9.4.06

なんでもポルノ

「児童ポルノが違法でない」国は138カ国
児童ポルノ所持が犯罪にならない国は138カ国、ネット児童ポルノを取り締まる法律がない国は122カ国——4月6日に公表された調査報告書により明らかになった。

「現時点では、各国の法律は憂慮すべきほど不十分だ。これは許されない。各国首脳は今こそ行動を起こすべきだ。われわれは彼らと協力してこの痛ましい問題を根絶することに全力を注いでいる」とICMECのバロン・ダニエル・カルドン・デ・レクチャー会長は発表文で述べている。

児童ポルノが違法と定めていない国の多くは、法意識が低いのではなく、単に児童ポルノというメディアがないだけである。
つまり、クソガキのハダカなんか見ても誰も興奮しませんわな、そんなアホどこにいるんですか、というわけである。

日本でただの「ガキのハダカ」が「ポルノ」に認識上で昇格したのは、一つは宮崎勤の功績があった。「おお、あんなものでもイケるのか」と少なくない人が感化されてしまったわけである。もちろん、日本には稚児の文化もあったが、これはこの問題と直接リンクさせるにはちょっと議論を有する(いつかやってみたいと思っているけど)。

極論すりゃ、牛のハダカを見ても、あるいは火葬場の煙突を見てもムラムラさせちゃうことは、必ずしも不可能ではない。こうなると、牛ポルノ問題、火葬場の煙突ポルノ法だって出来てしまうわけだ。

記事を読むと、法整備のない国はこれからしっかりせにゃいかんぜよ、という主旨のようだ。つまり、児童ポルノというメディアを普及させろ、というわけである。もちろん、法整備の遅れた国から多量の児童ポルノ(とポルノ先進国が見なしているもの)が流出していることが問題なんだろうけれども。

これらの関係者の熱意によって、あと何年もすれば、世界中各地でガキのハダカに興奮することがスタンダードになるに違いない。興奮するものがたくさんあることは、いいことだ(ということにしておこうか。たまには無難にまとめてみた)。

17.3.06

「少年は重い刑に」が25%

「少年は重い刑に」が25% 最高裁司法研修所が調査
殺人事件の被告が少年だった場合、市民の4人に1人が「成人よりも刑を重くするべきだ」と考えている−。最高裁の司法研修所は15日、市民と裁判官を対象に実施した量刑意識に関するアンケート結果を発表、判断のポイントによっては両者に大きな隔たりがあることが明らかになった。

なあんか、すごいことになってないか。こんな調子じゃ将来の裁判員制度はかなりヤバくないか。成人よりも少年のほうが重い刑罰を与えなければならぬと考える人って、いかなる法哲学に基づいてそう主張してるんでちゅかね(人間は血筋だけが重要にして、環境とか教育とか更正などは意味がない、という思想でちゅか??)。

だいたい、国内の少年犯罪などというものは年々減少傾向にあるのだし、「未成人は勢い余って殺人を犯す率が高い」のが万国共通なのに日本だけはそれが極端に少なく(宮崎学「殺人率」などの統計を参照)、他国から気味悪がられているくらいなのにな。

ただ、未成年の「動機なき」犯罪みたいのが、マスコミによってクローズアップされ、「なんだか怖いね」という風潮を生んでいるのは確かなんだろうね。「動機なき」というのは、そんなふうに思った人のアタマが悪いから。穏当にいえば、自分のアタマで考えようとすることを放棄してるから。それだけじゃんか。「あの世代はワケわかんない」などという、くだらない俗流世代論に踊らされて、「怖い怖い」と言っている人々がいることが、マジ怖い怖いでやんす。

16.3.06

winnyで世界平和

小泉首相もウィニー不使用呼び掛け
ウィニーに衝撃、芸能界困惑…住所、電話番号流出

すべての人民に感染されたwinny搭載のパソコンを!!
すべての情報を共有することによって、人々は平等になる
どうせ、みんな大した情報持ってないんだし
(それを秘匿することによって、価値が生まれているようなもんだ。いや、価値を生み出すために隠しているだけにすぎない)

24.2.06

指名手配写真は味わい深い

指名手配wiki

それらの写真は、もともとは「自動車の免許」「パスポート」「遠足での思い出」などという目的で撮影されたものである。
そういうものが、コンテクストからムリヤリ切り取られて、並列される。
それが指名手配の掲示である。そのムリヤリさに、哀愁を感じてしまう。

渡部克正(55歳)のいきなりポートレート(フケ専ホストか?)くさいのがあれば、吉屋強(28歳)のあまりにも無惨な切り抜かれ方もある(ちゃあんとイラストレーターくらい使ってくださいな)。大坂正明(56歳)の時代がかかった雰囲気も印象深い。

高橋克也(47歳)の「現在のイメージ図」もグッとくるものがある。お兄さん、ずいぶんと老けましたなあ。時代も変わりましたなあ。そういえば、あの子は今どうしてる? などと、縁側でお茶を出してあげて、面識の一つもないのに懐かしい話の一つもしてあげたくなる。

わたしも、学生時代こういう指名手配ポスターを集めていた。お巡りさんがよそ見をしているスキに交番からはがして持ってくるのである。窃盗である。なにしろ指名手配のポスターは「期限が過ぎたら、燃やしてしまう」らしく、わたしのような愛好者の手には渡らないシステムなのである。何度もお巡りに交渉したが、ダメだった。仕方がなく、やった。よって、こういう犯罪は許されてしかるべきだろうと存じ奉る。

一昔、街を歩くといたる所に「オウムの手配犯」のポスターやら人形やらが飾ってあって、まるで、中国における毛沢東、北朝鮮における金親子、イランにおけるホメイニ師みたいだった。事情を知らない外国人旅行者などは、「彼らは日本の支配者に違いない」と思ったことだろう。

18.2.06

アダルトな夜

なにやら、おおっぴらにアダルトビデオを見ることが流行っているらしい(こんなことがニュースになって全国に報道されるのか、という事実にまず驚くわけだが)。
<アダルトビデオ>免許更新講習で誤放映 福岡県警の試験場(毎日新聞)
京大生が図書館でアダルト映像見る、女子学生が届け出(読売新聞)

