3.4.07

フッキと異教徒の踊り。

日曜。今シーズン初めてのモンテディオ山形の試合を見物しに味スタへ参拝。5分遅刻で入場したあと、いきなりレオナルドがフッキを引っ張ってPKの現場に遭遇。なんてこと。フッキに一発決められ、すでに心のなかは曇天。

後半はモンテ側に攻撃のカタチがたくさん作れて、こりゃあイケるかもと思わせつつも、やはり決定力がメロメロ。ヴェルディは、策がないのか策なのか、攻めさせ最後に刈り取る流れ。んもう、今シーズンでもっともいい攻めのカタチを見せつつも(山形の波状攻撃を見たのは、久々じゃった)、結局はPKで取られた1点でヴェルディに敗れ、トホホと自転車をさいたま方面に走らせる。今日はこれから「信仰の現場」へと向かうのだ。

調布から三鷹→田無→新座→志木と走って、さいたま市への道のりは、案外遠かった。荒川の橋の上で両足をほぼ同時にツッて悶絶。調布までゲーム開始に間に合うように甲州街道を飛ばしまくった祟りじゃ。ふと、首筋に手を回すと、異様に砂っぽい。黄砂浴びまくり。

なんとか18時にさいたまスーパーアリーナへ。今晩の夜の出し物は「Berryz工房」のコンサートなのである。Berryz工房というユニットは最近まで知らなかった。ハロプロという言葉さえ知らなかったのだ。最近知り合ったS君が、このユニットの篤実な信奉者で「一度詣でましょう」と、俺のような不心得者を誘ってくれたのである。有り難く、得難い経験である。

あたくしは、アイドルとか美少女系とかには、生涯一度もハマったことがない。いつも身の回りのイカれてキュートなお姉さんにばかり気を取られておって、そんな精神的余裕がないのである。でも、篤い信仰心を持つことはいいことだ。こういう体験がないから、自分は精神的成長が足りないのではないかなどと疑ってみたりもする。というわけで、この手のライヴは初めてだった。

オープニング直前に会場入りしてみると、やはり、なかなかすごい光景なのであった。「連中」が騒いおる。「連中」とは、世界各地に点在するコアなサポーターたちのことを自分が勝手に呼び表わしたものだ。でも、ここいらの連中は、ビールを飲みまくって強烈なブーイングかますわけでもなく、ゲバラとかドクロの旗を振り回してもない。服装も、レッズみたいに赤一色というわけでもなく、黄色とかピンクとか明るい色が多い。

サッカーのユニホームの人も多い。オランダ代表ユニに「MOMOKO」などとメンバーの名前がマーキングしてある。語感からして、まるでアフリカ系の移民みたい。技術と身体能力高そう。左サイドに置きたいアタッカーだ。一方、ブラジル代表ユニに「RISAKO」。現地、ポルトガル語だと「ヒサコ」になる(ホナウジーニョ、ヒバウドみたいに)。これが「ヒサッコ」だとブラジル人にリアルでいそう。右サイドバックで使いたい。

異教徒のなかにポーンと放り込まれて、彼らの激しい動きとステージ上のご神体との連繋などにひたすら見入っていた。隣のS君は、ほかの誰もやっていないような身体芸を披露している。これはオタ芸と呼ばれるものらしい。なかなか呪術的なオーラを感じさせた。アイドルのコンサートは、一遍上人の時宗と同じ構造を持っていると誰かが書いてたが、まさにそれを実感。時宗から阿国歌舞伎を経て、ニッポンの近代アイドルのステージは確立されたのだろう。

面白いと思ったのは、メンバーの挨拶で「自分は中学○年生」などと、必ず学年を付けることだった。S君によれば、「4月だから、そういう挨拶になるのでしょう」とのこと。そうか、4月は進級、入学のシーズンなのかと、何年も味わったことのない季節感をじんわりと覚える。そういえば、歌詞にも「模擬試験」などの単語がたくさん出てくる。妙に日常的な「学校生活」の部分が持ち込まれていることが不思議な感じ。

