28.12.05

プロジェクトXがやっとこさ終了。

今晩で、NHK番組プロジェクトXが終了する。
実にダメな番組だったが、なぜか人気が出て六年も続いたらしい。
熟年世代を自己肯定させ、彼らをいい気分にさせてくれる番組ではあったけど、そうじゃない世代にとってはひたすらキモい番組に思えたんだけどなあ。結局は、勝利者をネタに敗者が癒されるという構図があっただけではないのか。
もちろん、そういう必要性があったから、番組はウケたわけで、それを批判するつもりはまったくない。
では、なぜこの番組がダメなのか。

まず、映像として、何の魅力もないんだよね。
再現ドラマというもっとも安易な方法を多用するなど、何の工夫もない。
それに、最近のテレビはみんなそうだが、やたらに押しつけがましい。字幕はバンバン出すし、BGMは途切れない。おみゃあ、イチイチうるせえんだよっ。
試しに、この番組を画面を消して音だけを聞いてみればいい。
内容がすべてわかってしまうのだ。ナレーションが何でもしゃべりすぎなので、音だけで説明できる。テレビでラジオ番組されちゃ困るんです。

もっとも気になるのは、事実を単純化しすぎ。「視聴者のおめーら、今回はこういう感動で行くぞ!! 着いてきやがれ」という筋書きが実にミエミエ。スタジオに呼んだゲストを妙に「感動」方面に誘導しているのも気になる。ここまで単純化したら、ヤラセや捏造が起こって当たり前でしょうに。

あからさまにミエミエなのに、「この番組見て感動しないアンタは感情の欠落したヒネクレもの」なんて言われてしまうのが、また迷惑千万である。もっと精緻に見せてくれれば、感動もするさ。最初のオープニングから気合い入った「感動しろしろ光線」を浴びせかけらりゃ、こっちはぐったりしますって。

はあん、プロジェクトXってのは伝統芸能と思えばよいのだ。
つまり、ミエミエという仕掛けが最初からわかっていても(ロラン・バルトが文楽に対して述べた「仕掛けの露呈」)、その空気にまんまと順応して、感動ストーリーを受け入れることができるってわけだ。そこにはストーリーを精緻に構成することも、リアリズムも必要ない。背景は書き割りで充分、能のような最小限の所作でオッケー。見る人が、どーんと感情を移入してくれればいいんだから。いつのまにか、この番組はそうした器に成長していたのだった。
そして、自分としてはテレビにそういうもんを求めていないから、こんなふうにウダウダ文句たれちまうわけだ。

今晩の最終回はこれまでのダイジェスト版というカタチ。何の反省もなく、自らの番組を自画自賛しまくってる二人のアナのやり取りが寒い。当然、報道された捏造事件には触れないし。どうせなら、「不祥事で逆境に立つNHK職員の苦悩と、その再生と飛躍」の物語でもドカンとやってくれたら、そのメタな姿勢を存分に評価したのにな。

こんなわたくしも、なぜか最終回の放送をチラ見しながら、これを書いている。なぜかというと、今日は中島みゆき様がご出演なさるのである。文句タレタレなわたくしも、みゆき様の前にはヨレヨレだ。ひれ伏すのみ。ハハーッ。
今日は生放送だ。みゆき様のことだから、制作側の意図を越えたぶっちゃけ話でスタジオの空気を方向性をどっちらけにしてくれることを期待しつつ。

と思ったら、歌だけで終了かよお。トークはないんかい。
しかし、最近のニコラウス・アーノンクール顔負けのアーテキュレーションの変化が際立った演奏だ。ちょっとやりすぎの感もあるが、最後の最後をみゆき様の笑顔で締めくくるなんて、なんて汚いんだNHKは。
終わり良ければすべて良し、なんて言いたくなるじゃない?

27.12.05

「パリ・ルーヴル美術館の秘密」

パリには何度か行ったけれど、エッフェル塔もルーヴル美術館も未体験だったりする。ポンピドー・センターとかIRCAM、または地下鉄の乗り換えで迷って、地上に出たらそこが凱旋門だった、ぐらいの観光はしてるけど。
朝、ルーヴルは入り口の入場券を求める行列を見て、「今日はやめとこ」と素通りして、墓地やカタコンベに行くのが、わたしの標準的なパリの過ごし方だった。おかげで、パリの三大墓地で撮った墓写真ばかりたまってしまったわけなんだが。

先週末、前に買っておいたルーヴル美術館のドキュメンタリー映画DVDを見た。監督は最近ちょっと気になっている、ニコラ・フィリベール。この映画、ルーヴルでまったり過ごせそうなスケジュールは組めないかな、とマジ検討させてくれるに足る代物なのだった。