こういう風潮が広まると、日本のエロ文化にも大きな影響を与えることは必至である。18歳以下は禁止だと口うるさく制止され、「そんなの見てんの、エッチね」とからかわれ、こっそりと家族が寝静まってから見るからこそ、アダルトビデオはエロく、代え難きものとして君臨しているわけである。

性衝動のスイッチというものは、後天的に作られている要素もあるのではとわたしは思っている。他人が性交する映像を見ると興奮するという作用も、成長の過程で文化として習得したといっていいのではないかと。だとすれば、鰯の頭を見ると性的な興奮が高まるという人がいてもいいわけだが、たぶんその人は社会的に苦労することことだろう。

しかし、当たり前のようにアダルトビデオを堂々と見ることが広まれば、そのようなビデオ自体が性衝動を引き起こすスイッチに成りにくくなってしまうのではないか。とくに、幼いうちからそういうことが当然になれば、エッチビデオで興奮するという文化は無くなってしまうのではないか。わしゃ、それでも別に構わないんだが。

いや、今ではアダルトビデオや官能小説などは、すでに「性衝動のスイッチ」ではなく、「癒し」として機能しているような気がする。高橋源一郎が「エロゲーは癒し」といっていたように、それらは衝動を高めるものではなく、精神を落ち着かせるために存在しているとのではないかと。そこに描かれているものは性行為という日常にすぎないし、それを導くためのストーリーが用意される。まるでテレビの「水戸黄門」のように、平穏無事な世界が描かれている、という見方だってできよう。

アダルトビデオは癒し——そんなことを言えば、アダルト業界や愛好者の方々はちょっとムカつきを覚えるかもしれない。わたしだって、「クラシック音楽って癒しよね」とかなんか言われれば、問答無用でそいつの胸倉を掴み、はっしはっしとその頬を打擲し、そのまま地べたに引きずり倒して、拳骨を振り上げながら「これが癒しだというのか、この拳が癒しだというのかぁ」と声を張り上げ、たくなる気持ちをグッと抑え、振り上げた手で髪をかき上げ、「まあね、そういう効果も作品には内在しているのでしょう。そもそも創造というものは、作り手ではなく、受け手のほうにウェイトが置かれるから」などとロラン・バルトの愛読者のようにニコヤカにのたまうに違いない。この腰抜けめが。

だから、アダルト系の人だって、「アダルトビデオは癒し」なんて他人にぬけぬけと言われた瞬間、「問答無用でそいつの胸倉〜〜中略〜〜ロラン・バルトの愛読者のように振る舞う」などいう葛藤めいた過程をたどっていたとしても不思議ではない。

もちろん、「癒し」とか「水戸黄門のように平穏無事」という言葉に、賤しめてやろうという魂胆は宿ってはいない。そればかりか、決まった枠組みのなかで、細かい差異を見出して楽しむという行為こそ、とても高度な鑑賞態度であるようにも思われるのである。そこには複雑な人間関係も、錯綜した心理状態も描かれることはない。そうした世界ならではの独特な詩情があると思われるのである。

先日、官能小説を作家の方よりいただいた。この方が拙著「わたしの嫌いなクラシック」をお読み下すって、大いに官能され、ご著書をお送りなすったのだという。わざわざありがとうございますです。なんとオペラをモティーフにした官能小説らしいので、今宵にでも、じっくりまったり癒されるとするか。

7.2.06

「どうで死ぬ身の一踊り」

知人から電話があって、西村賢太の単行本が出たことを知らされる。鶴首していたのに、すっかり忘れていた。いかんいかんと近所の本屋を回るが、置いてない。三軒目でやっとゲット。平積みにもされてない。何という不憫な扱い。雪がちらつき始めた道を家に帰り、一気に読む。文学界に掲載されていた「けがれなき酒のへど」が収録されていないが、こいつはいつか文春から出るのだろう。

「どうで死ぬ身の一踊り」には、私小説の王道ともいえる「自らの情けなさ」を綴った三作が収められているが、核になるのは、大正期の私小説家・藤澤清造への傾倒だ。毎月一回追善供養を挙げてもらうために石川県の菩提寺に出かけ、古くなった墓石を譲り受けて自宅へ設置、故人の手紙などを精力的に収集し、「藤澤清造全集」の刊行を目論んで編集に明け暮れる日々。その執念は、まさに宗教的帰依といっていい。
そのための費用は同棲している女の実家に出してもらっているが、たびたび激昂してその女を殴るやら蹴るやら。もちろん、女は逃げ出すが、主人公はその女に惨めなほどに固執する。今日において、オトコが何かに強烈に「帰依」するということは、ミソジニーをも誘発する。同棲している女とのトラブルは必然的ともいえるだろう。

こういう生き方をしたのは藤澤清造その人だった。つまり、西村賢太は藤澤清造と一体化を目指しているというわけだ。まさしく、真剣なパロディ。もはやパロディでなくては生きていけないということ、さらにそれは軽いノリなんかじゃダメでつねに真剣でなくてはならない、という今日ならではのテーゼがここにはある。ともあれ、藤澤清造の辿った道筋を全身全霊、真剣にトレースしていくような作者の物狂いっぷりが鮮烈だ。

3.2.06

次第に振り込め詐欺になってきつつあるNHK

故意の未契約50万件対象 NHK民事訴訟検
NHKの橋本元一会長は2日の定例会見で、受信料未契約者への対応について「信念を持って受信料契約をしない人が推計で約50万。その人には民事訴訟を考えていかざるを得ない」と述べ、故意に契約を結ばないケースを対象に、訴訟を検討していくことを明らかにした。

やるなNHK、いいぜNHK、そのコワモテなとこ大歓迎だぜ。
とは申しましても、たとえ未契約者と民事に持ち込んでも、現行法ではあまり勝てる材料はないから、とりあえず脅してみました、というのがその本音だろう。これでビビった視聴者がNHKにゲンナマを振り込んでくれればラッキーというわけだ。まあ、やり方としては、振り込め詐欺とか架空請求詐欺みたいなもんだ。しかし、こういう詐欺での被害総額は400億円を越えるのだから、それを闇の組織ではなく、「みなさまのNHK」に使っていただくのは、ひじょうに望ましいのではないだろうか。振り込め詐欺でも架空請求詐欺でもいい、どんどんやってこませNHK。