つんくの作った歌は、歌詞にコラージュ的なものが多いという印象があったけれど、スローテンポの曲になると、いかにもなストーリー性を伴った陳腐なものになる。しかも、「青春」という言葉がたくさん出てくる。「青春」って、まんまオヤジの語彙じゃん。いや、歌っている彼女らにしてみれば、オトナにコントロールされているのだから、そういうコンセプトをあえて露出するっていう方法もアリなのか。それにしても、さいたまスーパーアリーナのスピーカー音声はひどかった。全部割れまくってますよ。それでも、文句の一つも言わず、歌って踊ってるみなさんはすごい。見よ、これが信仰者の姿だ。こういうことがクラシック系の演奏会であれば、主催者が血祭りに上げられてるぞ。ひー。

終わったあとのアリーナの通路は、「連中」に囲まれて芋洗い状態。S君が「いつもアウシュヴィッツ状態なんですよ」と気の効いたことを言う。おかげで、手続き上の間違いでユダヤ人たちと一緒に収容所に連れて来られたような気分になる。こういうとき、人間の理性はどう働いて、どうやって自分はこの窮地を切り抜けられるのか、しかし自分だけ解放されるのは人道的にどうなのだろうか、いや、自分だけでも生き残ってこの惨状を後世に訴えなければならぬ、などというドラマティックな思考がぐるぐると頭を廻る。

31.3.07

荒ぶったもの。

最近のあたくしのアイドルは、篠原聡子さんである。
彼女のことを知ったのは、先日、広島の原爆ドームに不法侵入した女性が逮捕されたというニュースからであった。「いったい、なんなんだ、この人は」とネットでご芳名を検索したら、わりと有名な方なのであった。

ジャニーズの滝沢くんが自分をストーカーしていると妄想し、さまざまなアクションを起こしていたのだという。その数々の業績は各自ネットで検索していただくとして、わたしが感銘を受けたのは、この二つの音声ファイルである。

http://eastinside.org/~soulsonicforce/cgi-bin/upload/source/up1457.wma

http://eastinside.org/~soulsonicforce/cgi-bin/upload/source/up1458.wma

最初のほうは、篠原さんがジャニーズ事務所に乗り込んで、社員と直談判する様子を、篠原さん本人が録音して、自分のブログにアップしたものである。
その下のリンクは、その直談判したあとに、事務所の近所の乃木神社で器物損壊を働いた後、警察を呼べと神社関係者に詰め寄っているところの実況録音である。
いずれも尺が長いし、強烈なので、うかうか気軽に聴いてしまうと、痛い目に合うのは必至だが、これがなかなか考えさせられるものであった。

一つの劇作品として、わたしは聴いた。荒ぶる超アウトローが、市民社会の不思議さを浮き出させるコンセプトを持った作品として。
ジャニーズ事務所の対応は、いかにも「会社」的であり、いかなるコミュニケーションも取ってやんないぞという魂胆がミエミエである。もちろん、篠原さんのような人と満足できるコミュニケーションを取るのは絶対的に困難なのだけれど、彼女のような媒介があると、そうした魂胆が怖いくらいに明瞭に見えてくるのである。

乃木神社のシーンは、まさに、お能の世界だ。神域に笹を手にした狂女が入ってくる。「三井寺」や「賀茂物狂」などの四番目物を観能するとき、わたしはきっと篠原さんのこの金切り声を思い出し、その恐怖に打ち震えるだろう。

激高したかと思えば、妙に論理的なことをまくしたてる瞬間がある。わたしだけの経験かもしれぬが、こういうのは女性ピアニストの演奏に多い。その特徴は、表現の切り替えが鮮やかなほどに際立っていることだ。決して、直前のアーティキュレーションを引きずらない。感嘆はすれど、ちょっと苦手なタイプではある。

妄想の世界は、決して論理的能力が弱い人が作り出すものではない。逆に、強い論理志向が、強度な妄想の世界を作り上げてしまうことが多いものだ。確実にいえるのは、多くの人が日常的に安住している「妄想」と、一見強烈そうな篠原さんの「妄想」とは、思っているほど違いはないということだ。それが一番恐怖なんじゃないのかなあ。

