24.10.09

鉄オタになったような気分

「今日も自転車?」
「そだけど」
「チャリ・オタだね」
「そういうあんたも、毎日毎日飽きもせずに電車に乗って、まさに鉄オタって感じなんだけど」

などという会話をした日々が懐かしい。都心から千葉の片田舎に引っ越した今では、そうなにからなにまで自転車で行くというわけにも行かず、すっかり鉄オタになってしまった気分だ。とくに、コンサートのシーズンである今月来月は、鉄道乗りまくりである。千葉からチャリで来ればいいじゃん、という意見もあるだろうが、さすがに千葉市まで1時間半、そこから都心まで2時間近くかかるのを考えると、夕方のコンサートに行くだけで一日仕事になる。行きはいいけど、帰りのことを考えると、げっそりしますわな。

しかし、鉄道ってホントに不便だ。目的地まで直行できないし、無駄に改札とか通らせて遠回りさせるし、階段多いし、電車のなかは混んでるし、臭い。これで立派に銭を取ろうというのだから、その見上げた根性に感心してしまうくらいだ。これが市民意識の強い先進国だったら、暴動が起きちゃうはずだぜ。自転車でどこでも移動できた時代を思って、満員の丸の内線のなかで泣きたくもなりますわよ。

今日も野田線のなかで泣こうか? それともチャリで行くか。夜の天候がちょっと心配になってきたんだべ、大一番の柏レイソル—モンテディオ山形戦。

23.10.09

「パリ・オペラ座のすべて」は、いろいろあって、ややすべり

ワイズマンの新作ドキュメンタリー映画「パリ・オペラ座のすべて」を見に行く。
もちろん、例によってナレーションもBGMもインタビューもない、バリバリに硬派なドキュメンタリーなのだが(個人的には、これぞドキュメンタリーだと思う)、どうもワイズマンらしくない。というか、ワイズマンを見てきたぜっヒャッホーといった感慨が薄い。なぜなのだ。

「コメディ・フランセーズ」「バレエ(アメリカン・バレエ・シアターの世界)」に引き続く三作目のパフォーミング・アーツ物なのだが、この二作に比べても、いささか毒が薄いように感じられちゃうのよね。「コメディ・フランセーズ」における、規定以上の枚数のチケットを買えなくて窓口で喚くモンスター公務員と、それを冷たくあしらう係員のシーンのような、ワイズマンならではのシーンがほとんど見当たらないのだ。「バレエ」では、ほとんど冒頭といっていいシーンに、いきなり「寄付金が足りなすぎるわよ」と電話口で怒鳴る支配人らしき女性が出てきて度肝を抜かれるが、そうした場面は今作では見られないのである。

どうも微温的なのである。団員たちが年金についての説明を受ける場面や、配役を換えてくれと談判するダンサーなどのシーンはあるし、それぞれのダンサーの熱意ある稽古を見られるにしても。まあ、ワイズマンはバレエ好き、パリ好きだから、いつものような対象への鋭利な視点をちょっとだけ損ねてしまった、ということもいえるかもしれない。

タイトルからの違和感もある。原題は「La Danse, Le Ballet de L'Opera de Paris」。直訳すれば「パリ・オペラ座の舞踏とバレエ」。このくらいに素っ気ないのがワイズマンのタイトル。「高校」「病院」「州議会」「肉」「法と秩序」みたいにさ。出来れば「舞踏とバレエ」ぐらいにして欲しかったのう。

不必要な字幕も付いている。作品とダンサーの名前の日本語字幕は余計だろう。ワイズマンの映画のコンセプトは、その対象となっている施設やら団体やらのシステムを描き出すことにある。よって、個人名などをわざわざ出す必要はまるでないのだ。それは映像を観て、わかる人がわかればいいだけで、知らない人にそれを伝える意味はまるっきりない(これは、ハッキリと断言できる)。

心配してしまったのは、それぞれの場面を字幕で説明しちゃったりしないだろうかということ。ワイズマンの映画は、これは何のシーンなのか、観客には一目でわからないことが多い。日常をそのまま切り取っているだけだからだ。観客は、その映像を凝視し、会話に耳をそばだて、自分のアタマで「へへー、こりゃお金でもめてんだ」などど判断しなければいけないのである。そして、カメラの存在を忘れ、そのまま映像の内部に入っていくことになるわけだ。これらの作業が、ひじょうに気持ちいいのである。この気持ち良さを奪われたら一大事と一瞬思ってしまったが、さすがにこれは杞憂。ホッとして映像に魅入る。

あと、会場の雰囲気も変だ。平日の朝の上映に駆け付けたのだが、これが見事に満席なのだ。確かに、ワイズマン作品は人気があるから、そこそこの人はいつも入るのだけれど(先日の日本未公開だった「エッセネ派」は満席だったし)、どうも客層が違う。見渡せば、いわゆる、無職のバレエおばさんが大挙して押し寄せているようだ。それが証拠に、混雑状況を調べると、夕方からの上映のほうが空いているのだ。

ははん。配給元もきっとこのバレエおばさんたちに受けるように、タイトルをいじり、余計な字幕を付けたっちゅう魂胆だな。たしかに、ワイズマン全作観てますぅといった、小汚い格好のドキュメンタリー映画ファンのよりも、ハイソっぽい雰囲気のバレエ好きおばさまたちのほうが、絶対数も多いし、お金も持ってる、いいお客様だ。うん、仕方ないね、これは。アテネフランセ文化センターあたりで再演するときは、せめて余計な字幕は取り払って下さいましな。約束だぜ。ふぎゅう。

17.10.09

たまにはだいひょうのはなしを

サッカーは週に3試合以上は観戦するけど(ほとんどはテレビだが)、日本代表の試合はほとんど観ない。
つまらないからである。チームとして、何をしたいのか、はっきりしないので、退屈だし、時間の無駄だからである。JFLとかの試合でも観ていたほうが、ずっと面白い。

オシムが監督をやっていた頃は、勝ち負けはともかく、コンセプトが明快で、「やっと日本代表にも文明開化がやって来た」と思ったものだ。トルシエのときは、彼のやり方が強引で、まるで幕末のペリーかハリスみたいで、妙なところで楽しめた。しかし、岡田監督になってからは、また暗黒の時代に逆戻り。

「なぜカズ外した?」に岡田監督不快感

岡田監督「もう、二度と出ねえ」 過激インタビューの一部始終

いやもう、この監督、かなりヤバいのではないか。監督というのは、言葉で説明しなければならない義務がある。選手に対して、そしてファンに対して。
カズを外したことが悪いのではない。そのことを少しも負い目に感じる必要さえない。自分の行った判断について、言葉で説明できない、あるいはしようとしないことが問題なのである。それをテレビのインタビューで突っ込まれて、怒るだけでは、どんだけ痴れ者なのか。もちろん、なんでもかんでもストレートに話す必要はない。レトリックを駆使してはぐらかす、ことだって、十分なコミュニケーションになる。そういうことをせずに、インタビュー拒否ではあまりにも幼すぎる。

サッカーとは、畢竟、コミュニケーションのスポーツだから、こういう人は監督に向いていないのである。クラブのように、代表は時間をかけてコミュニケーションを構築できない。一瞬にして、それを成立させるような手腕が必要なのだ。

テレビ局の対応も不自然だ。監督に謝罪するとか、まるっきり必要ない。「そんなんでキレるお前がバカ」と悠然としてればいいのである。そもそも、日本のインタビューでは、インタビューイに不快な質問をするのは避けようという「空気」が強いのが問題なのだ。聞きたいことを聞かず、予定調和的に終わる(仕込まれた)インタビューなど、単なるプロモーションに過ぎない。そして、対話がない国のサッカーは弱い。