もちろん、NHKの未契約の増加は地域共同体の崩壊と関係があるわけで(「公共放送だから払わなきゃ」という倫理観よりも「みんなが払っているから自分も」という判断基準)、そのへんをいじらなきゃ、何も変わりはしねえ。いっそのこと、今の予算の半分くらいでやったほうがいいのではないか。そもそもNHKは金持ちで金遣いが荒い放送局。ここで、ロハス路線に転向というのも悪くない。

NHKのビンボーな番組が好きだった。こういう番組は地方局の限られた予算内で作られていたから、見せ方一つにもアイディアがふんだんに盛り込まれていたものだ。たとえば、「ふるさとのアルバム」の「こんぴらさん」(1973年)は、スチルを多彩にコラージュして、コレってイメージ・フォーラムのシネマティークですか、っていうぐらいの実験映像だった。こういうの、またやってくんないかなあ。そういえば、トルストイはある小説の冒頭をこんな文句で始めてなかったっけ?

「金がかかった番組はみな一様であるが、ビンボーな番組はそれぞれ全部違う」

27.1.06

肩書きがイカしてるぜ元・自称占い師。

ホリエモンのあとは、東大和市の一夫多妻男と京大レイパーに人々の関心は引き継がれようとしているが、あと何日持ちますやら(個人的には、北海道のスケトウダラ散乱事件がツボだ。魚とパンで五千あまりの人々を満腹にさせたイエスの奇蹟を思わせるんだもの)。

例の一夫多妻君だけど、女性を脅した文句が、妙に素人くさく安っぽい。

「ここを出ていけばミンチにされる」
「ここでのことを人に話したら、殺されたり、事故に遭ったり、病気になる」

これが、脅迫ですかい、旦那。単なる寝言にしか思えないんだが。こんなもんが脅迫にあたるのなら、細木数子だって逮捕されているだろうよ。当然、ノストラダムスもな。
あたくしが暗がりでハゲおやじにこんなことを言われたら、プッと吹き出してしまうだろうよ。日頃、悪意から目をそらしてばかりいると、こんなにドラマティックな恐怖を体験できるというわけなのか。純粋ってすばらすい。

まあ、こんな低レベルのマインド・コントロールに引っかかる人はまだいるのだな、と皮肉抜きでわたしはひたすら感心するのみである。学校とか国とか会社とかマスコミとかの強烈なマインド・コントロールよりも、こんな怪しげなオヤジのコントロールに引っ張られちゃうユニークな人々が存在すること自体、世の中捨てたもんじゃないなと、何やら楽しげに思われてしまうのである。

26.1.06

ともかく神話には逆らうなっていう教訓

ライブドア騒動も一段落着いたかなと思ってテレビを付けたら、いまだ同じような報道ばかり。ホリエモンはいまだに重要なコンテンツらしい。せいぜい長生きしてくれよ。
ま、この騒動、5年後には忘れているような、よくある話である。
簡単な構図にしてみれば、これだけにすぎない。
宗教的な人間(組織)が、神話的な人間(組織)に葬られた。

宗教的とは、「教義」をもとに行動することである。「教義」という、これまでになく、突飛で、挑発的なものを「これが大事なんだぜ」と持ってこれるから、行動はそれ以外のものに縛られない自由さがある。
一方、神話的とは、「現状」をもとに組み立てられた物語に沿って、行動することだ。「神話」は、自分たちの民族や国家がどのように誕生したか、その正当性を証明するために都合よく作られた物語。こういう幻想を信じておれば、とりあえず破綻はない。

ホリエモンの教義は「なんでも金で買えちゃうもん」というあからさまな拝金主義と、アングロ・サクソン譲りの合理主義だった。これが、日本経済を支えている「神話」と噛み合わなかったというわけで。そんで、一度潰そうと思えば、法律など解釈次第。

宗教的な人間は、ともかく勢いがあるから、一定の人気を集めやすい。伝統などに反発する者からの支持もある。しかし、宗教的人間は、神話的人間によって占められた伝統勢力によって、必ずや潰される。これが日本の歴史といっていい。
平将門、織田信長、天草四郎、皇道派、学生運動……。

これが、毎回のように繰り返されるだけである。まったく退屈きわまりねえ。

まあ、ホリエモンが逮捕されたのは、彼が裏の世界に中途半端にしか繋がっていなかったからのような気もするわな。もっと悪人に徹して立ち回っておれば、検察も手を出せなかっただろうに。目立ちたがる人間は、そういうところに疎い。

この事件について、フランスのリベラシオンが面白いことを書いていると、日刊スポーツが報道している。
日本の大企業経営者や政治家は、ヤクザの不正行為には目をつぶることがあっても、堀江氏の米国風で無礼な日和見主義は拒絶した

(原文)Si la plupart des grands patrons et politiciens nippons ferment en partie les yeux sur les agissements illégaux de la mafia nippone (les yakuza), caste ancestrale à la tête, dit-on, d'environ 30 000 entreprises légales au Japon, ils refusent l'opportunisme insolent, «à l'américaine», de Horie.

ううっ、こんな真っ当なこと、日本のメディアは絶対に言えないよな……。財界や政界にはヤクザがねっとりと絡んでるなんて、こたあ。
このリベラシオンのホリエモン紹介はなかなか細かい。彼のニックネームが「ドラえもん」から来ているなどなど。

20.1.06

文化の均質化に異を唱え、恵方巻の置いていないコンビニを求めて街を彷徨う。

この時期、コンビニに行くと、恵方巻というものが売られている。去年あたりから目立ってきたが、今年はそれがもっと徹底されているようだ。どこのコンビニに行ってもコーナーが準備されているなど、恵方巻を扱っていないコンビニを探すのが大変なほどである。

恵方巻とは、なかに7種類の具を詰め込んだ太巻きなのだが、これを節分の日、一定の方角を向き(それは毎年変わるそうである)、願い事をしながら無言で食べる(まるかぶりする)のだという。昨年、その話を聞いたわたくしは、なんておバカな奇習だぜ、と面食らった。紳士淑女のみなさんが一斉に、一定の方角に向かって寿司を黙ってもぐもぐと喰らうビジュアルを想像し、おかしみを禁じ得なかったのだ。こんなマヌケなことは、メッカの方角を向いて祈るイスラム教徒への冒涜的なパロディではないかと思ってしまったほどだ。