28.2.07

たまにはさっき終わったばかりのコンサートの感想を駆け足で書いてみる。

トッパン・ホールでロジェ・ムラロを聴いてくる。ムラロといえば、メシアンが有名だけど、あたくしはラヴェル演奏のとことんマニエリなところが気に入っておって、このピアニストは是非ナマで聴いてみたいもんじゃのうと思っていたところなのだった。

CDを聴いた感じ、「小男の小業師」といった印象だったのだけど、舞台に出てきたムラロはけっこうデカい。しかもガンガン弾きまくる。このときのわたしの気持ちを喩えるならば、ラシン・サンタンデールと対戦するチームのディフェンダーが、試合前ミーティングでムニティス(1m67cm)をマークしろと監督から指示されていたのに、キックオフ直後にジキッチ(2m02cm)のマン・マークに変更になった、という感じである(リーガ・エスパニョーラを知らないと、すんごくわかりにくい喩えだな)。

前半のリスト、アルベニスは、ムラロの強い当たりに、ちょっと翻弄された。ハーフタイムのあとの後半はショパン。結果からいうと、これがとても面白かったのである。

録音で聴いてもわかるのだけど、彼は音の重なる部分で、工夫を凝らして立体的な音響をこさえる。バリバリにやかましいだけではなく、小技がピリリと効いておるのである。しかも、滑舌がはっきりしてるパキパキ系。

音色は多彩だし、表現の幅も広い。しかし、それらをキチンと統一するものがないのだ。心地よい流れには絶対にならない。つまり、完全にマニエリスティックな演奏なのだ。そして、その過剰なマニエリさに、わたしは充分満足したのだった。闇鍋パーティーでのワクワク感とでも言おうか。ただ、心底真面目な聴き手にとっては耐え難いものがあったかもねえ。友人の一人がソナタのあとに退席してしまう姿も目撃したし。

19.2.07

梅と赤痢

雨が晴れた日曜の午後は図書館に行きたくなる。いや、雨が振っていようと、木曜だろうと図書館に行きたくなる気持ちは変わらないし、家に買って未読の本がごろごろしてんのに、そういう誘惑の場に足を運びたくなるのは、ほとんど病気だといってよい。

ちょうど梅の季節なのだった。桜より梅派のあたくしとしましては、こういう時期は、家々の庭先の梅を見てそぞろありく。こんな目的があって眺めると、東京の家々の庭先には意外と梅の木があることがわかる。こうやって、家々を覗き込みながら散歩するのは、ほぼ不審者。観梅で通報されれば、そりゃ本望ぢゃて。

帰ってきて、図書館から借りてきた「赤痢」のCDを聴く。地元の図書館にこういう貴重な資料が置いてあるのは心強い。なにしろ、このアルバムの一曲目は「夢見るオマンコ」だぜ。税金の納めがいがあるってもんだ。パンクならではのシンプルさが、実にいい曲。

高校時代に、「あぶらだこ」やら「D-DAY」とか「原爆オナニーズ」、そして「赤痢」をやたらに薦める友人がいた。自分もクラシックっていうか、ヘンな現代曲ばかり聴いていたので、お互いにマイナー好みとして共通する何かがあったのだろう。ただ、当時のわたしはロックも歌謡曲もからきし聴いてなかったので、こういうものがポピュラー音楽の本道だと思っていたものだった。そういうものはお茶の水のジャニスのインディーズ・コーナーに固めて置いてある代物、ということに気づいたのは、かなり後になってからである。

「赤痢」を聴いていたら、妙に懐かしくうれしい気分になり、今でもこういうCDを買えるのかなと思って、アマゾンで検索してみたら、二枚組のベスト盤が現役で出ている。ラッキーと思ってカートに放り込もうとしたら、レビューにとんでもないことが書かれている。

「放送禁止用語にノイズが被せられ、消されている」だと。また言葉狩りかよ。レコード会社が自主規制したがる、くだらなさについては理解しといてあげよう(オマエラに何を期待するもんか)。でも、よくこんなむごい処置にも関らずアーティストのほうが発売許可したもんだな。そう思うと、急速にさみしい気分になったのであった。