ただし、テレビ局とケンカすることがエンターティナーとして責務であると岡田監督が考えているなら、話は別だ。それは興業としては悪いことではないからだ。面白い「見せ物」で、日本代表に注目を集めるという考えならば。だったら、もっと激しく、過激にやってこませと言うしかないのである。

12.10.09

自衛隊 自衛隊 私は私よ 関係ないわ(中森明菜の節で)

ハードディスク・レコーダーの奥底を掃除しようと思ったら、「なんでこんなの録画したんだろ」というような映像がごろごろ出てきて、面喰らう。そのなかに『戦国自衛隊』と『戦国自衛隊1549』という映画があった。「自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、現地人とバトル」という同じ主題を用いた作品が、昭和と平成という時代を隔てていかに描かれているのだろうかと思って、二つ続けて見てみた。

『戦国自衛隊』は、1979年製作。70年代の角川の映画だけあって、やたらにアツい。自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、「ここで戦って天下を取ってやる」という野望を抱いた伊庭三尉は武田信玄との戦いに勝利するが、戦力を失って最後は滅亡するというストーリー。タイムスリップするときの、サイケデリックな映像効果がたまらなく70年代。劇中に流れる気だるい歌謡曲がたまらない。

一方、『戦国自衛隊1549』は、2005年公開。もう完全に平成といったクールな映像で、CGも多用、前作のようなエロやグロは完全に封印されている。自衛隊の実験中に、戦国時代に飛ばされてしまった中隊。彼らのせいで歴史が狂い、磁場に変化が起きていることから、もう一度別の中隊が戦国へ飛び、歴史を修正しようというストーリー。平成の作品だから、もちろん気の抜けるハッピーエンドが用意されている。

二つの作品、その違いがもっとも顕著なのは、戦国に飛ばされた個々の自衛隊員の描き方だ。『戦国自衛隊』は、現地の女を武力でかき集めハーレム作っちゃう奴、現地の農村に溶け込んじゃう奴、村の女と出来ちゃう奴、恋人と駅で会う約束を果たすために脱走しちゃう奴、など、それぞれの隊員の個性がくどいまでに描かれていた。一方、『戦国自衛隊1549』は、隊員はほとんど逸脱行動は見えず、上官に従う忠実な兵隊に過ぎなく、よって、その個性もほとんど描かれない。「個性などくだらない」という親世代に反抗した昭和の世代と、「個性は大事です」と教えられて「そんなもの必要ない」と長いものに巻かれたがる平成の世代の違いを如実に表しているようだ。

『戦国自衛隊』の最後は、武器を失った主人公たちが隠れている廃寺を、かつて友情を熱く交わした長尾景虎に襲われ、全員死んでしまうシーンである。システム(あるいは運命)に押しつぶされる人間たちを描くというテーマがそこにある。『戦国自衛隊1549』のほうは、救ってやった武士が仲間になって主人公たちの強力な助っ人になるなど、時代を超えた友情が華々しく描かれる。「友情」(え? 友愛?)こそ大事という、これまたファンタジー系メディア調のテーゼがはっきりと刻印されているのだ。

さすが角川映画というべきか、『戦国自衛隊』の燃え盛る廃寺のシーンは、なかなかに迫力がある。クサいくらいの滅びの美学。これに対応するかのように、『戦国自衛隊1549』にも城が爆発する場面があるが、こちらはCGで軽々と描く。その爆破が激しければ激しいほど、CGならではのヨソヨソしさが強調される。ゲームみてえ。

両作品とも、自衛隊という、取り扱い注意の団体を扱っていると共に、国防やら、平和やらに、言及したいという欲望が見え隠れする。最後に、象徴的なセリフを二つばかし抜き書きしてみた。

「昭和の時代に戻って何になる? ぬるま湯に浸かった平和な時代に戻って何になる? 武器を持っても戦うことができない時代に戻って何になる?」
『戦国自衛隊』〜戦わずに現代に戻りたいという隊員に向かって、伊庭三尉が説教する場面より

「平成の日本人が日本人であることを誇りにできる強固な国家を作ってやる」
『戦国自衛隊1549』〜信長に成り代わった的場一佐が、歴史を変える必要性を説く場面。

7.10.09

いつもの16分間だった

テレヴィでJリーグ初だという再開試合を見る。中断された鹿島アントラーズ1—3川崎フロンターレというスコアのまま、74分からスタートする、たった16分間の贅沢極まりない試合だ。

何年か前のリーガ・エスパニョーラ、ベティス対レアル・マドリーの試合で後半が停電のために続行不可能になって、後日後半45分間だけ試合が行われたのを見たことがあるのだが、それはもう伝説になっていいほどすごいものだった。何せ45分しかないのだから、最初からフルパワーで走りまくり、攻めまくり、やたらに凝縮度の高いゲームだった。

こういうものをJリーグでやってけつかるとは。しかも、今回は16分しかない。凝縮度はハンパない。下位チームの応援者としては、優勝争いなど他界の出来事だけど、これは見ておかなければならぬだろう。試合内容的には、優勝は川崎、清水、広島あたりがいいとは思っているけれど。

いきなり最初のプレイで鹿島がフリーキックで一点返してしまう。おお。あとは一方的に鹿島が攻めるだけ。気付いたらロスタイムに突入。あっという間に終了。2—3のスコアで川崎が勝利。

うーん。どうも物足りない。いつもの試合を後半74分から見ただけのような。最初に一点返されて、守りに入るしかなかった川崎。ここは、やはり16分間限定でいつもに増したイケイケな攻めを見たかったものよのう。鹿島もロング・ボールで前線に合せるだけで、ひどく単調で退屈。16分というのは、逆に短かったのか。


ことごとくマイナーなネタで恐縮極まりないが、わが愛しの「蜂さんチーム」をこんなとこで発見。ジダン息子なんて一刺しじゃっ。

6.10.09

舐めるように読んでしまった記事

なんでこんなものが報道されるの? という不思議な記事に出会うことが最近になって目立ってきているように思う。芸能人の薬物騒動なんて、スポーツ新聞とかワイドショーだけでやるぐらいの小ネタに過ぎねえのにさ。まあ、明治時代の小新聞だって、そういうバカバカしいノリだったから、それを忠実に受け継いでいるといえば、そうなのかもしれない。もともとジャーナリズム不在の国だしねえ。

そのなかでも、「これはすごいんじゃなかろうか」と思ったのは先月に報道された、コレ。

読んだら売るつもり…「坂の上の雲」など文庫4冊万引き

文庫本を四冊万引きするだけで、こんなふうに報道されるなんて、新鮮すぎる。日刊万引き新聞とかじゃなくて、全国紙の産経新聞ですよ。しかも、この報道、最初は容疑者が実名で記されていた(たった今、リンク先を確認したら、実名が忽然と消えていた)。実名で報道する意味の無さに、後から気付いたのでしょうな。そりゃそうだろ。

で、このニュースのどこらへんにニュース・バリューがあるのか。一通り読んでも、いつもながらの、つまんない日常がそこにあるだけ。これが報道の対象になるのだったら、すごいことになるざますわよ。警察に捕まった万引きの総数が年間約十万件くらいだから、朝刊開くと約三百件の万引き記事が並ぶわけ。壮観すぎねえか。

ただ、一つひっかかるのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」ですかね。なぜ、わざわざ盗んだ本の書名がこのように見出しにまでなるのか。ははん。要するに、産経新聞は、「坂の上の雲は、万引きして読むほど面白い!」、これだけを言いたかったのではないだろうか。このメッセージを伝えるための報道というわけだ(この事件、他紙は一切報道無し)。そういえば、「坂の上の雲」の単行本は文藝春秋だけど、連載は産経新聞だった。社会面で堂々タイアップ記事というわけですか。さすが、野蛮な国で出ている新聞は、ちょっと違うぜ。