とにかく映像がすばらしいんでございますよ。
美術館に置かれているだけで、美術作品の魅力は半減すると思っていたわたしだが、うへへ、さすがルーヴルは違いますな、と感嘆してしまう。美術品がすっかりその場に溶け込んでいる様子が、滑稽なくらい徹底的に映像化されているのだ。
そして、そこで働く職員たちの日常が淡々と描かれている。一般人が想像するよりも美術品は荒っぽく扱われているし、地下の収蔵室での無造作に並べられた彫刻など、その日常的なところがやけに眩しい。美術品はわれわれにとって、非日常だけれども、職員たちには日常。そういう親和性がめっちゃ麗しい。

この映画は美術品への解説が一切ないので不満だ、という評をどこかで見たことがある。
なんちう愚かなことをおっしゃるんざますか。そーゆーのを求めるのなら、NHKの美術番組でも見てればよろしいんである。
解説もナレーションも、作品名のテロップも一切ない静謐なところが、この映画のすばらしいところなのだ。ドキュメンタリーなのにインタビューの類がまったくないのもいい。すべては映像が語ってくれてるんだから。

何でも解説してもらわないと困る人々がいる。
たとえば、美術展などで、絵を見る前に必ず作家名と作品名の書かれたキャプションをチェックしなければ気が済まない人である。少し離れたところで観察していると、キャプションと作品を見ている時間の比率が7:3ぐらいな人も少なくない。いったい何しに来ているのだろうと思う。これだったら、自宅で寝転がって出品目録でも読んでいたほうが、時間の節約になるだろうに。
クラシックの国内盤には必ず「過剰」な解説が付けられているし、文庫本を買うと解説が付く。それに、サッカーのテレビ中継には、やたらによく喋る実況と解説が付く。
はっきりいって、すべて余計である。
そんなもんがあると、「それが一体自分にとって何なのか」という考える余裕を奪ってしまう。

この映画、原題を直訳すると「ルーヴル村」でもなるはず。「パリ・ルーヴル美術館の秘密」という日本訳も、いかにも解説ありき的な発想なんだよなあ。ぐう。

25.12.05

神さまを祀ってみるプロジェクト2


神棚を有効に活用しているという満足感であろう、寝床についても寒さに打ち震える、ということが少なくなった。その効果は、一枚多く着こんだという物理的条件によるものだけではないはずだ。
そのおかげだろうか、先日、寒い小説とわたしが嘆いた鹿島田真希「ナンバーワン・コンストラクション」も、その寒さの原因がはっきりとわかれば、ぬくい心で読む進めることができた。
この小説の寒さの要因は、まず、登場人物が素朴で善良な人ばかりである、ということに尽きよう。おかげで、彼らのセリフが信じられないくらいに「寒い」。
また、語りの視点が一番上にあるから、登場人物の心情が読者に情報として極めて平等に与えられる。つまり、ウラがない平面的な感じ。あらゆるものに、平均して光があてられていて、陰影がとぼしい。蛍光灯の光のように、照度的には明るいのかもしれないが、温かみがない。
善良な人たちが織りなす、ウラがほとんどない世界(それはとてもシュールな世界にわたしはには思えた)が、その「冷たい」世界が、小説の構造を支えるテーマである「建築」と対応している、ということなのだろう。
小説のハナシはもういい。
向上心に突き動かされたわたしは、神棚をパワーアップさせることにした。
何か、暖かくなるような供え物を。
黄色い神体に合わせ、黄色いものをわたしは見つけた。

モンテディオ山形のアウェイ・ユニホームである。
しかも、胸スポンサーは「はえぬき」ときた。ブランド米である。
すばらしい。これを供物として捧げれば、豊饒が約束されるようなものだ。

戦後の農家の課題は、「あまりたくさん作らないようにする」ということだった。
たくさん作物が取れすぎると、値段が下がる。高値で売れないから、もうからない。
取れたものを市場に出さずに処分する、なんてこともあるように。

モンテディオ山形というチームも、このような構図と無縁とはいえぬ。
たとえば、順調に勝ち星を挙げると、チームはJ1に昇格してしまう。
J1に行きゃ運営費がぐーんと上がる。よって、運営会社(山形の場合、社団法人)は必死に頭下げてスポンサーを集めなければならなくなる。しかし、そんなバイタリティはもともとないし、手間はなるべく省きたい。赤字もなく、このままJ2で中位を保っていたほうが、自分たちが運営しやすいってわけだ。
だから、主力選手には慰留を求めずに放出し、必要なポジションの補強はあまりしないようにし向ける。つまり、勝ち星はほどほどに、というわけだ。
こんなことは噂にすぎないが、それが事実であってもおかしくないのが現在の山形ちゅうわけ。前監督もそんなフロントに愛想を尽かして出て行ったようだし。

つまり、あまり豊饒であっても、いけない。
ほどほどの豊饒を。腹八分目。別腹なんてありません。
この神棚の上にあるものは、そんな悲しい現実をも伝えてくれる。んがあぁ。