13.2.07

東京砂漠といえば、内山田洋とクール・ファイブ。



じゃが、あたくしだって、東京都内で砂漠を走りたいやん。そんなわけで、伊豆大島行ってきたのだった。今回はチャリ仲間のTさん、Kさん、Dさんのご相伴に預かることに。昨年大島に行ったときは、目の前まで行ったのに突風のあまり砂漠紀行を断念、午後はまるまる温泉にしけこんでしまったので、ちょうど砂漠への思いが募っていたところ。

今回のお供はMTBのブードゥー子ちゃん。昔は北国のオフロードをガンガンに飛ばし、レースにも出場していた男気たっぷりなフレームらしいのだけど、おいらの手に渡ってからは、スリック・タイヤを履かせられ、青山とか深川あたりをチャラチャラと流すだけの軟派な第二の人生を送っていたところだった。でも、昔取った杵柄、お蔵入りしていたブロック・タイヤに換装してやると、シャキッとしたお姿に生まれ変わる。

土曜夜に竹芝桟橋発、もちろん船内では激しく飲み食いしたため、完全に抜けきれぬアルコールと寝不足のまま、翌朝、大島岡田港に放り出される。それでもメシ、メシとメンバーを促して食堂がある元町港まで急行。何か罰が当たるくらい天気がよろしい。暖冬のため、いつもなら椿の全盛期なのだが、すでに終わっていて、所々で桜が開花してたりする。9時に飛行機で合流するDさんを大島空港まで出迎え、全員で路面ガタボコなサンセット・パーム・ラインを南下する。

再び元町港で大島一周道路を走る他のメンバーと別れ、単独で御神火スカイラインをよちよちと登る。とりあえず、この急勾配の登りが無ければ、三原山の砂漠に到達しないので、ただただライヒの《砂漠の音楽》を脳内にリフレインさせながらペダルを漕ぐ。びぎーん、まいふれんず。

休憩もそこそこ、御神火茶屋から表砂漠に入る。火山灰と砂の入り交じった道をよろよろと走る。火山灰のほうは固まっているけど、砂が深い場所は完全にタイヤを取られてしまうのだ。人生、こんなふうによろけてばかりいると、いつしか穴に落ちて、砂の女と一緒に生活しちゃう羽目に陥るのかなあなどと、安部公房的世界をアタマのどこかで息づかせつつ。

ふと、止まってあたりを見渡す。三原山周辺の砂漠のすばらしいことは、なんといっても人がいないところ。奥に踏み入ると、遠くから飛行機や鳥の声がする以外、何の物音もしない。恐ろしく静謐。目に入るのは、荒涼とした地面と山々、それを覆うように流れる雲、遠くに浮かぶ海。それでも、ここは東京都。

今回は椿まつりの真っ最中で、島内の観光スポットには人が溢れているのに、ここを通行する人はほとんど誰もいない。観光ガイドには、「月のような光景」などと書かれているけど、表砂漠のほうは、だだっ広い「賽の河原」という感じ。どちらも肉眼で見てないので、何ともいえぬが(恐山の賽の河原は実にしょぼかった。あそこはテーマパークですもん)。

裏砂漠に入ってメインの海に向かってダウンヒル。もうスピード出しまくり。ってか、ブレーキ全然効かねえ。滑るように落ちる。ときどきリア・タイヤが砂に埋もれて左右に振られるけど、止まるには転ぶしかない。いやもう、これはエグ楽しいずら。

集合時間にはまだ合間があるので、大島公園へ。椿まつり真っ最中なので、次々と観光客が押し寄せてる。砂漠の静謐から、なんとも俗な世界に降りてきた。賽の河原をうろついた、つまり臨死体験をしたような、ちと悟りめいた顔つきで、この公園のお目当てである動物園に行く。この動物園、入場無料だけあって、かなりシンプルなのだけど、そのへんが好き。二時間はたっぷり楽しめる(ラマの往復運動だけで30分くらい見てたし)。夜はロッジに宿泊。疲れ切って20時には就寝。

次の日は、皆であじさいレインボーラインを昇って、大島観光ホテルへ。そこから、また一人で砂漠へ。二日続けて砂漠に行けるなんて、なんてすばらしい日々。ただ、この日は、コース取りを間違えたのか、最後は地図にない道なき道を走る。ほとんどダカール・ラリー二輪車部門の世界。砂丘でスタックしまくり。4WDの轍を辿りつつ、なんとか大島一周道路まで戻る。