3.10.09

千葉駅付近の賑わい

華々しくも千葉県人になってしまって、すでに四ヶ月目に突入だ。
先月のある日、打ち合わせにかこつけて、県の中心街といわれているらしい千葉駅付近を初めて散策してみた。同じ県内でも辺鄙なところに住む自分にとって、千葉駅付近は間違いなく、大都会。お上り気分ではしゃいでやるぜ、へへい、と思っていたのだ。

店はそこそこある。本屋。電気屋。CD屋。でも、品揃えはやはり……。ただ、家電を買うなら秋葉原、本を物色するには神保町に食後の散歩気分で繰り出していた四ヶ月前を思うと、その落差は小さくない。

腹が減ったので、ラーメン屋に入る。「こってり」を看板にしたいささか汚らしい店(こういうところがソソるのだ)。食べてみると、異常なまでに塩辛い。「味が濃い方は薄めます」と掲示してあるので、すかさずスープをつぎ足してもらう。しかし、周囲を見渡すと、誰もそんなことをしている者はいない。みんな平気な顔して食べている。塩辛さが文化にもなっている東北出身のわたしでさえ濃いと思うのに、恐るべし千葉。

客は男女のカップルばかり。そういえば、街をぶらついても、その手合がやたらに多い。平日の夕方なのだが、なぜ千葉駅前はカップル天国なのだろう、と思案してみたのだが、一つ思い当たるのが、「一人で来てもあまり面白いものがない」ということだ。地方都市とはこういうところなのかもしれないが。

チェーン店は揃っている。さまざまな飲食店、カラオケ・ボックス、靴や服を売る店などなど。しかし、こんな当たり前のところに一人で行っても何も楽しくはないのだ。このような店には、おそらく誰かと連れ合っていかなければ間がもたない、ということなのだろう。件の塩辛いラーメンだって、誰かと一緒ならば、ネタぐらいにはなる、ということかもしれない。

つまり、ここには都市のワンダーランドである古書店も、怪しげな映像を堪能できる単館映画館もなく、爬虫類専門ショップも、異常なまでにマニアックな自転車屋もない。当たり前だけど、クラシック専門中古LP屋もない。こういった個人の好奇心を満たす場所がちゃんと存在している東京って、かなり偉いトコロなのだと改めて感心した次第だ(だからこそ、20年以上もぬくぬくと生活できたわけである)。

あたくしなんぞは、どこにいても一人で結構楽しめちゃう奴なんで、あまり問題ないのだが、そうでない人は、かなりストレスを溜めることになる。いや、地方都市は最初からそのように設計されているのだろう。一人で楽しめる奴なんて、世間から浮いた変な考えを持ちたがるし、子供も作らんし、あまり生産的じゃないからな。この日、駅前で個人情報を交換しているカップルを二組見かける。出会い系だって流行るわけか? ふむう。

1.6.09

ヨロコビ疲れ

ヨーロッパのサッカーの日程が終了。今年はユーロもワールドカップもない年なので、じっくりと仕事にでも勤しもうかな……と。それにしても、なんか今年はちょっとスゴイのである。自分の贔屓のクラブが、次々とタイトルを獲得しちゃってるのだ。こんな年はなかなかない。昨年末のJリーグから引き続き、ヨロコビ疲れしてる。

FC.バルセロナ(チャンピオンズ・リーグ優勝/リーガ・エスパニョーラ優勝/国王杯優勝)

前回のチャンピオンズ・リーグ優勝のときは妙に泣けたが、今回はへらへら笑って試合を見ていた。なにせ、あのマンチェスター・ユナイテッド相手に、猛烈に美し過ぎるサッカーをやってんだもの。至福。ただ、最初の十分の間は正直負けると思った。

FC.ジロンダン・ボルドー(リーグ・アン優勝/リーグカップ優勝)

10年ぶりのリーグ優勝。長かったなあリヨン時代。前回はちょうど海外サッカー中継見始めたばかりで、やはりその美し過ぎるパス・サッカーに虜になった。今年は、日本で中継が無かったのでリーグ戦の試合を見られなかったのが残念だ。立役者グルキュフを完全獲得して安堵。

SC.フライブルク(二部ブンデスリーガ優勝・一部昇格)

優勝決定戦は紙芝居状態のネットテレビを見ながら、大騒ぎしてました。フィンケ監督(現浦和監督)時代のパス・サッカーを継承しつつも、サイドからの質の高いクロスがガンガン入るイケイケなサッカーで、不気味なくらい今年は強かった。来年は久々の一部リーグを満喫するぞう。

残るは、ザンクト・パウリ、ラージョ・バジェカノあたりがキッチリ昇格を果たしてくれればのう(と、欲望は尽きない)。

26.5.09

本日の入り損ね。

オペラシティのコンポジウム。今年はラッヘンマンということで、ヒャッホーと小躍りしながら駆け付けてみると、見事なまでにソールドアウト。当日券の販売無し。あんれまあ。場所がタケミツ・メモリアルじゃなくて、リサイタル・ホールだったということもあって、チケットの有無は多少心配はしていたものの、「現代曲のコンサートは当日売りしか買わねえ」などという、どことなく江戸っ子じみた考えを持ったわたくしにとっては痛い痛い仕打ちである。

キャンセルなんか出るかもしれんと淡い期待を抱いて(まあ、普通はなかなか出ないもんだが)、無いものは出せません光線をモロに浴びつつ、開演間際まで受付の前で待っておった。そして、タイムアウト。ホールのほうから拍手が聞こえ、ラッヘンマンが挨拶を始める。そのとき、同じくキャンセル待ちに淡い期待を抱いていたに違いない一人のおじさんが、「モニターの映像ぐらい見せてよ」と係員に交渉し出した。係員はまるで虫を追い払うかのような仕草と言葉で、おじさんを排除してしまう。チケット無い客を一度入れたら収拾つかなくなるんで、いささか非常識な要求かとは思ったけれど、それに対してのあまりにもの邪険な応対に驚かされたのだった。

こういう「いかにもラッヘンマン大好きオーラ」を出しているおじさんは、この手のコンサートにおいて上客の素質を持っているもの。そうした客(今回はチケットを買ってないから、客ではなくて虫みたいなもんなんでしょうけれどねえ)を邪険に扱うのはいかがなものかと思うのだ。このやり取りを見て、ひどくさもしい気分になり、自分も虫扱いされたような不快な心地がして、そそくさと会場を後にした。コンサート主催者が購買層をどう見ているのかという一端に触れたような。しばらくは、東京オペラシティ文化財団主催のコンサートは行きたくねえなあ……。

7.3.09

エロス&タナトス路線で行こう

気づいたら、J開幕の日であった。
まあ、あたくしの贔屓であらせられるモンテディオ山形は、下馬評ではダントツ最下位、降格最有力候補というより降格確実ということなのであるが、ここまで決めつけられちゃうと、逆にすがすがしいというか、ノープレッシャーで、勝ってすみません路線を突っ走ってもらたいものである。J2時代は、こことあそこには勝たなきゃ、などというプレッシャーとか、勝って当たり前だろ的な空気が少なからずあったわけだが、J1の今年はどこから勝っても、大福饅頭、凱旋パレードもんなんだから、こりゃあずっぽり楽しまないといけません。

今年のユニフォーム胸スポンサーは「つや姫」。以前の「はえぬき」を継承してデビューするという山形県産ブランド米の名前である。たまにはお米っぽい名前を付けろよな、と注文を付けたくなるのだが、このシュールなネーミングがJA山形の流儀でして。最初はショックだけど、慣れるに従って、「悪くないかも」と思わせるのが味なのである。