恵方巻は、大阪あたりの風習だという。なるほど、そういう民俗があるのはわかる。でも、そんなヘンなものを全国に広めてどうする気なのだ? イタコは恐山に居ればいいのだし、ナマハゲは秋田という文化的背景によって成立しているものだ。イタコが歌舞伎町の角で口寄せをしていたり、ナマハゲが世田谷区の住宅街に出没なんてことになれば、ありがたみや怖れ、奇抜ささえもなくなってしまう。

奇習は、それが生まれたところで行われているからこそ、その意味があるのである。文化の均質化は、モノゴトを本当につまらなくする。

ところで、この恵方巻、昔からある風習ではなくて、1970年代に大阪の海苔問屋の組合が始めたものだという。たった30年前とはいえ、風習は風習。30年間も続いたのも、その土地にそれが根付くだけの文化があってこそのものだろう。それが、全国に広まって、国民が一斉にまるかぶり出したら、その奇習のありがたみが失われてしまう。そのヘンテコな様子を見て、ヘンテコだと思う感性も無くなってしまう。そういう世の中って味気ないのよね。がうう。

16.1.06

条件


この画像は、変人ピアニスト大井浩明氏がある朝突然送ってきたものである。
「のだめカンタービレ」という売れ線マンガ一コマらしいが、わたしはこの作品はまだ読んだことがない。だから、このコマのコンテクストがどうなっているのか、サッパリわからぬのだが、おそらく「オマエも山形出身だから、こういう気持ちになることあるんやろ?」というメッセージなのだろう。いや、遠く故国を離れている大井氏自身の心情がそこに密やかに仮託されているのやもしれぬ。

ともあれ、モノゴトに嫌気が指したときはどこかに逃げ落ちたいという気持ちはわたしにもある。こういう場合、「奥多摩に籠もりたい」などと真っ先に考えてしまう。無意識のうちに、交通費やらを計算してしまっておるのかもしれぬが。

山形に帰りたいと思うときももちろんある。
モンテディオ山形の大事なホームゲームが控えているときとか、親戚親兄弟が亡くなったときとか、財産分与するからとりあえず顔を見せろと言われたとか、「会いたくなったから、すぐ来て」と初恋のあの娘に言われたとか、「今回☆ラッキー☆なことに、あなただけを特別にご招待します。もちろん完全無料!!」なんてメールが来たときとか……。
要するに、あまりそういう機会は多くはない、ということである。

ほかに強いて挙げれば、東京で思わず蕎麦屋に入ってしまい、何とも味気ない蕎麦を食っているときである。なんだい、この白々としたソウメンみたいな代物はよ。しかも、ここいらの原住民は「蕎麦というものはな、タレにちょっとだけ付けて食うんだよ」なんて説教こくから、たまったもんじゃないずら。こんな貧しい食文化を目の当たりにすると、だしぬけに山形に帰りたくなることがあるものである。

そもそも、このセリフ「もうイヤ! 山形へ帰りたい!!」じゃ、オレ様的にゃ切迫感がまるで出てないんだな。ここはこうあるべきではなかろうか。
「もうやんだは! 山形さ帰りだいず!!」
うん、こっつの方がずぅぇっとリアルだよ、おっかさん。

14.1.06

「砂の女」の怖さ

図書館からビデオを借りてきて、映画「砂の女」を見ちまう。監督が勅使河原宏、武満徹が音楽を担当した、名作映画だ。岸田今日子の田舎くさい官能性もハマってる。安部公房の原作に忠実で、映画ならではの突飛な結末などはないものの、久々にこういうテイストの作品に接して、色々と考えさせられたもんだ。

最近、安部公房を読んでいる人が少ないような気がどこかでしていた。わたしが大学に入ったとき、「オレはコーボー・アベの研究をするんだ」と言っているヤツがいた。しかし、こういう学生は今はいないような気がする。映画を見てこの理由が、なんとなくわかった。

あらすじを書いておく。砂浜へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底の一軒家に閉じこめられる。そこには女が一人で住んでいて、家と村を守るため、脱出しようとする彼を引き留める。彼は脱出に失敗、失意を味わいながらも砂穴の生活を続ける。しかし、その生活に慣れていくうちに、新たな日常のヨロコビを発見し、「逃げるのはいつでもできるさ」と、 訪れた千載一遇の逃げるチャンスを自ら退ける。

女や村が男を砂穴から外に出さず、そこに同化させようという恐怖感は、この小説を初めて読んだ15年前には、わたしにとってまだまだアクチュアルであった(ムラに収束されること、家庭に組み込まれることに対して、今でも恐ろしさを感じちゃちゃうんですな)。だから、最後に主人公の「このまま、砂のなかで暮らしてもいいや」との開き直りには、まさに「敗北」という感想を持ったものだ。

しかし、今の世の中全体では、わたしが覚えたような恐怖が希薄になってきているように思える。砂穴でのまったりした幽閉生活が、面倒な「外」に出るよりも気楽になっている風潮が高まっているのではないか。因習で固められた単調な日常のほうが、モノゴトを深く考えずに済むし、人々はそちらのほうを「安定」という言葉に託して嘱望しているように思われる。これじゃあ、「砂の女」の意図した恐怖感がまるで伝わらねえ。安部公房がサスペンスあふれる筆致で描こうと、武満徹が恐ろしげな音楽をつけようと、今を生きている人たちは、「なんで、それが怖いの?」と思ってしまうだろう。

「敗北」することによって、明るい未来が待ってるんだわさ、という考えには同意する。でも、そのこと自体が「敗北」とも思われないことが、あたいにはちと怖いのさ。

8.1.06

【今年の初夢】刑務所が本だらけ

オウム説法集は「一般図書」 岐阜刑務所、持ち込み制限(朝日)
オウム真理教の説法集は宗教上の「経典」とは認めない——。そんな刑務所の判断に、服役中の元幹部が異議を唱えている。受刑者は通常、一般図書3冊に加え、宗教の経典や辞典などを別枠で持ち込める。だが、刑務所側は「オウムは宗教法人ではない」との理由で説法集を経典と認めていない。元幹部は「法人格の有無で差別するのは憲法違反だ」として、国に100万円の慰謝料などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

