス、「二度とないフルネ氏の引退公演を皆さんで楽しんでいただけますよう、ご協力をお願いします」って、いったい何なのよ。
「二度とない」のは、どのコンサートでも同じ。わたしはそのアナウンスを聞いて、ちょっと不安になった。演奏がボロボロだけど(すんまへんすんまへん)、記念すべきコンサートなのだから(みなさんはそのへんわかってるでしょ?)、文句言わずに楽しめよ(同じアホなら踊らにゃソンソン)、といっているように聞こえたからだ。

前半はまったくノレなかった。
ベルリオーズの《ローマの謝肉祭》は、直線的でいかにもフルネのアプローチだな、とは思ったけれど、あまりにもオーケストラの反応が良くない。リズムが眠そうで、これがフルネの演奏なのか、と悲しい気分になる。いかにもフルネらしい解釈だったから、その詰めの甘さが気になってしまうのである。

二曲目、伊藤恵をソリストに迎えたモーツァルトは、遅いだけのユルユルな演奏に終始。
どうもこの人のピアノが好きじゃない。以前、同じ組み合わせでラヴェルの協奏曲を聴いたことがあるが、第2楽章冒頭のソロをあまりにも無関心・無感動に弾いていたので、アレ? 何かあったのかしら、と心配になったものだ。この日も同様、ベッタリ音で、音と音のつながりを無視したように弾く。
もちろん、「表情なんかつけてやんないゼ」という表情さえない。そういうものは、もう「無私」の境地とお呼びして、崇め奉るしかないだろう。

休憩を挟んで、メイン・プログラムはブラームスの交響曲第2番。定評が高いショーソンとかルーセルの交響曲で締めて欲しかったのだけど、フルネは心底ドイツものが好きなのだ。
テンポは遅く、薄明の美が漂わせながら、曲が始まる。第1楽章展開部も終わるあたりから、オーケストラの音も立ってきて、やっと音楽が立体的になってくる。
問題は、オーケストラはフルネの棒で演奏していないということだ。振り間違いも多い。コンサートマスターの身振りが次第に大きくなるのがよくわかる。
音楽はぶくぶくと大きくなり、空中分解しそうになる不安定さに、わたしはドキドキしてしまったものだ。オーケストラも必死だったろう。

往年のフルネは、ノリが悪い都響をよく引っ張っていたものだ。インバルやベルティーニよりも相性が良かったと思う。
そういう指揮者の最後の演奏なのだから、オーケストラは必死こいて指揮者の解釈について行く可能性もあるんじゃないか、なんて甘い考えもあった(クルト・ザンデルリンクの引退コンサートのように)。しかし、それは彼らのここ何年かの演奏を聴いていれば、そんなことは起こらないのは明白だった。

ついて行かせるだけのモノをフルネはすでに失っていたからだ。
テンポは緩慢になり、彼の持ち前の造形感覚はフルネにはもう無かった。
今、オーケストラが必死こいてるのは、「指揮者の〝間違った〟解釈に、いかについていかないようにするか」という命題に対してなのだ。敬愛していた指揮者の最後の演奏会をつつがなく終わらせるためにも。

ブラームスの第4楽章は、演奏者、そして聴き手の様々な思いが交錯するような、「壮大」な音楽になった。
あーあB級だな、と思いながらも、オーケストラの明るい響きに浸っているうちに、何かしら暖かい感情が湧いてくるのだった。
これが、まさに「92歳の指揮者の最後の仕事」に接しているという、セレモニー効果なのだろう。
演奏直後には、不思議に心を動かされたものだ。
演奏そのものは評価できなかったとハッキリ言えるけれど、まんまとセレモニーのオーラにやられちまった、ということだ。そこが、「演奏」が聴きたかった自分としては「困ったちゃん」なんだよな。うぷっ。

20.12.05

トリエンナーレな日

先週土曜日は横浜トリエンナーレで一日を過ごす。
今年こそはパスポート購入して、少なくとも3回はぶらつきまくるぞうウリャア、なんて考えていたが、実際には最終日の一日前、閉幕間際に飛び込んじまうことになっちまった。
なにしろ、横浜という距離がビミョーでなんである。とくに、自転車族である自分にとっては。
都心ならホイホイと気軽に遊びに行けるし、水戸とか前橋ならば気合い入れて「この日は絶対にまみえるべし」という予定を立ててしまうのだが、中途半端な横浜だと、「今日はダルいしー、あんましエンジョイできないともったいしー、また別の日にするべし」なんてズルズルと行く日が遅延されてしまうのだ。