たとえば、この「つや姫」って、「艶姫」とか「通夜姫」みたいな漢字を連想させるのが、すごいと思うのだ。つまり、エロスとタナトス、ってわけ。実に味わい深い。モンテディオ山形も、エロスとタナトスあふれるゲームを見せて欲しいものである。

タナトス関連でいえば、この「つや姫」という名称が決定した2月23日(日本時間)、ロサンゼルスである日本映画がアカデミー賞外国映画賞を受賞した。いわずとしれた「おくりびと」。この映画のロケ地は山形県の庄内地方だったということで、「山形=死の文化」という構図がじわじわと浸透しつつある。

そんなことを書くと、「死」なんて縁起悪いじゃん、と抜かす奴がいらっしゃるはずだ。そういう考えって、誰もが必ず体験するものを縁起悪いなんてカテゴリーに入れることで隠蔽しちゃえという、一種の小賢しい認識。でも、そんな認識だけで生きていくのは、あまりにも貧しい。これを機会に、全県を挙げ、全国に向けて「死の文化」の普及、啓蒙に務める、なんてことになればいいのになと願う次第である。

そういえば、モンテディオ山形のフルモデルチェンジ構想というのがあって、クラブの有り方を変える試みが現在も討議されている。これが最初に出てきたときは、クラブ名称は「月山山形」、ユニフォームは「白と黒と銀」のカラーを用いる、なんて報道があって驚かされた。こんな名前や色が嫌だ、というよりも、こんな劇的な転換をしないとクラブの存続が危ういという切迫感にショックを受けたのだ。

現在は、名称や色の変更については保留のまま構想全体の内容を練っていく、という段階だそうだが、「月山山形」と「白と黒と銀」、決して悪くない。慣れるに従って、「悪くないかも」から「これってかなりいいかも」と思うようになってきている。そうしたさなか、「つや姫」「おくりびと」というニュースが入ってきたことで、この名前と色、まさにピッタリではないかと思ったのである。

なにしろ、「月山」は、死者が集まる聖地として信仰を集めていた山だ。日本における山とは、なべてそういうものなのであるが、とくにこの山はそうした役割を強く求められていたのだ。そして、白と黒を中心としたカラーは、まさに葬式っぽくてクールだ。

そう、モンテディオ山形は、徹底したタナトス路線で行けばいいのである。新キャラクターは湯殿山の即神仏、ミイラくんに決定だ。「ようこそ、死の国へ」「ここがお前らの棺桶だ」といった弾幕、そして周囲を白黒幕に覆われたスタジアムは、相手チームを圧倒するに違いない。日本では禁止されている発煙筒の代わりに線香をぼんぼんと焚き、敵チームの成仏を祈祷するのだ。それに、モンテディオ・サポーターの応援は、かつて「念仏」と言われていたそうだから、これは変える必要がない。Jリーグの審判はスキンヘッドが何人かいるから、彼らに袈裟着せて……というのは無理そうだな。

世界的に注目を浴びるクラブになることは間違いない。たとえば、ドイツ・ハンブルクのザンクト・パウリみたいに。ドイツ有数の歓楽街をホームタウンとし、ドクロをトレード・マークとするこのクラブは、世界中の同性愛者、ロッカー、アナーキストなど、はみ出し者たちから熱い視線を注がれている(わたくしもブンデス・リーガで二番目に好きなクラブ)。そうしたイメージをクラブが全面的に押し出しているからだ。クラブが二部や三部にいても、彼らの愛は変わらない。モンテディオ山形もそうしたスタイルを見習ったほうがいい。県民の大半は、流行れば付いてくるのだし。

タナトス的にはこれでいいが、エロスはどこに行った? 個人的には、それは試合内容で表現するのが理想ではないかと思うのだ。FC東京のセクシー・フットボールじゃないけど。

そんなわけで、これからそそくさとヤマハ・スタジアム行ってきます。

15.1.09

空飛ぶ神輿

昨日は昼前からヘリの音がうるさく、しかもなかなか立ち去る様子がない。これは事件か、それとも24時間テレビ(芸能人がマラソンするやつ。甚だしく近所迷惑)かと思ってネットを見てみると、速報で近所の大学で傷害事件(のちに死亡が確認されたので、すぐに殺人に切り替え)があったとのこと。

ちょうど、近所まで外出するところだったので、下の交差点から大学の前を見ると、衛星中継車がズラリと並ぶ。付近の地下鉄駅には、今日の講義が無くなったのだろう、手持無沙汰の大学生がグループ単位で立ち話中。みな、一様に興奮した様子で、目をキラキラを輝かせ、テンションもやや高め。事情を知らぬ人が見れば、隣のドーム球場にて、優勝がかかった試合でもあるのかと思ったことだろう。

彼らのテンションが高いのは、よくわかるのだ。なにしろ、自分たちが平穏に通っている学校で、全国ニュースになるくらいの事件が起こり、ピリピリとした緊張感が走り、わんさとマスコミが駆けつる。これはお祭りみたいなものだ。お祭りとは、ポジティヴとかネガティヴであるというのは無関係に、非日常がどーんと押し寄せること。報道ヘリは、空飛ぶ神輿みたいなもんだ。

でも、新聞やテレビは、「学生たちは不安な気持ちを隠せず」とか「平和なキャンパスは、一転して悲痛な雰囲気に」などと報道するんだろうな、なんて思いながら、用事を済ませて帰宅し、ネットのニュースを確認すると、まったくそのままのようなことが書かれてある。この期待の裏切られなさに、愕然としてしまう。まあ、コピペみたいなもんだわな。ほんま。

もちろん、新聞やテレビが「みんなお祭り状態で、テンション高め」なんて報道しろとは思わないし、期待をするわけでもない。ニュースを作る側、あるいはそれを見る側だって、心のどこかで、お祭りを期待しているわけで、その心的代償として、「悲しみ」とか「追悼」を過剰なまでにクローズアップしなきゃという働きが起こるのだから。簡単にいえば、すべて丸く収まっているわけなんすけどね。

12.1.09

デジタル・コンサート・ホール

 国内のニュースでも報道されているようだけど、今月6日にベルリン・フィルの「デジタル・コンサート・ホール」のライヴ放送が始まった。フィルハーモニーで行われるすべてのベルリン・フィルを演奏をライヴでネット中継するという試みである。
 昨年10月末にベルリンを訪れ、担当のマニンガー氏から説明を受けたときは、「まだいつから始まるか決まってない」「最初はラトルが指揮する演奏会から始めたい」とうかがっていただけに、こんなに早く開始されるとは驚きだった。この時期ラトルのコンサートは予定にはなかったので、このネット中継のお披露目ために、急遽コンサートを企画したようだ。気合い入ってんなあ。
 
 最近はオーケストラが自前のレーベルを作って、CDをリリースすることが流行っている。コンセルトヘボウやロンドン交響楽団みたいに。こういうことをベルリン・フィルもやってみようかの、というのが事の発端らしい。ところが、さすが新しもの好きのベルリンというべきか、パッケージ・ソフトなんて古いぜ、これからストリーミング配信に決まってんだろ、というわけで、こういう映像ライヴ配信という形へ。ベルリン・フィルからすれば、我々がメディアに買われるのではなく、自分たちがメディアになり、この分野を促進するのだぞお、といった意気込みらしい。
 
 それでも、今さらストリーミング配信と言われてもねえ、なんてIT小僧に言われないように、かなり手の込んだものになっている。リモコン操作のカメラ五台を駆使、映像もHD画質、そして視聴料だって結構エグゼクティヴ。こうした配信では、ときたま蚊帳の外みたいになるMacintoshにも対応しているのが喜ばしい(ベルリン・フィルの映像制作者や配信担当者もMac使いだったのを先に確認しておいたから、これは心配いらず)。