帰りの船では、中学生とその家族が島を離れるらしく、部活動らしき仲間が大挙して押し寄せ、歌うやら、エールを送るやら、ここまでやられては功なり名なり挙げねば島へ戻って来れませんってくらいに盛大に送り出されている。船が出ると、その見送りの中学生たちが船影を追って一斉に埠頭に向かって走り出す。徹夜明けで大映ドラマを見たときのような感動が胸を突く。船室でうたたねしたあと、すっかり暗くなったデッキに上がり、激しい痴話喧嘩をする男女のやり取りを傍らで聞きながら、羽田に発着する飛行機を眺める。なんともいえぬ旅情。

10.2.07

今週のお出かけ日記。

今週行ったコンサートの感想など、何かメモ代わりに残しておかないと、揃ってすぽーんと忘れてしまいそうになるので、ちょこちょこと書いてみやがることにした(加齢したから忘れやすいのではなく、ガキの頃から記憶力がものすごく悪いのだと強弁もしたくなる最近37歳になった男)。

7日は門仲天井ホールで、ソフィー・マユコ・フェッターによるシュトックハウゼンの《シュピラール》を聴く。短波ラジオと器楽による作品なのだが、彼女の演奏のおかげで、この曲がどんなことをやっているのかがよくわかった。演奏直前にレクチャーがあったおかげもあるけれど、丹念に楽譜の指示に従った演奏であったことは間違いねえ。今日の演奏を聴くと、これまでの演奏家は、かなり好き放題やっていたんじゃないかというA立T美氏の意見に同感。まあ、作曲家の世代とも近く、しかも身内の演奏であれば、許されることだって多いはず。同時代の音楽とは、そういうものじゃし。

そういう音楽が、譜面というメディアだけを頼りに演奏をしなくてはならなくなる。説明など不要だったボンヤリとした時代性が失われ、作品そのもののコンセプトを鋭敏に伝えることが演奏者の責務となる(同時に、コンセプトの解釈の自由さも生まれる)。シュトックハウゼンにも、そういう時代がやって来ている。もちろん、それはマユコ・フェッターという生真面目&お茶目そうなピアニストの取り組み方にもよるものだろうけれど。

この古典になった明晰なシュトックハウゼンは、とても心地よいものだった。曖昧な時代性を押しつけられるのではなく、作品そのものをぐいぐいと聴かせてやるぜというパワーがこのピアニストにはあった。今回は抜粋だけど、彼女の演奏で全曲二時間たっぷり楽しみたいもの。帰り際、会場の後方に設置されていた閲覧用楽譜のコピーを、おばさんが何枚かごっそりと持ち帰るのを見た。しかも、くちゃくちゃと折ってカバンのなかに突っ込んでいたし。豪族めが、やってくれますなあ。

9日は、大田区民ホール・アプリコにあぶらだこ、いや、レ・ヴァン・フランセを聴きに行く。あたくしと同じ日に37歳を迎えたフルートのパユ、オーボエのルルーや、クラリネットのメイエ、ピアノのルサージュなど超豪華、おフランスなアンサンブルである。

ケージの五重奏はケージらしくもないせわしない初期作品だったし、ハイドンやベートーヴェンは、お綺麗でお上手なんだけど、何かそれだけって感じ。エスケシュのフランセへのオマージュ作品は、響きの巧みさには惹かれたけど、何といっても、プーランクの六重奏曲が、図抜けて光っていた。
なにしろ、お上手で多彩な音色を持っているけれど作品に何の共感もないパユのフルートが、それゆえに、プーランクにはハマりまくるのである。メイエのぬぼーとしたクラリネットが、思索深けに聴こえてしまうのである。おかげで、プーランクのシニカルな叙情性がぐわんと浮かび上がって、実に愉快愉快。もう踊り出したくもなる。アンコールのルーセルもなかなか。やはり、この人たちはフランス近代モノをやっておれば、もう最高なんだす。

