14.3.08

晴れた日は昼からてこてこ歩いてワイズマン

先週土曜。アテネ・フランセに《臨死》を見に行く。
燦々と陽光降り注ぐこの休日、わざわざ暗がりに赴いて、《臨死》なんていうタイトルのドキュメンタリー映画を見るのはまったく不健康極まりないが、それもまた贅沢でよろしゅうございますなあ、なんて思いながら家から会場までてこてこ歩く。

《臨死》は、フレデリック・ワイズマン監督による1989年のモノクロ作品。集中治療室に運ばれるほとんど助かる見込みがない患者。彼らを何日か多く生き延びさせるためといっていい末期医療を巡って、医者や患者、そして患者の家族が直面する現場を淡々と描く、6時間を超す作品だ。その98パーセントは病院のなかでの映像であり、そしてその半分くらいは医者同士の会話に費やされる。

あまりにもの閉塞感に気が滅入る。しかも、この日の上映は満員御礼、ムッとした熱気と臭気が会場を覆っていて、日常的に雑踏を避けて生きている自分にはかなりハードな状況。ただ、それらの閉塞感がだんだんと快感に変わってくるのだから、おいらも相当なマゾ体質だ。

今すぐ死んじゃったほうがいいのか、あれこれやって延命するか(その「あれこれ」は苦痛を伴うかもしれないし、そうやっても成功する確率は低い)——ものすごく簡単にいえば、この映画の登場するすべての人物たちはこの二択について葛藤する。死という確実に訪れるものを前にして、右往左往する人々。その姿は残酷であり、どことなく滑稽でもある。

映画が終わると、とっぷりと暗くなってしまった道を家まで帰る。この日はJリーグ開幕だったのである。とにかく、サガン鳥栖とモンテディオ山形というJ2最古参同士の試合の録画を拝見いたさねば。モンテディオが押し気味の展開、チャンスを作りまくるのだけど、ゴールだけはなかなか決まらない。結局、後半86分にサガンにキレイなゴールを決められ、0−1で敗戦。選手も監督も代われども、「いいサッカーしているのに勝てない」というカタチだけが毎年続く……。

このあと、新文芸坐でゴダールの《映画史》のオールナイト上映に駆けつけようかと思っていたのだが、この敗戦で気が滅入ってしまい、取りやめ。最近は午前中に起きるようにしているので、オールナイトは身体的に苦痛だったし。これが実現していれば、まさに「映画死」、《臨死》6時間と《映画史》4時間で合計10時間コースの映画鑑賞が出来たのにな……。

思えば、先月はドキュメンタリー映画ばかり見ていたような気がする。銀座テアトルでニコラ・フィリベール特集があり、そしてアテネ・フランセのワイズマン映画祭。合わせて20本くらいは見たのか? いずれも、ナレーションも煽りもなし、淡々とそこにある被写体を映していく作風なのだけど、明らかに違いがある。同じ曲を演奏しても、前者がフランス放送フィル、後者がシカゴ交響楽団で聴くくらいの差があったりする。

たとえば、両者とも、精神異常者を被写体に据えることが多い。フィリベールの映す彼らは、とてもポエティックで、活力があり、「障害は個性」と言い切れるほどの明るさがある(といっても、映像自体はかなりクールだ)。一方、ワイズマンは、彼らの置かれた様々な状況を冷徹な目で描写し、社会のシステムをそこに疑いの無い形で見せる。もちろん、前者が最近のフランスで撮影され、後者の多くが60年代から70年代のアメリカを舞台にしている、という彼らを取り巻く社会的な違いがあるにしても。

ワイズマンの《臨死》の最後のほうに、医師の一人が「我々がやっていることは治療ではなくて、ただのシステムだ」と話すシーンがある。これは、監督自身がセリフとして書いたんじゃねえかないかと疑ってしまうくらいに、ワイズマンの作品に通底しているといっていい言葉だ。人間が生きていく様々な現場で、どのようなシステムが動いているのかを、残酷かつ滑稽な映像で浮き出す。

それは、ほとんど神の目線といっていい、撮影および編集で作り出される。あのくらいエグい映像が続くのだもの、撮影現場では、クルーと被写体のあいだにトラブルが絶対にあったはず。そういうことは、決して映し出されないのがワイズマンの流儀だ。

語り手の身体性が棚上げされていても、そこに迷いが感じられないのは、驚異的ですらある。まさに一神教の力強さ。こういうことは多神教世界の日本では真似できない。いや、しちゃいけない。猿真似したって、不偏不党、皆様のNHKでございます的な怪しげなものになるだけ。やはり、とっぷりと私小説的に行っちゃうのが吉じゃ。