 宣伝文句の通り、画質は問題ない。ポディウムの客の細かな表情もバッチリだ。なお、演奏前には客席などを舐めるように映すこともあるので、誰も見てないだろうと思って、過度にいちゃついたりするのは控えたほうがいいかもしれない。
 ただ、ライヴのときは回線が集中するのか、音と絵が同時に途切れることもある。画質は三段階選べるので、ライヴは低画質、後日同じものがアルヒーフに収録されてからは高画質を選択するのが良策かもしれん(うちの機械と回線スペックだと)。音が途切れるのはかなりのストレスだし。さらに、アルヒーフよりもライヴのほうが、弱冠画質が落ちる気がしてしまうのは帯域制限などをやっているせい?
 音質は、PCのヘッドフォン出力からヘッドフォン・アンプに通してゼンハイザー、というやり方をしているのだが、格別問題に感じるようなことはなかった。これより悪いCD録音なんてザラにあるしねえ。こちらとしては、画質を多少落としてもSACD並みの吃驚するような音質で提供してもらいたいもんだけど。
 
 さて、今シーズンのベルリン・フィルのプログラムだが、今年はベルント・アロイス・ツィンマーマンがテーマ作曲家なのか、彼の作品が毎月演奏される。ラトルが1楽章の交響曲、ホリガーとツェートマイアーによるヴァイオリン協奏曲、オラモの《フォトプトシス》など。目玉は、4月のエトヴェシュが指揮する《若き詩人のためのレクイエム》か。このコラージュ作品を映像で見られるとは僥倖だぜ。ブーレーズとエマールのラヴェルのコンチェルトも楽しみ(グラモフォンがディスク出しそう)。
  
 ちょうど現在、日曜のコンサートの中継の休憩時間。相変わらず、メータはアホみたいに元気が良いなあ(それ以外に感想がないところが、また天晴れなことである)。モーツァルトの協奏曲を弾いたペライアは以前よりちょっと荒れてる?

3.12.08

昇格してしまいました。

うりゃ。とうとう、来ちまった。「モンテディオ山形がクラブ史上初のJ1昇格」を告げるホイッスルが鳴らされた瞬間は、小躍りさえもせず、テレビの前でうるうるしながら、苔むす墓石のようにじんわり佇むばかり。もっとも、勝ち越し点となった豊田のゴールのときは、うぎゃあと雄叫びを挙げてしまったんじゃが。

他会場の仙台が引き分け以下に終われば、山形の昇格が自動的に決まってしまう試合なのだった。ちょうど仙台は鳥栖に大差を付けて試合を落としそうな勢い。このままであれば、目前の試合で負けても昇格を祝わなければならないという、かなり複雑な心理的解決を迫られた状態だったのだ。史上初のJ1昇格試合が負け、ではどうにもカッコがつかねえ。来年の志気にも影響しかねねえ。そんななかで、後半も終わるところで同点、そして、ロスタイムの逆転。きゃあ。

あれから三日たった今日でも、あの試合はホントーに勝ったのか、昇格は事実なのかというような、アタマのどこかに信じられない部分があって、テレビのチャンネルを回したり、ネットで何度も確認したりするのだが、試合のシーンなどを目にするたびにうるうる来てしまう。しまいには、草津の植木監督の退任挨拶を聞いても、ついでに涙ぐみそうになる。なんなんだか。

山形の名物スタジアム・グルメのカリーパンをみのもんたが食べる光景がテレビで映し出されたりとか、山形交響楽団常任指揮者の飯森範親が「年末の第九は山形の青いユニフォームを着て指揮します」とブログに書いてあったのを見たときは正直のけぞったが(まあ、「年末の第九」なんだから、問題ないだろう。そういった趣旨をも持った曲だし)。

前節は山形まで熊本戦を見に行った。この試合で勝てば昇格決定だったのだが、後半何分も残ってないところでやっとこ追いついて引き分け。この満員のホームゲーム、選手は昇格を前にして動きが硬い。連携が完全に崩れ、熊本にボールを自在に回されるといった具合。冬の冷たい雨は前半で止み、後半はポカポカと日が差してきて、周囲の雪を被った山々も神々しく輝くなかで、昇格を決められたら、いいじゃんGじゃん最高じゃんといった岡田あーみん先生のコテコテしすぎて神聖ささえ帯びた言い回しをしたくなるほどの、めでたいシチュエーションだったのだけれど。まあ、このときは残り三試合で一回勝てばいいのだし、という精神的余裕もあったのか、「引き分け、昇格お預け、それも人生」ということで、どんどん焼きと玉コンをたっぷり補給し、親にも友人にも会わずにそのまま山形を後にしたのだった。

来年は、鹿島とか清水とか、まだ行ったことのないスタジアムに足を運べぶことになるだろう。清水は箱根越えがあるから辛いが、鹿島にはチャリンコで参戦する予定。それに、浦和には元フライブルク監督のフォルカー・フィンケが来る可能性が大。フィンケの率いるチームとモンテディオが対戦することになろうとは……(ファン歴だけでいえば、山形よりもフライブルクのほうが少しだけ長いのよあたくし)。

試合当日、おめでとメールを送っていただいたみなさん、ありがとうございました。

14.3.08

晴れた日は昼からてこてこ歩いてワイズマン

先週土曜。アテネ・フランセに《臨死》を見に行く。
燦々と陽光降り注ぐこの休日、わざわざ暗がりに赴いて、《臨死》なんていうタイトルのドキュメンタリー映画を見るのはまったく不健康極まりないが、それもまた贅沢でよろしゅうございますなあ、なんて思いながら家から会場までてこてこ歩く。

《臨死》は、フレデリック・ワイズマン監督による1989年のモノクロ作品。集中治療室に運ばれるほとんど助かる見込みがない患者。彼らを何日か多く生き延びさせるためといっていい末期医療を巡って、医者や患者、そして患者の家族が直面する現場を淡々と描く、6時間を超す作品だ。その98パーセントは病院のなかでの映像であり、そしてその半分くらいは医者同士の会話に費やされる。

あまりにもの閉塞感に気が滅入る。しかも、この日の上映は満員御礼、ムッとした熱気と臭気が会場を覆っていて、日常的に雑踏を避けて生きている自分にはかなりハードな状況。ただ、それらの閉塞感がだんだんと快感に変わってくるのだから、おいらも相当なマゾ体質だ。

今すぐ死んじゃったほうがいいのか、あれこれやって延命するか(その「あれこれ」は苦痛を伴うかもしれないし、そうやっても成功する確率は低い)——ものすごく簡単にいえば、この映画の登場するすべての人物たちはこの二択について葛藤する。死という確実に訪れるものを前にして、右往左往する人々。その姿は残酷であり、どことなく滑稽でもある。

映画が終わると、とっぷりと暗くなってしまった道を家まで帰る。この日はJリーグ開幕だったのである。とにかく、サガン鳥栖とモンテディオ山形というJ2最古参同士の試合の録画を拝見いたさねば。モンテディオが押し気味の展開、チャンスを作りまくるのだけど、ゴールだけはなかなか決まらない。結局、後半86分にサガンにキレイなゴールを決められ、0−1で敗戦。選手も監督も代われども、「いいサッカーしているのに勝てない」というカタチだけが毎年続く……。