昔、ベルリン・フィルがブルックナーを演奏したとき、首席奏者のパユがソロをあまりにも華麗で外連味タップリに弾くもんだから、客席から舞台に登って奴の首を絞めてやりたいと思ったことがあった。てめえがうめえのは充分わかるけど、作品の全体性をちっとは考えろと。オマエさんのスルーパスには他の奏者の誰もが反応できねえぞと。そう、こんときも、彼はブルックナーじゃなくて、プーランクを吹いてたわけだね。すげえといえば、すげえ。ギュンター・ヴァント大先生の棒の下でそんなことできるんだもん。

演奏終了後、サイン会の行列の長さに仰天。ホールを出て三分も歩かぬうちに「キャバクラいかがっすか」と何人もの呼び込みに囲まれる。さすが、ここは蒲田。やるじゃねえか。

そんな蒲田の翌日である今日は、紀尾井ホールにのこのこ出かける。お目当てはポッペン指揮の紀尾井シンフォニエッタ。しかし、当日券が出てくれない。開演時間まで粘ったのだけど、このホールには知り合いもいないから、「何とか入れてくだちゃいよー。一日レセプショニストするからさ。終演後は便所掃除して帰るからさ。なんなら、演奏中は罰として逆立ちしながら聴いたっていいんだぜ」というゴネゴネ戦法さえも使えない。

すごすごと退散。ことごとくポッペンには縁がない。当日券でもなんとか入れるんじゃねえかなどという、世の中をナメきった自分の態度を悔やむ。万事、こういうのがいつもの失敗の原因なんだあと気分がひたすら降下する。

そんなわけで、気分を盛り上げるためにも、今晩から伊豆大島に行っちょくる。明日は念願の裏砂漠ダウンヒルだぴょん。けけけ。仕事しろっつーの。

26.1.07

バラバラにすること。統合すること。

先日、友人と会うために調布まで行った。神田川、仙川沿いに自転車を走らせる。ルートの半分以上は河川脇の車が入れない道。思い切って音楽をかけながら行く。

といっても、ヘッドホンなどで耳をふさぎながら車両を運転するのは法律で禁じらてれおるし、実際に危険きわまりない。自転車は五感を働かせて乗らなければ意味がないのである。そこで、デイパックの肩のところにスピーカーが仕込まれている製品(アンプ内蔵で商品化されてるのです)を背負って行く。これなら、外界の音を塞がずに済む。

こういうときに聴く音楽は、あまり集中を促すようなものであってはならない。用意したのは、0.5秒から2秒くらいの単位で切り取った音声ファイルを数多く作り、それをメモリー・プレイヤーでシャッフル再生するコラージュである。

そういうインチキくさいコラージュは、カセットテープで昔はよく作っていたもんだ。調を合わせたり、リズムを整えたり崩したり、そのコントラストを考えたりと、いかにうまく繋ぐかということに心血を注ぐあまり、半日で1分くらいの分量しか作れなかったりする。しかも、時間がかかるわりには、凡庸なものしか出来なかったりする。作曲というものも、同じようなものなのかもしれないが、こういうものはちょっとセンスが良くないと話にならぬのである。

しかし、自分のような最悪なセンスの持ち主でも、偶然性を利用すれば、とてもすばらしいものが出来る可能性もある。ということで、「繋ぎ」は機械にまかせてしまえばいいのだ。

素材は、iTunesに眠る音源を総動員ってことになる。それこそ、雑多な素材をできるだけ沢山作っておく。音量は一定になるように調整しておけば心地よい。あとはそれをシャッフル再生するだけだ。うまく繋がったときは、「ナイス・パス!」と声をかけてやると、自ずと気分が盛り上がる。

交差点などで止まったときは、指向性の強いスピーカーとはいえ、音量によってはオープンカーのカーステレオ状態になるので、近くにいる歩行者にその音楽を聴かれてしまう可能性がある。そういうときに限って、足立智美の絶叫ファイルが再生されたりして、「なんだなんだ」と彼らがとまどう様子を見るのも、なんとも微笑ましい。ちょうど杉並区の交差点で止まったとき、周囲に「杉並のショーコ〜」と麻原彰晃の声が響き渡り、名状しがたく気まずい雰囲気になってしまったのも、また痺れる心地。