こういう場所は自分にとっては遊園地そのもの。
ゲートをくぐった瞬間の、なんともいえない自由な空気がたまらない(こういう空気を求めて、美大の学祭なんか行くと、妙な閉塞感にぐったりしてしまうけど)。
ガキを押しのけてでも、とにかく遊ぶ。コンセプチュアルなやつ大歓迎。余計な能書きがなければ、ないだけいい。
壊していい作品があれば必死になって叩いて踏みまくるし、気に入った映像があれば何十回も繰り返し見たりする。

堀尾貞治と現場芸術集団「空気」による百均絵画でも、オーダーにないやつをわざと注文してみるが、そばに居た関係者に「今日は忙しいから」とやんわりと断られてしまう。
ヴィンター&ホルベルトのブランコで横になって乗ったら、「危ないからやめて下さい」と係員に注意されてしまう。それにしても、ブランコっつうたら、八谷和彦のオーバー・ザ・レインボウをしみじみと思い出すなあ。

今回は「これは」とうならせ、そのアイディアに脱帽するのみならず嫉妬の念まで巻き起こし、地面に寝転がって足をバタバタさせてしまうようなものはなかったけれど、充分に遊べたので、満足。都心にもこういうの常設しとけよな、高層ビルばっかし建ててないでさ(とはいえ、常設すると、面白味は半減するのかも。やはり消えてなくなるはかなさが、気分良さげな空気を作ってるのだろう)。

すっかり暗くなったナカニワで野村誠を被写体としたビデオを二本観て、気持ち良く締め。
動物相手にコラボレーションを企てる野村さんは、やっぱすごかった。彼の鍵盤ハーモニカを聴いて、うっとりしてしまうライオンのシーンなんか、まさにオルフェウス状態。無性に彼のライヴに行きたくなった。

19.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト1



最近寒い、などという当たり前のことを書きたくなるほど、自分が今住んでいる家は寒い。
夜、ふとんのなかで本を読んでいると、息が白くなっているのがよくわかる。
読んでいるものが、新潮1月号の鹿島田真希の新作だったから、ますますカラダが芯から冷えこんでくる。

これも、やはり神棚(正しくは、「微妙に神を祀るのに適した棚」)に箱なんか置いているせいだ。
時期は師走。正月も近いぜ。
ということで、縁起物をそこに配置して進ぜよう。
わたしが保有している縁起物は、この黄色に塗りたくった正月のお飾りしかない。
これは、もう十年以上前になろうか、畏友芳賀徹(現在紙漉き職人)が郵送してきたものである。お飾りを黄色一色に塗ったものに、わたしの宛名を書き、切手を貼って年始代わりに送ってきたものだ。
当時、彼は常識では考えられないものをそのままの姿で郵送して送る、という芸術活動を行っていたから、こうしたヘンテコなものをわたしもよく受け取っていたのだった。

ある日、わたしが当時住んでいた鶯谷の集合住宅に帰ると、メールボックスの上に何か黄色いものが横たわっている。
まるでうち捨てられたゴミのように。
不審物、といってもいいだろう。
こんなものがパリの地下鉄のベンチの上に置いてあったら、間違いなく爆破される。駅構内が30分くらい閉鎖されてしまう。
わたしはゾクゾクとした予感とともに、そのゴミのようなものに手を伸ばし、それが芳賀徹からの贈り物であることを確認した。郵便局員はそれがポストに入らないので、ボックスの上に置いていったのだろう。
それから、4度も引っ越しをしたが、「お飾り」はいつもわたしの家に飾られていた。
表面には宛名が記してあり、そのまま表札として使いたくなるほどキュートなのだ。

今回は、それをしかるべき場所へご神体として祀ってみたらどうなるだろう、という実験である。
なかなかサマになる。暗がりのなかに、黄色が映える。
このように配置してみると、人のカタチに見えなくもない。
黄色く発色する人。まさしく、異星人信仰。
これは、古来のマレビト信仰に近いのかもしれない。
かつてはうち捨てられていた彼を拾って、暖かく迎える。
彼は災いを廃し、福を成し、そしてまた異星に飛び立っていく、というわけだ。
ありがたい。
これで、どんな寒い寝床で寒い小説を読んでも、平気なような気がしてくるのだから、信仰はやめられない。うはは。