法人であるのか、そうでないのかによって、宗教であるかどうかが決められる。
まあ、明らかにおかしいのだけれど、お役所にとっては宗教かそうでないものに明確に線引きしなくちゃ、面倒でやってらんねえってことなんだろうな。そうでもしなきゃ、「完全自殺マニュアル」だの「アンチ・オイディプス」だの「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」だの、「これは自分にとって経典だもん」と言って何冊も本を持ち込みされかねん。刑務所が本だらけになってしまいかねない。

そういえば、オウム真理教が数々の事件を起こしたとき、「人を殺すオウム真理教は、宗教なんかじゃありません」なんて発言している人をよくテレビなどで見かけたものだ。ったく、この人は宗教を何だと思ってるんだろ、と若かりしころのわたくしは結構ムカついたものだ。人の心を落ち着かせるだとか、清掃作業などのボランティアしてますだとか、そういう無害そうなものだけを宗教と呼ぼうとする風潮は何とかならんかねと。

宗教とは、過激なもんじゃなくてはいかん。少なくても世俗の通念に反抗するものじゃなくちゃ、と思うのだが、最近ではそうではなくなってしまった。最初はキリスト教も仏教も、既製の認識を変えるという目的で興された、かなりヤバいものだったのにさ。
社会と宗教とは、当初は相容れないものだったのだけれど、だんだんと宗教が社会に適合していく歴史が、宗教史ってわけなんだろうな。もちろん、そうなったものはもう宗教ではなくなって、抜け殻みたいなもんなんだが。

オウム真理教がクローズアップされたとき、こいつは思いっきし宗教くせえのが現れたぞ、とわたしは興奮したものだが、ヤツらはあまりにもバカ正直に宗教路線を邁進してしまった。「人を殺してもオッケー」なんて調子こいて息巻くのは、あまりにも正攻法すぎて、新味さえない。世俗が力を持ちすぎている世界では、まったく愚かだ。何ら影響力を発揮せずに、みっともねえ集団で終わっちまうだけだ。
もっとチクチクと嫌らしく認識を変えていくような宗教が静々と現れないもんか。それまで、わたしくは大人しく正法眼蔵(ATOKは「消防現像」なんて変換しやがる。相変わらずバカですなあ)でも読んでることにすっべ。

もちろん、この「宗教」という言葉、そっくりそのまま「芸術」と読み替えてもいいわけで。

28.12.05

プロジェクトXがやっとこさ終了。

今晩で、NHK番組プロジェクトXが終了する。
実にダメな番組だったが、なぜか人気が出て六年も続いたらしい。
熟年世代を自己肯定させ、彼らをいい気分にさせてくれる番組ではあったけど、そうじゃない世代にとってはひたすらキモい番組に思えたんだけどなあ。結局は、勝利者をネタに敗者が癒されるという構図があっただけではないのか。
もちろん、そういう必要性があったから、番組はウケたわけで、それを批判するつもりはまったくない。
では、なぜこの番組がダメなのか。

まず、映像として、何の魅力もないんだよね。
再現ドラマというもっとも安易な方法を多用するなど、何の工夫もない。
それに、最近のテレビはみんなそうだが、やたらに押しつけがましい。字幕はバンバン出すし、BGMは途切れない。おみゃあ、イチイチうるせえんだよっ。
試しに、この番組を画面を消して音だけを聞いてみればいい。
内容がすべてわかってしまうのだ。ナレーションが何でもしゃべりすぎなので、音だけで説明できる。テレビでラジオ番組されちゃ困るんです。

もっとも気になるのは、事実を単純化しすぎ。「視聴者のおめーら、今回はこういう感動で行くぞ!! 着いてきやがれ」という筋書きが実にミエミエ。スタジオに呼んだゲストを妙に「感動」方面に誘導しているのも気になる。ここまで単純化したら、ヤラセや捏造が起こって当たり前でしょうに。

あからさまにミエミエなのに、「この番組見て感動しないアンタは感情の欠落したヒネクレもの」なんて言われてしまうのが、また迷惑千万である。もっと精緻に見せてくれれば、感動もするさ。最初のオープニングから気合い入った「感動しろしろ光線」を浴びせかけらりゃ、こっちはぐったりしますって。

はあん、プロジェクトXってのは伝統芸能と思えばよいのだ。
つまり、ミエミエという仕掛けが最初からわかっていても(ロラン・バルトが文楽に対して述べた「仕掛けの露呈」)、その空気にまんまと順応して、感動ストーリーを受け入れることができるってわけだ。そこにはストーリーを精緻に構成することも、リアリズムも必要ない。背景は書き割りで充分、能のような最小限の所作でオッケー。見る人が、どーんと感情を移入してくれればいいんだから。いつのまにか、この番組はそうした器に成長していたのだった。
そして、自分としてはテレビにそういうもんを求めていないから、こんなふうにウダウダ文句たれちまうわけだ。

今晩の最終回はこれまでのダイジェスト版というカタチ。何の反省もなく、自らの番組を自画自賛しまくってる二人のアナのやり取りが寒い。当然、報道された捏造事件には触れないし。どうせなら、「不祥事で逆境に立つNHK職員の苦悩と、その再生と飛躍」の物語でもドカンとやってくれたら、そのメタな姿勢を存分に評価したのにな。

こんなわたくしも、なぜか最終回の放送をチラ見しながら、これを書いている。なぜかというと、今日は中島みゆき様がご出演なさるのである。文句タレタレなわたくしも、みゆき様の前にはヨレヨレだ。ひれ伏すのみ。ハハーッ。
今日は生放送だ。みゆき様のことだから、制作側の意図を越えたぶっちゃけ話でスタジオの空気を方向性をどっちらけにしてくれることを期待しつつ。

と思ったら、歌だけで終了かよお。トークはないんかい。
しかし、最近のニコラウス・アーノンクール顔負けのアーテキュレーションの変化が際立った演奏だ。ちょっとやりすぎの感もあるが、最後の最後をみゆき様の笑顔で締めくくるなんて、なんて汚いんだNHKは。
終わり良ければすべて良し、なんて言いたくなるじゃない?

