15.1.09

空飛ぶ神輿

昨日は昼前からヘリの音がうるさく、しかもなかなか立ち去る様子がない。これは事件か、それとも24時間テレビ(芸能人がマラソンするやつ。甚だしく近所迷惑)かと思ってネットを見てみると、速報で近所の大学で傷害事件(のちに死亡が確認されたので、すぐに殺人に切り替え)があったとのこと。

ちょうど、近所まで外出するところだったので、下の交差点から大学の前を見ると、衛星中継車がズラリと並ぶ。付近の地下鉄駅には、今日の講義が無くなったのだろう、手持無沙汰の大学生がグループ単位で立ち話中。みな、一様に興奮した様子で、目をキラキラを輝かせ、テンションもやや高め。事情を知らぬ人が見れば、隣のドーム球場にて、優勝がかかった試合でもあるのかと思ったことだろう。

彼らのテンションが高いのは、よくわかるのだ。なにしろ、自分たちが平穏に通っている学校で、全国ニュースになるくらいの事件が起こり、ピリピリとした緊張感が走り、わんさとマスコミが駆けつる。これはお祭りみたいなものだ。お祭りとは、ポジティヴとかネガティヴであるというのは無関係に、非日常がどーんと押し寄せること。報道ヘリは、空飛ぶ神輿みたいなもんだ。

でも、新聞やテレビは、「学生たちは不安な気持ちを隠せず」とか「平和なキャンパスは、一転して悲痛な雰囲気に」などと報道するんだろうな、なんて思いながら、用事を済ませて帰宅し、ネットのニュースを確認すると、まったくそのままのようなことが書かれてある。この期待の裏切られなさに、愕然としてしまう。まあ、コピペみたいなもんだわな。ほんま。

もちろん、新聞やテレビが「みんなお祭り状態で、テンション高め」なんて報道しろとは思わないし、期待をするわけでもない。ニュースを作る側、あるいはそれを見る側だって、心のどこかで、お祭りを期待しているわけで、その心的代償として、「悲しみ」とか「追悼」を過剰なまでにクローズアップしなきゃという働きが起こるのだから。簡単にいえば、すべて丸く収まっているわけなんすけどね。