17.7.06

かつて見せ物小屋だったもの

先週土曜、靖国神社みたま祭りの見せ物小屋に「新・蛇女」が登場したというので、出かけてみる。
じつは、わたくし、先代の蛇女を見逃してしまった人間である。さる友人が、「わたしの青春は見せ物小屋で培われた」とばかり、蛇女の素晴らしさについて目をキラキラさせながら語っていたり、また別の友人がこの見せ物屋で呼び込みのバイトをしたときに、「キミも蛇を食わないか」と薦められたが出来なかったなどという話を聞いているうちに、「新しい蛇女とは、いかなるものなのか」という興味が芽生えてきたのである。

見せ物小屋とは、もっとおどろおどろしいものかと思っていたが、そんな面はまるで感じさせない。これも今年からの新演出だから、ということらしい。次第に、寺山修司のノリを薄めたような三流芝居を見ているような気がしてムズムズしてくる。見事なまでに、ダルい。いや、これはすべて「かつて見せ物小屋だったもの」のパロディなのだ。

舞台上の男が、気だるそうに双頭奇形児のデス・モデルを取り出す。こういうのも、まさに見せ物小屋の定番だった。しかし、この男は、それを観客に示しながら、「こういうものを見せるのも、最近では人権が問題になって」なんて言っちゃってる。いやいや、見せ物小屋とは不具者にあえてスポットをあてることで、人間や社会そのものの存在を疑ってみる格好の教育的機会のわけなのだが、それも空振り気味。やはりパロディなのか。

いよいよ新・蛇女の小雪さんが登場。しかし、この蛇女もフツーのねえちゃんが、罰ゲームで蛇かじってみました、というノリ。そこにドロドロとした凄みはまるでない。何よりも、照明が平板で、まるで深夜番組のように、あっけらかーんとしている。すべてが平板で、パロディ。

闇はだんだんと消されていく。闇がなければ、光だって存在せぬ。欲望が分散化してしまった時代には、こういう方法しか残されていないのだろうか? そう思えば、ずいぶんと興味深い見せ物だったけれども。