27.12.05

「パリ・ルーヴル美術館の秘密」

パリには何度か行ったけれど、エッフェル塔もルーヴル美術館も未体験だったりする。ポンピドー・センターとかIRCAM、または地下鉄の乗り換えで迷って、地上に出たらそこが凱旋門だった、ぐらいの観光はしてるけど。
朝、ルーヴルは入り口の入場券を求める行列を見て、「今日はやめとこ」と素通りして、墓地やカタコンベに行くのが、わたしの標準的なパリの過ごし方だった。おかげで、パリの三大墓地で撮った墓写真ばかりたまってしまったわけなんだが。

先週末、前に買っておいたルーヴル美術館のドキュメンタリー映画DVDを見た。監督は最近ちょっと気になっている、ニコラ・フィリベール。この映画、ルーヴルでまったり過ごせそうなスケジュールは組めないかな、とマジ検討させてくれるに足る代物なのだった。

とにかく映像がすばらしいんでございますよ。
美術館に置かれているだけで、美術作品の魅力は半減すると思っていたわたしだが、うへへ、さすがルーヴルは違いますな、と感嘆してしまう。美術品がすっかりその場に溶け込んでいる様子が、滑稽なくらい徹底的に映像化されているのだ。
そして、そこで働く職員たちの日常が淡々と描かれている。一般人が想像するよりも美術品は荒っぽく扱われているし、地下の収蔵室での無造作に並べられた彫刻など、その日常的なところがやけに眩しい。美術品はわれわれにとって、非日常だけれども、職員たちには日常。そういう親和性がめっちゃ麗しい。

この映画は美術品への解説が一切ないので不満だ、という評をどこかで見たことがある。
なんちう愚かなことをおっしゃるんざますか。そーゆーのを求めるのなら、NHKの美術番組でも見てればよろしいんである。
解説もナレーションも、作品名のテロップも一切ない静謐なところが、この映画のすばらしいところなのだ。ドキュメンタリーなのにインタビューの類がまったくないのもいい。すべては映像が語ってくれてるんだから。

何でも解説してもらわないと困る人々がいる。
たとえば、美術展などで、絵を見る前に必ず作家名と作品名の書かれたキャプションをチェックしなければ気が済まない人である。少し離れたところで観察していると、キャプションと作品を見ている時間の比率が7:3ぐらいな人も少なくない。いったい何しに来ているのだろうと思う。これだったら、自宅で寝転がって出品目録でも読んでいたほうが、時間の節約になるだろうに。
クラシックの国内盤には必ず「過剰」な解説が付けられているし、文庫本を買うと解説が付く。それに、サッカーのテレビ中継には、やたらによく喋る実況と解説が付く。
はっきりいって、すべて余計である。
そんなもんがあると、「それが一体自分にとって何なのか」という考える余裕を奪ってしまう。

この映画、原題を直訳すると「ルーヴル村」でもなるはず。「パリ・ルーヴル美術館の秘密」という日本訳も、いかにも解説ありき的な発想なんだよなあ。ぐう。

25.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト2


神棚を有効に活用しているという満足感であろう、寝床についても寒さに打ち震える、ということが少なくなった。その効果は、一枚多く着こんだという物理的条件によるものだけではないはずだ。
そのおかげだろうか、先日、寒い小説とわたしが嘆いた鹿島田真希「ナンバーワン・コンストラクション」も、その寒さの原因がはっきりとわかれば、ぬくい心で読む進めることができた。
この小説の寒さの要因は、まず、登場人物が素朴で善良な人ばかりである、ということに尽きよう。おかげで、彼らのセリフが信じられないくらいに「寒い」。
また、語りの視点が一番上にあるから、登場人物の心情が読者に情報として極めて平等に与えられる。つまり、ウラがない平面的な感じ。あらゆるものに、平均して光があてられていて、陰影がとぼしい。蛍光灯の光のように、照度的には明るいのかもしれないが、温かみがない。
善良な人たちが織りなす、ウラがほとんどない世界(それはとてもシュールな世界にわたしはには思えた)が、その「冷たい」世界が、小説の構造を支えるテーマである「建築」と対応している、ということなのだろう。
小説のハナシはもういい。
向上心に突き動かされたわたしは、神棚をパワーアップさせることにした。
何か、暖かくなるような供え物を。
黄色い神体に合わせ、黄色いものをわたしは見つけた。

モンテディオ山形のアウェイ・ユニホームである。
しかも、胸スポンサーは「はえぬき」ときた。ブランド米である。
すばらしい。これを供物として捧げれば、豊饒が約束されるようなものだ。

戦後の農家の課題は、「あまりたくさん作らないようにする」ということだった。
たくさん作物が取れすぎると、値段が下がる。高値で売れないから、もうからない。
取れたものを市場に出さずに処分する、なんてこともあるように。

モンテディオ山形というチームも、このような構図と無縁とはいえぬ。
たとえば、順調に勝ち星を挙げると、チームはJ1に昇格してしまう。
J1に行きゃ運営費がぐーんと上がる。よって、運営会社(山形の場合、社団法人)は必死に頭下げてスポンサーを集めなければならなくなる。しかし、そんなバイタリティはもともとないし、手間はなるべく省きたい。赤字もなく、このままJ2で中位を保っていたほうが、自分たちが運営しやすいってわけだ。
だから、主力選手には慰留を求めずに放出し、必要なポジションの補強はあまりしないようにし向ける。つまり、勝ち星はほどほどに、というわけだ。
こんなことは噂にすぎないが、それが事実であってもおかしくないのが現在の山形ちゅうわけ。前監督もそんなフロントに愛想を尽かして出て行ったようだし。

つまり、あまり豊饒であっても、いけない。
ほどほどの豊饒を。腹八分目。別腹なんてありません。
この神棚の上にあるものは、そんな悲しい現実をも伝えてくれる。んがあぁ。

