「2016年に東京オリンピックを」という掲示が町のおちこちに張り巡らせてありゃんして、あからさまに不愉快である。本当にオリンピックを東京に誘致して喜ばしいと思う人がどれほどおるのであろうか。政治家、土建屋、スポーツ関係者、マスコミ以外で。嫌みをいっているわけでなく、どうして喜ばしいのか、その理由をば聞いてみたいものだと真剣に思ってしまう今日この頃。
余計な施設、無駄な道路がバンバン出来るのも不愉快だが、もっと困るのは、起こるはずもないテロの対策で昨今は薄気味悪い思いをしているというのに、オリンピックなどという厄介なものがやってきおったら、ますます警備強化、警察がデカい顔して通行人の持ち物検査なんかやらかしおって(サミットのときは酷いものだったしのう)、そんなことをやられると、一つおいらも権力を混乱させちゃえとムクムクとスケベ心沸き立ち、使い古した黒いカバンに公序良俗に反するものをわんさと詰め込み、あえて奴らの網に引っかかり、まあ平和な日本、いきなり銃殺されることもないだろうから、そこであくまでも穏健にバトルの一発でもかましてやろうと、余計かつ無駄なことを考えてしまうので、こういう取り締まりはないほうが、わたしは気持ち安らかに暮らせるのである。だから、オリンピック誘致は絶対反対。
とはいえ、人々が管理されたがっている、という最近の風潮は止まることはないのだろう。子供に居場所を伝える携帯電話を持たせているというし。子供のときから管理されることに慣れきってしまい、管理されてないと不安になるような人格を作ってしまえということなのだろう。まあ、そっちのほうが安心だし、モノを考えなくていいから楽だし。みーんな仲良く相互監視社会。なーんだか、ハッピーではござらぬか。さあさ、みーんな家畜になっちゃえ。
というわけで、先日イメージ・フォーラムで「いのちの食べかた」を見てきたのだった。大量で計画的に製造される食材の現場を淡々と映したドキュメンタリー映画だ。ドイツ人の若い監督は、いかに自然をコントロールしているのかという問題をかなりクールに描いてみせる。たとえば、豚が屠殺され、肉になるまでの行程がオートメーション化している様子が何の思い入れもなく映し出される。屠殺シーンは、ベルトコンベアーで流れてきた豚が、機械のなかに入ると、ぐったりとして出てくるだけ。前に中国かどこかの豚の屠殺映像を見たことがあるが、それはもう、凄惨そのものだった。豚の断末魔が耳について離れなかったものだ。この、おそらくドイツで撮影された屠殺場には、そんなドラマティックなものは一切ない。ひたすらクールでスマート。
音楽もナレーションも字幕も、そしてセリフさえない、映像と状況音だけで勝負しちゃえという思い切ったこの作品、まさに映像作品の鏡。音楽でこってりと味付け、ナレーションでギッチリと方向付けし、くどいばかりに字幕で強調、単純化するバカバカ映像ばかり跋扈する現在、このような視覚を研ぎすまされる映像に接すると、家に帰っても、しばらくテレビ番組などチンケすぎて見たくなくなっちまう。
食肉だけを扱った作品でもない。トマトや白アスパラの収穫や、岩塩の発掘など、かなり多岐に渡った食材の現場が映し出され、その都度、唐突に画面は切り替わる。そして、いずれも撮影アングルは練りに練られている。ちょっと狙い過ぎといわんばかりに。
どこか切なく、可笑しくも悲しくもあり、ゾゾと後ろめたい気持ちも起こり、それでも、シュールな光景に魅入っててしまう。このようにあらゆる感情が同時に沸き上がってしまうのは、「生きるための死」という矛盾がそこに描かれているからだろう。
何よりも、食材がどのように生産されているんでございましょう、などというお勉強映像でも、現場ではこんな凄惨なことが行われています! 的な告発ノリもないのが気に入った。エピソードを連ねただけのニュートラルな制作姿勢。ただ、「いのちの食べかた」という日本語タイトルは気になる。原題は「OUR DAILY BREAD(Unser taglich Brot)」、つまり「日々の糧」と訳されるべきなのに、「いのち」という言葉が入ることにより、生命倫理的な意味合いが強くなった。ま、「日々の糧」という聖書の言葉を使わないことで、家畜は人間様に食べられるために神が創造したものというキリスト教的なスタンスから距離を置きたい、との判断だったのかもしれないけれど。
ニュートラルといっても、観る者にある種の強い感情をもたらす場面もある。たとえば、ラスト直前の肉牛の屠殺シーン。狭いゲージに押し込められた牛に、作業員が電極を押し付け、感電死させる。最初の牛は「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに感電させられてしまうが、二番目の牛は自らの運命を悟ってしまったのか、ガタガタと震え出し、電極を押し付けられるのを激しく拒否する。かなりショックなシーンである。
そこで思ったのだ。これが、牛ではなく人間であった場合、つまり、あたくしたちが捕まって殺されてしまうとしたら……管理されることに慣れた人間は、最初の牛のように「おいおい、なんやねん」みたいな表情をしたままワケもわからないうちに殺されてしまうのではないか。つぶらな瞳で何の疑いも抱かず。そして、相互監視社会にイマイチ乗り切れないあたくしみてえにちょっぴしネジクれた考えを持った人間はガタガタ震えながら、恐怖と憎悪に満ちた表情のまま殺されてしまうのだろう。うぎゃあ。どちらが幸せかといえば、前者なのかもしれん。だから家畜化だって悪くない。東京オリンピックはそのための一つの布石なのだろう。うんうん、きっとそうなのだろう。お上のやり方に間違えはねえからなあ……。