このあと、新文芸坐でゴダールの《映画史》のオールナイト上映に駆けつけようかと思っていたのだが、この敗戦で気が滅入ってしまい、取りやめ。最近は午前中に起きるようにしているので、オールナイトは身体的に苦痛だったし。これが実現していれば、まさに「映画死」、《臨死》6時間と《映画史》4時間で合計10時間コースの映画鑑賞が出来たのにな……。

思えば、先月はドキュメンタリー映画ばかり見ていたような気がする。銀座テアトルでニコラ・フィリベール特集があり、そしてアテネ・フランセのワイズマン映画祭。合わせて20本くらいは見たのか? いずれも、ナレーションも煽りもなし、淡々とそこにある被写体を映していく作風なのだけど、明らかに違いがある。同じ曲を演奏しても、前者がフランス放送フィル、後者がシカゴ交響楽団で聴くくらいの差があったりする。

たとえば、両者とも、精神異常者を被写体に据えることが多い。フィリベールの映す彼らは、とてもポエティックで、活力があり、「障害は個性」と言い切れるほどの明るさがある(といっても、映像自体はかなりクールだ)。一方、ワイズマンは、彼らの置かれた様々な状況を冷徹な目で描写し、社会のシステムをそこに疑いの無い形で見せる。もちろん、前者が最近のフランスで撮影され、後者の多くが60年代から70年代のアメリカを舞台にしている、という彼らを取り巻く社会的な違いがあるにしても。

ワイズマンの《臨死》の最後のほうに、医師の一人が「我々がやっていることは治療ではなくて、ただのシステムだ」と話すシーンがある。これは、監督自身がセリフとして書いたんじゃねえかないかと疑ってしまうくらいに、ワイズマンの作品に通底しているといっていい言葉だ。人間が生きていく様々な現場で、どのようなシステムが動いているのかを、残酷かつ滑稽な映像で浮き出す。

それは、ほとんど神の目線といっていい、撮影および編集で作り出される。あのくらいエグい映像が続くのだもの、撮影現場では、クルーと被写体のあいだにトラブルが絶対にあったはず。そういうことは、決して映し出されないのがワイズマンの流儀だ。

語り手の身体性が棚上げされていても、そこに迷いが感じられないのは、驚異的ですらある。まさに一神教の力強さ。こういうことは多神教世界の日本では真似できない。いや、しちゃいけない。猿真似したって、不偏不党、皆様のNHKでございます的な怪しげなものになるだけ。やはり、とっぷりと私小説的に行っちゃうのが吉じゃ。

31.12.07

我が愛しの「スプレもん」

昨日ネットのニュースを見ていたら、「年賀状がもう届いた」みたいな記事があった。おお、民営化したので、速めの配達を心掛けるようになったのか、こりゃ感心なことでござるなあと思ってはみたものの、件の記事を読んでみれば、単なる従業員のミスとのことであった。そりゃそうか。でも、元旦前に年賀状が届くのは、相手にインパクトを与える意味では決して悪くない、と思うのだが、いかがだろう。なにしろ、年を越せば、「あけましておめでとう」云々はゲップが出るほど目や耳にするわけで、この言葉がインフレ気味になる前に使っておくのは、なかなか良いアイディアなのではなかろうか。先んずれば人を制す。そういうわけで、わたしも昨日初詣を済ましてきたばかりだ(これは嘘)。

わたしの場合、年賀状を書くという風習を断ち切って10年近く経つ。郵政が国営だったときは、年賀状なんて体の良い税金みたいなもんだと思っていたから、節税に励まなければならない貧しいわたしには到底容認できる風習ではなかった。とはいえ、民営化された今年も、やはり年賀状を書く動機は見つからぬ。用があるときにのみ、連絡を取ればいいと思う怠惰な性分なので。

なにしろ、12月は忙しいのである。まず年末進行というのがある。これは致し方ない。あとは、J2の入れ替え戦とか、クラブ・ワールドカップ(トヨタ・カップ)などというものもある。そして、なによりも忙しさに輪をかけるのが、高専ロボコンの放映が12月にまとめて行われることに尽きよう。まず、深夜放送で地区予選を二週間近くかけて見る。アイディア倒れ、あるいは一歩も動かぬロボットの悲哀をとくと堪能できるのは地区予選だけの愉しみなのである。気になるロボットはメモっておいて、これが国技館でどう活躍するのかドキドキしながら、全国大会の放送日を待つ。年によっては、飲み会が続いて地区予選を全部見るのは不可能なときもあるのだが(単行本一冊を12月の三週間で書き下ろした年は、何も見られなかった)。

今年の全国大会は、強豪の宅間電波高専(サッカーでいうとブラジルみたいな安定感がある)を決勝で破った和歌山高専に胸が熱くなった。さらに、昨日の深夜には、高専ロボコン20周年ということでこれまでの名勝負を振り返る特別番組まで放送された。あまりにもの懐かしさ。

この番組では、わたしをロボコンという競技に熱中させるキッカケともなった大分高専の「スプレもん」も紹介された。この年、1991年の競技は「ホットタワー」。二つのスポットの上に、赤チームは赤い箱、青チームは青い箱を積み上げる。より多くの箱を積み上げたロボットが勝ちだが、相手の色の箱の上に、自分の色の箱を置けばそのスポットを獲得できるというルールもあった。それぞれ、速度や箱を積み上げる性能を競ったわけだが、この「スプレもん」は、相手が積み上げた箱の上を覆って、スプレーを噴射、箱の色を塗り替えて、相手の箱を自分のものにしてしまうという荒行をやってのけたのである。当時、初めてこれを見たとき、「こんなのもアリなのか」と少なからぬショックを受けたものだった。さらに、ああ、人生だって色々なやり方があるのだなあ、と若い自分は深い感動を覚えたものだった。

「スプレもん」が登場する動画(WMP)。始まって1分50秒ぐらいに「スプレもん」が出てくる。残念ながら、このロボットは、地区予選で敗退した。

mms://vodt.kbs.co.kr/vod/robocon/nhk04.asf

26.12.07

ノーメンのある生活


最近、能面を買うてみた。というのも、今の仕事部屋にはこういうものが必要ではないかと考えたからだ。

人の気配があると、それが気になってあまり仕事が捗らない性分である。しかし、本当に何の人気もないと、つい気が弛んでしまい、やはり仕事が捗らぬ。

だから、部屋に能面を据えてみたのだ。確かに、その面からは、何らかの気配を感じる。クールな視線を受ける。

それは物質に過ぎない、ということははっきりとわかっている。そうであってもさえ、誰かの視線を浴びているという感覚から抜け切れない意識もある。

このちょっとした緊張感がいい。程よく空いた電車のなかで、読書が進むように。

経年劣化で眉はほとんど消えかかっている。近寄ると塗料の乾燥による細かいヒビが入っている。骨董趣味はないので、詳しい由来はわからない。ただ、全体のバランスの良さに惚れて購入したのだった。

さらに、効用があったのは、これをじっと見つめていると、自分がどのような精神状態にあるのか、よくわかるということである。気分がいいと能面はかすかに笑みを浮かべているように見え、怒っているときは目つきが鋭くなる。

能面、とくに、この小面はフラットな表情になるように作られている。角度や光の具合、そして、それを観た人の心理状態によって微細に変化するように設計されているわけである。無表情を表わすのに「能面のような」などという形容を使う人は、そういうことがわかっていない。能面ほど表情豊かなものはないのだから。

朝起きて、今自分はどのような精神状態にあるのだろうか、などと鏡代わりにも使えてしまう。自分自身を外在化させるというわけだ。ノーメンのある生活、オススメである。

25.12.07

憧れの家畜ちゃん化計画。

「2016年に東京オリンピックを」という掲示が町のおちこちに張り巡らせてありゃんして、あからさまに不愉快である。本当にオリンピックを東京に誘致して喜ばしいと思う人がどれほどおるのであろうか。政治家、土建屋、スポーツ関係者、マスコミ以外で。嫌みをいっているわけでなく、どうして喜ばしいのか、その理由をば聞いてみたいものだと真剣に思ってしまう今日この頃。