23.12.05

今週の困ったちゃん。

正直、困ったちゃんな演奏だった。
今週水曜の都響定期、指揮者ジャン・フルネの引退コンサートのことだ。
そのときの概要は「ぶらあぼ」のサイトに書いたけど、これはあくまでもニュースとしての記事。
そんで、オマエは個人的にどう感じたか、と聞かれれば、冒頭の「困ったちゃんな演奏だった」と答えるしかないのである。
そのコンサートは演奏会というよりも、完全にセレモニーでしかなったからである。
いや、コンサートとは一種のセレモニーなのであるから、今回はセレモニー的要素がなければ演奏そのものが存在しなかった、と言い換えたほうがいいかもしれないけど。

この日の演奏は録画され、DVD化されるという。その前にNHKの芸術劇場でも放送されるらしい。
やめたほうがいいのに、と思う。
演奏は記録したものでも楽しめることがあるが、セレモニーはその場に参列した者でないと、その意味を心から享受することはできない。
果たして、「フルネの引退コンサート」というセレモニーに立ち会っているという興奮を除外してこの演奏を聴いた場合、人々は何と感じるだろうか。
フルネの演奏を知らない人が視聴すれば、彼がこんな程度の指揮者だと思ってしまうだろう。
そういう演奏会だったのである。

だいたい、演奏開始前の場内アナウンス、「二度とないフルネ氏の引退公演を皆さんで楽しんでいただけますよう、ご協力をお願いします」って、いったい何なのよ。
「二度とない」のは、どのコンサートでも同じ。わたしはそのアナウンスを聞いて、ちょっと不安になった。演奏がボロボロだけど(すんまへんすんまへん)、記念すべきコンサートなのだから(みなさんはそのへんわかってるでしょ?)、文句言わずに楽しめよ(同じアホなら踊らにゃソンソン)、といっているように聞こえたからだ。

前半はまったくノレなかった。
ベルリオーズの《ローマの謝肉祭》は、直線的でいかにもフルネのアプローチだな、とは思ったけれど、あまりにもオーケストラの反応が良くない。リズムが眠そうで、これがフルネの演奏なのか、と悲しい気分になる。いかにもフルネらしい解釈だったから、その詰めの甘さが気になってしまうのである。

二曲目、伊藤恵をソリストに迎えたモーツァルトは、遅いだけのユルユルな演奏に終始。
どうもこの人のピアノが好きじゃない。以前、同じ組み合わせでラヴェルの協奏曲を聴いたことがあるが、第2楽章冒頭のソロをあまりにも無関心・無感動に弾いていたので、アレ? 何かあったのかしら、と心配になったものだ。この日も同様、ベッタリ音で、音と音のつながりを無視したように弾く。
もちろん、「表情なんかつけてやんないゼ」という表情さえない。そういうものは、もう「無私」の境地とお呼びして、崇め奉るしかないだろう。

休憩を挟んで、メイン・プログラムはブラームスの交響曲第2番。定評が高いショーソンとかルーセルの交響曲で締めて欲しかったのだけど、フルネは心底ドイツものが好きなのだ。
テンポは遅く、薄明の美が漂わせながら、曲が始まる。第1楽章展開部も終わるあたりから、オーケストラの音も立ってきて、やっと音楽が立体的になってくる。
問題は、オーケストラはフルネの棒で演奏していないということだ。振り間違いも多い。コンサートマスターの身振りが次第に大きくなるのがよくわかる。
音楽はぶくぶくと大きくなり、空中分解しそうになる不安定さに、わたしはドキドキしてしまったものだ。オーケストラも必死だったろう。

往年のフルネは、ノリが悪い都響をよく引っ張っていたものだ。インバルやベルティーニよりも相性が良かったと思う。
そういう指揮者の最後の演奏なのだから、オーケストラは必死こいて指揮者の解釈について行く可能性もあるんじゃないか、なんて甘い考えもあった(クルト・ザンデルリンクの引退コンサートのように)。しかし、それは彼らのここ何年かの演奏を聴いていれば、そんなことは起こらないのは明白だった。

ついて行かせるだけのモノをフルネはすでに失っていたからだ。
テンポは緩慢になり、彼の持ち前の造形感覚はフルネにはもう無かった。
今、オーケストラが必死こいてるのは、「指揮者の〝間違った〟解釈に、いかについていかないようにするか」という命題に対してなのだ。敬愛していた指揮者の最後の演奏会をつつがなく終わらせるためにも。

ブラームスの第4楽章は、演奏者、そして聴き手の様々な思いが交錯するような、「壮大」な音楽になった。
あーあB級だな、と思いながらも、オーケストラの明るい響きに浸っているうちに、何かしら暖かい感情が湧いてくるのだった。
これが、まさに「92歳の指揮者の最後の仕事」に接しているという、セレモニー効果なのだろう。
演奏直後には、不思議に心を動かされたものだ。
演奏そのものは評価できなかったとハッキリ言えるけれど、まんまとセレモニーのオーラにやられちまった、ということだ。そこが、「演奏」が聴きたかった自分としては「困ったちゃん」なんだよな。うぷっ。

20.12.05

トリエンナーレな日

先週土曜日は横浜トリエンナーレで一日を過ごす。
今年こそはパスポート購入して、少なくとも3回はぶらつきまくるぞうウリャア、なんて考えていたが、実際には最終日の一日前、閉幕間際に飛び込んじまうことになっちまった。
なにしろ、横浜という距離がビミョーでなんである。とくに、自転車族である自分にとっては。
都心ならホイホイと気軽に遊びに行けるし、水戸とか前橋ならば気合い入れて「この日は絶対にまみえるべし」という予定を立ててしまうのだが、中途半端な横浜だと、「今日はダルいしー、あんましエンジョイできないともったいしー、また別の日にするべし」なんてズルズルと行く日が遅延されてしまうのだ。

こういう場所は自分にとっては遊園地そのもの。
ゲートをくぐった瞬間の、なんともいえない自由な空気がたまらない(こういう空気を求めて、美大の学祭なんか行くと、妙な閉塞感にぐったりしてしまうけど)。
ガキを押しのけてでも、とにかく遊ぶ。コンセプチュアルなやつ大歓迎。余計な能書きがなければ、ないだけいい。
壊していい作品があれば必死になって叩いて踏みまくるし、気に入った映像があれば何十回も繰り返し見たりする。

堀尾貞治と現場芸術集団「空気」による百均絵画でも、オーダーにないやつをわざと注文してみるが、そばに居た関係者に「今日は忙しいから」とやんわりと断られてしまう。
ヴィンター&ホルベルトのブランコで横になって乗ったら、「危ないからやめて下さい」と係員に注意されてしまう。それにしても、ブランコっつうたら、八谷和彦のオーバー・ザ・レインボウをしみじみと思い出すなあ。

今回は「これは」とうならせ、そのアイディアに脱帽するのみならず嫉妬の念まで巻き起こし、地面に寝転がって足をバタバタさせてしまうようなものはなかったけれど、充分に遊べたので、満足。都心にもこういうの常設しとけよな、高層ビルばっかし建ててないでさ(とはいえ、常設すると、面白味は半減するのかも。やはり消えてなくなるはかなさが、気分良さげな空気を作ってるのだろう)。

すっかり暗くなったナカニワで野村誠を被写体としたビデオを二本観て、気持ち良く締め。
動物相手にコラボレーションを企てる野村さんは、やっぱすごかった。彼の鍵盤ハーモニカを聴いて、うっとりしてしまうライオンのシーンなんか、まさにオルフェウス状態。無性に彼のライヴに行きたくなった。

19.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト1



最近寒い、などという当たり前のことを書きたくなるほど、自分が今住んでいる家は寒い。
夜、ふとんのなかで本を読んでいると、息が白くなっているのがよくわかる。
読んでいるものが、新潮1月号の鹿島田真希の新作だったから、ますますカラダが芯から冷えこんでくる。

これも、やはり神棚(正しくは、「微妙に神を祀るのに適した棚」)に箱なんか置いているせいだ。
時期は師走。正月も近いぜ。
ということで、縁起物をそこに配置して進ぜよう。
わたしが保有している縁起物は、この黄色に塗りたくった正月のお飾りしかない。
これは、もう十年以上前になろうか、畏友芳賀徹(現在紙漉き職人)が郵送してきたものである。お飾りを黄色一色に塗ったものに、わたしの宛名を書き、切手を貼って年始代わりに送ってきたものだ。
当時、彼は常識では考えられないものをそのままの姿で郵送して送る、という芸術活動を行っていたから、こうしたヘンテコなものをわたしもよく受け取っていたのだった。

ある日、わたしが当時住んでいた鶯谷の集合住宅に帰ると、メールボックスの上に何か黄色いものが横たわっている。
まるでうち捨てられたゴミのように。
不審物、といってもいいだろう。
こんなものがパリの地下鉄のベンチの上に置いてあったら、間違いなく爆破される。駅構内が30分くらい閉鎖されてしまう。
わたしはゾクゾクとした予感とともに、そのゴミのようなものに手を伸ばし、それが芳賀徹からの贈り物であることを確認した。郵便局員はそれがポストに入らないので、ボックスの上に置いていったのだろう。
それから、4度も引っ越しをしたが、「お飾り」はいつもわたしの家に飾られていた。
表面には宛名が記してあり、そのまま表札として使いたくなるほどキュートなのだ。

今回は、それをしかるべき場所へご神体として祀ってみたらどうなるだろう、という実験である。
なかなかサマになる。暗がりのなかに、黄色が映える。
このように配置してみると、人のカタチに見えなくもない。
黄色く発色する人。まさしく、異星人信仰。
これは、古来のマレビト信仰に近いのかもしれない。
かつてはうち捨てられていた彼を拾って、暖かく迎える。
彼は災いを廃し、福を成し、そしてまた異星に飛び立っていく、というわけだ。
ありがたい。
これで、どんな寒い寝床で寒い小説を読んでも、平気なような気がしてくるのだから、信仰はやめられない。うはは。

16.12.05

実名はおいしい

犯罪被害者は実名発表を キャスターらが申し入れ(共同通信)
犯罪被害者の実名、匿名発表を警察の判断に委ねる政府の犯罪被害者等基本計画案をめぐり、鳥越俊太郎さんらテレビキャスターやジャーナリスト計21人が16日、この記述を削除、修正するよう求める緊急提言を内閣府に申し入れた。
 提言は、(1)実名発表がされないと犯罪の背景や事実確認の検証、調査が困難となり国民に真実が伝わらない(2)原因究明に支障が生じ、事件の再発防止に影響を与える(3)捜査ミスや怠慢隠しのために恣意(しい)的に使われる可能性がある−と指摘。


事件や事故の被害者の名前を容赦なく出して報道するのは、今や日本のメディアの特徴でもある。
報道機関にとっちゃ、事件や事故はお宝コンテンツだ。それをいかに扇情的に暴いて、ワイドショーに仕立て挙げ、視聴率を上げなければいけないか、ということに関係者は心血を注ぐ。
だから、被害者が匿名になってしまっては、ひじょうにヤバい。被害者が匿名だと、ドラマティックな物語作り(これを日本では報道と呼ぶ)ができなくなってしまうからである。

一方、視聴者からみれば、「ここで亡くなった人は、あなたとは関係のない人ですよ」という安心感を与えると同時に、「死んじゃったナントカさんは、本当に気の毒だなあ」という感情移入を促すために、実名報道はあるようなものである。
ヨーロッパの新聞のように「船が沈んで、男性乗組員(45歳)が死亡」程度の報道だと、「あら、この人、うちのイトコのナントカ君じゃないかしら」と不安に陥るものだ。
そして、そうでないことが確実になった場合でも、匿名であれば感情移入しにくくなる。被害者が「犬好きで親孝行の上、職場のみんなに愛されていた人」なんて情報がまるで入ってこなくなるからである。これじゃ、面白くもなんともない。

だから、記事にある(1)や(2)の理由は、まったく意味がない。匿名報道されたからといって、事件の検証に支障がでることはない。ただ、ニュースがワイドショーにならなくなって、送り手も受け手も旨味にありつけないだけである。
また、再発防止にも実名報道は役に立たない。視聴者を感情的に煽るだけで、逆に冷静な原因究明に水を差す。
確かに(3)だけは問題だけど、捜査ミスや怠慢隠しなんて今じゃ警察の枕詞みたいなもんじゃけ。

それにしても、CLトーナメントの組み合わせにはたまげた。チェルシーとバルサがまたぶつかっちゃうんだもん。うげげ。