余計な施設、無駄な道路がバンバン出来るのも不愉快だが、もっと困るのは、起こるはずもないテロの対策で昨今は薄気味悪い思いをしているというのに、オリンピックなどという厄介なものがやってきおったら、ますます警備強化、警察がデカい顔して通行人の持ち物検査なんかやらかしおって(サミットのときは酷いものだったしのう)、そんなことをやられると、一つおいらも権力を混乱させちゃえとムクムクとスケベ心沸き立ち、使い古した黒いカバンに公序良俗に反するものをわんさと詰め込み、あえて奴らの網に引っかかり、まあ平和な日本、いきなり銃殺されることもないだろうから、そこであくまでも穏健にバトルの一発でもかましてやろうと、余計かつ無駄なことを考えてしまうので、こういう取り締まりはないほうが、わたしは気持ち安らかに暮らせるのである。だから、オリンピック誘致は絶対反対。

とはいえ、人々が管理されたがっている、という最近の風潮は止まることはないのだろう。子供に居場所を伝える携帯電話を持たせているというし。子供のときから管理されることに慣れきってしまい、管理されてないと不安になるような人格を作ってしまえということなのだろう。まあ、そっちのほうが安心だし、モノを考えなくていいから楽だし。みーんな仲良く相互監視社会。なーんだか、ハッピーではござらぬか。さあさ、みーんな家畜になっちゃえ。

というわけで、先日イメージ・フォーラムで「いのちの食べかた」を見てきたのだった。大量で計画的に製造される食材の現場を淡々と映したドキュメンタリー映画だ。ドイツ人の若い監督は、いかに自然をコントロールしているのかという問題をかなりクールに描いてみせる。たとえば、豚が屠殺され、肉になるまでの行程がオートメーション化している様子が何の思い入れもなく映し出される。屠殺シーンは、ベルトコンベアーで流れてきた豚が、機械のなかに入ると、ぐったりとして出てくるだけ。前に中国かどこかの豚の屠殺映像を見たことがあるが、それはもう、凄惨そのものだった。豚の断末魔が耳について離れなかったものだ。この、おそらくドイツで撮影された屠殺場には、そんなドラマティックなものは一切ない。ひたすらクールでスマート。

音楽もナレーションも字幕も、そしてセリフさえない、映像と状況音だけで勝負しちゃえという思い切ったこの作品、まさに映像作品の鏡。音楽でこってりと味付け、ナレーションでギッチリと方向付けし、くどいばかりに字幕で強調、単純化するバカバカ映像ばかり跋扈する現在、このような視覚を研ぎすまされる映像に接すると、家に帰っても、しばらくテレビ番組などチンケすぎて見たくなくなっちまう。

食肉だけを扱った作品でもない。トマトや白アスパラの収穫や、岩塩の発掘など、かなり多岐に渡った食材の現場が映し出され、その都度、唐突に画面は切り替わる。そして、いずれも撮影アングルは練りに練られている。ちょっと狙い過ぎといわんばかりに。

どこか切なく、可笑しくも悲しくもあり、ゾゾと後ろめたい気持ちも起こり、それでも、シュールな光景に魅入っててしまう。このようにあらゆる感情が同時に沸き上がってしまうのは、「生きるための死」という矛盾がそこに描かれているからだろう。

何よりも、食材がどのように生産されているんでございましょう、などというお勉強映像でも、現場ではこんな凄惨なことが行われています! 的な告発ノリもないのが気に入った。エピソードを連ねただけのニュートラルな制作姿勢。ただ、「いのちの食べかた」という日本語タイトルは気になる。原題は「OUR DAILY BREAD(Unser taglich Brot)」、つまり「日々の糧」と訳されるべきなのに、「いのち」という言葉が入ることにより、生命倫理的な意味合いが強くなった。ま、「日々の糧」という聖書の言葉を使わないことで、家畜は人間様に食べられるために神が創造したものというキリスト教的なスタンスから距離を置きたい、との判断だったのかもしれないけれど。

ニュートラルといっても、観る者にある種の強い感情をもたらす場面もある。たとえば、ラスト直前の肉牛の屠殺シーン。狭いゲージに押し込められた牛に、作業員が電極を押し付け、感電死させる。最初の牛は「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに感電させられてしまうが、二番目の牛は自らの運命を悟ってしまったのか、ガタガタと震え出し、電極を押し付けられるのを激しく拒否する。かなりショックなシーンである。

そこで思ったのだ。これが、牛ではなく人間であった場合、つまり、あたくしたちが捕まって殺されてしまうとしたら……管理されることに慣れた人間は、最初の牛のように「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに殺されてしまうのではないか。つぶらな瞳で何の疑いも抱かず。そして、相互監視社会にイマイチ乗り切れないあたくしみてえにちょっぴしネジクれた考えを持った人間はガタガタ震えながら、恐怖と憎悪に満ちた表情のまま殺されてしまうのだろう。うぎゃあ。どちらが幸せかといえば、前者なのかもしれん。だから家畜化だって悪くない。東京オリンピックはそのための一つの布石なのだろう。うんうん、きっとそうなのだろう。お上のやり方に間違えはねえからなあ……。

14.12.07

ハーディングの第九?

昨日の昼過ぎのことでおじゃった。来年のダニエル・ハーディングの東フィルとのチケットをそろそろ何とかすべえ、とネットをぐるぐると回っていたら、とんでもない情報に出くわした。

12月13日(木)「聖響×第九」公演に出演予定の指揮者 金聖響は急病(急性腰痛症)のため、本人の友人でもある指揮者 ダニエル・ハーディング氏が出演いたします。
http://www.imxca.com/information/071213.html

ハーディングのCDライナーノーツに金聖響が文章を寄せていたりして、二人は仲良しということは知っていたが、何とも豪華な代役だぜ。オシムの代表監督の後任にモウリーニョが来るような、いや、それよりもずっとサプライズな贅沢三昧。金聖響はナマ演奏を聴いたことがないから何の判断しようもないのだが、にしたって、こりゃあ金がプラチナに化けたって以上のことはあるよなあ。

この指揮者変更のお知らせが出たのは、まさしく演奏会当日。チケットを買った少なくない人が、ハーディングが指揮台に昇ることを知らずに会場に駆けつけることになり、来てみてビックリ、なんちゅう果報者め。おいらもそんな果報にありつきたいものよのう。

んで、困った。この日はまったりと映像を見る日だったのである。天才なんだか変態なんだかもう混濁してしまうわっちゅう魅力に満ちた大木裕之の上映会、しかもゲストの帯谷有理(90年代、日本でもっともエキサイティングな映画を撮ったのはこの人だと思う)の新作短編も観れるという、個人的には激烈な魅力に満ちたイベントがあったのだ。ハーディングか、帯谷有理か。あたし孤独なパーシバル。時間が経過するにつれ、二者択一を迫る山下奉文の怒号が聞こえてきそうで、クラクラしちゃうの。

時刻は18時。この時間に家を出なければ、ハーディングの演奏会場であるミューザ川崎まで間に合わなくなってしまう。わたしはまだうじうじと悩んでいたのである。ハーディングはろくに練習つける時間も無かったろうし、新日フィルとは初顔合わせだし、まあ、彼の演奏にはならないかもしれない、けれど、彼は本番一発でオーケストラをノセることも出来るだろうし、オーケストラのほうも初顔合わせということで必要以上に刺激的な演奏をしてくれるかもしれねえ、などと思考が堂々巡り、映像イベントの会場、neoneo坐はおもろい企画が多いけれど、長時間あの椅子に座るのも疲れるなあ、などと本当にどうでもいいことまで脳髄を駆け回った末、やはりふんぎりがつかぬのである。こんなに迷うなら、いっそどちらも行かずに家で無言でネギでも刻んでいようか、コンニャロめ、などと破滅的かつ義理堅いことさえ考えてしまいそうになる。

新しく出た情報に従え。ふと、そんな言葉が過った。ハーディングの情報は、何時間か前に偶然に発見した新しい情報。これは啓示みたいなもんではないか。今回は、もうそれに決まり。猛然と支度して、川崎に向かったのであった。

本当にハーディングは舞台に出てくるのか。オーケストラの音合わせが終わったとき、そんな不安に襲われた。だいたい、なぜこんな時期にハーディングは日本にいたのだろう。もちろん、今月も来月も日本での本番はないから、ヨーロッパから急に呼んだのか。それにしては急すぎる。まさか、クライバーみたいに熱海あたりでお忍び湯けむり紀行中だったのか。謎だ。少なくとも、この日、同時刻、演奏会場の隣の市で行われている、クラブ・ワールドカップと称した大会で、浦和レッズと戦う相手が、もしもマンチェスター・ユナイテッドであったなら、こんな素敵な代役は無かったに違いなかろう。ハーディングは、マンチェスター・ユナイテッドの熱烈なサポーターなのだ。

不安は打ち消された。舞台に出てきたこの若造の音楽は、まさしくハーディングそのものだったからだ。オーケストラはさすがに水っぽさは否めねえ。先日、郡山市立美術館の食堂で食べたカレーを思い出してしまう。けれども、激しい身振りで、その水っぽい音に微妙な表情を与え、グイグイと引っ張っていくハーディング。第一楽章の展開部のフーガを強調するなど、弦楽器のアンサンブルの精緻さは見事じゃけん。第二楽章のスケルツォ主題には効果的にテヌートを取り入れ、第三楽章は対旋律をクローズアップさせることを忘れない。演奏にノメリ込んでいるうち、オーケストラの水っぽさが瑞々しいという印象に変わっていく。最終楽章は、すばらしいバランスを保ちながら、抜群のノリで締めくくった。12月の日本でこんなに退屈しない第九演奏を聴いたのは、生まれて初めてかもしれない。

兄貴分であるラトルと比べられるハーディング。両者も相当強引なことをやりまくる。しかし、ラトルの音楽からは「やってこませ」などというわざとらしさ(これはこれで楽しいのではあるが)が聴かれるのに対し、ハーディングはもっと爛漫にそれをこなしてしまう。自分のキャリアにはちっとも加算されない代役を引き受けてしまうような彼らしさが現れていた演奏でもあった。電車に大量のレッズ・サポが乗り込んでくる前にササと早足で会場を後にした。

30.10.07

秋深しマドリー沈めむ少年の歌


今年のリーガ・エスパニョーラの国際中継はスペイン国内の権利元の揉め事から、それを放送するwowowはかなり不思議な中継を強いられているようだ。とくに、今節のマドリー対ラコルニーャ戦は、試合直後の七分間の映像無し(この時間帯にお互いに得点シーンが一つずつあるのに)、しかも画質はネットみたいだし、音声は現地からの電話回線で、という呆れ返るほどの低クオリティにのけぞった。まあ、放送されるだけマシ、ということかい。

番組冒頭、wowowのアナウンサーが、この世も終わり、といった絶望的な表情で、本当に申し訳なさそうに何度も何度も謝る。これがたまらなく不愉快である。謝罪という定型的なパフォーマンスが自己保身のためにしか思えないわたしは、こんなことをするくらいなら、この状況をもっと楽しめるように誘導するのがプロの仕事だろ、と思ってしまうので、涙目で謝罪されても苛々が増すだけなのである。

放送がこのようなカタチになったのは、そのアナウンサーはもちろんのこと、放送局にも直接の非はない。だから、そんな謝罪はまったく無意味なのだ。いっそのこと、「こんなことになっちまって、俺も怒ってるんだコンニャロ」と、スタジオで物を投げつけるなど、ブチ切れしてもらったほうが、はるかに爽快だ。それを偉そうに馬鹿丁寧に謝るもんだから、ムッとしてしまうのである。

この中継を担当するのが、倉敷保雄アナウンサーだったら、かなり印象は変わったろう、と勝手に妄想してみる。彼なら、軽く謝罪した上で、視聴者と同じ目線で「この状況をいかに面白おかしく乗り切ろうか」ということを真剣に考え、軽快にそれを実行してくれそうな気がするからだ。こういうマトモな人は、あまりテレビ業界にはいない。

電話回線を経由した現地の観衆のざわめきは、水中で一斉に泡立つような音に聴こえる。
まるでシュトックハウゼンの電子音楽「少年の歌」みたいなカンジ? このシュールなサッカー中継、わたしは「うけけ」と結構楽しんでしまったのだけど。マドリーが逆転などせずに、そのまま、ぶくぶくと水中に沈んでしまえば、もっと良かったのにぃ。

テレビ・ネタをも一つ。

大和証券のCMに指揮者の西本智美が出ているのだけど、そんなことはどうでもよく、そのロケ地に使われている場所にドキリとした。
北ドイツ放送響の本拠地ハンブルクのムジーク・ハレなのだ。あの狭そうなエントランスも映っているし、インタビューのシーンはホワイエで撮影されているようだ。うーん懐かしいぞ。

CMはここ↓
大和証券CM「ファのない世界」

17.10.07

ぶらりモーゼス

15日。ぶらりと上野でベルリン国立歌劇場の《モーゼとアロン》を見てくる。指揮界の黄金の仔牛、バレンボイムの空疎な指揮でも、いや、とりあえず指揮技術があって、外面の部分をキチンと鳴らせる人であれば、シェーンベルクの音楽は自ずと響いてくれるものなのである。何よりも、オーケストラの自発性を引き出し、こういうプログラムを日本に持ってくる政治力があるバレンボイムには十分に感謝せにゃならんて。

ムスバッハの演出は、いつもながらのスタイリッシュなのだが、時代を超えた様式を求めていながら、どうも古くさい感じがどこからか臭ってくるのだ。たとえ、その「マトリックス」とか「スター・ウォーズ」とか「サダム・フセイン」などの要素を取り除いたとしても、だ。その古くささを感じられたところに、おそらく、彼の持ち味が隠されているのであろう。完全にスタイリッシュを極めるということなら、何をやってもまったく同じのロバート・ウィルソンみたいになっちゃうしねえ(そして、ウィルソンのそんな金太郎飴なところが、割りとツボだったりするわな)。

今出ているチケット・クラシック誌で、ムスバッハとコンヴィチュニーの特集をしている。この二人の演出家の舞台写真を一斉に並べているのだが、その違いがあまりにも際立っていて興味深く眺めてしまった。ムスバッハが手がけた舞台のははるかに見映えが良い。とても色彩にこだわっているし、想像力をかき立てられる舞台なのである。一方、コンヴィチュニーは、何だかゴチャゴチャしてて、小汚い。劇場で見たことがあるものはそうではないにしても、スチル写真だけでは少しもイマジネーションがわかないのだ。ところが、実際に舞台に接すると、その印象はまるっきり逆転してしまう。

やはり第二幕、最後のモーゼの嘆きの印象は強烈だった。このあとにシェーンベルクが第三幕を書けなくなった理由もわかろうというもの(形式と内容が分離したあと待っているのは、山岳ベース事件とかあさま山荘事件みたいなもんばかりだし)。すっかり気分を良くして帰る。