できれば他人に聞かせたくない、プライベート極まる音源も用意しておくのもいいだろう。こちらはつい赤面してしまうかもしれないが、せいぜい2秒間の羞恥プレイ。もともとの文脈を失ったまま、それは響くのだし(しかし、作り手はその文脈を知っていて、その残像を意識せざるを得ないのが、またファンタスティックなのである)。そのへんは、これからの課題っつうことで。

23.1.07

昨年末の横浜の悲劇以来、立ち直れないでいる。唯一の救いはうさぎちゃん。

週末のリーガ。三点取ってゼロ封で勝ったのに、ちっとも爽快な気分がしねえ。まったく連繋が出来てない。中盤がダメダメなんで、チャンス・メイクの機会が激減。それでも個人技あるから、少ないチャンスでも点が取れてる。そんなFCバルセロナの試合を見るのは、とてもさみしい心地がする。ここ二年くらい美しく奏でていたアンサンブルも、そろそろ終焉なのか。そんでもって、なぜかサビオラだけが調子ええですのん。

前半好調だったセビージャも、ちょっと苦しんでる。リーガ・エスパニョーラのおまじないはシーズンの半分しかもたないのか。01/02シーズンのレアル・ソシエダもそうだったなあと懐古モード。このときのレアル・ソシエダもシーズン前半は鬼のように強かった。コヴァチェヴィッチにニハト、シャビ・アロンソ、そしておいらの大好きなカルピン先生。今でも、奴らのことを考えると胸が熱くなる。あの美しすぎる連繋はなんだったのだろう。そして、後半期のおまじないが解けてからの、なんともいえぬ物悲しい試合展開よ。前半はウィーン・フィル、後半は日本フィル。そんな諸行無常のシーズンはえらく記憶に残る。

新加入のイグアインとガゴの動きが見たくて、レアル・マドリの試合を続けて観戦。ラウルの代わりとしてはイグアイン君は淡泊そうだし、ガゴちゃんはミス・パスが多い。まだまだですのう(と、隠れバルサ・ファンとしては一安心)。

19.1.07

北コリア、ちょっといい話。

金総書記が小沢征爾氏にラブコール
金正日、小沢征爾に平壌交響楽団の指揮を依頼していた

個人的に琴線に触れるええ話やったのに、小澤さん受けてくれないなんて残念やわあ。ま、これで北コリアも自前のオーケストラをまだ捨ててないことがよくわかって、少し安堵する。いまさら小澤を呼ぼうとする時点で終わってるじゃん、というややマニアックな視点はなしで。

オーケストラというものは、いかに優秀な人員を集めようと、給料を高くしようと、それでうまく機能するかといえば、そうでもないという面白いところがあって(サッカーとまるで同じだけど)、そのなかでも、北コリアのオーケストラは独特な地位にあるのは事実。非人道的な国だからこそ、さまざまな権利が制限されているこそ、彼らの音楽に対するパッションやアンサンブルに対する熱意は並々ならぬものがあり、そのあたりをわたしは高く評価していたことがあった。

ただ、それらの制限があまりにもキツくなったり、生活レベルが落ちまくると、さすがに技術的に不安な点が顔を覗かせる。昨年、このオーケストラが演奏したショスタコーヴィチの交響曲の新譜を聴いてみたのだけど(例によって録音年月日は不明)、弦は独特の潤った響きで聴かせるが、管セクションはボロボロだった記憶がある。

やはり、ここは小澤クラスの世界的トレーナーにしごいてもらわないと、という主席サマの判断は意外にも的確だったわけである。ついでに、来日公演かなんかやってもらって、オーチャードホールなんかで革命歌劇なんか上映しちゃって、右翼やら拉致被害者の支援団体なんかが押しかけ、総連のメンバーともみ合い、ホール内外は騒然。こんな光景が見たかったぜ。

14.1.07

納豆の恨み。


スーパーに行くと、納豆の在庫が見事に切れている。ここでこんな光景を見たのは初めてだ。二三日前にネットに、「ダイエットのために納豆の売り切れ続出」という記事があったのを思い出したのだが、ここまで悲惨な状態になっているとは想像できなかった。

一日に一度はこの食品を召しやがる自分にとって、これは由々しき問題である。一般人の生活が脅かされているのである! ダイエットへの憎しみがメラメラと燃え上がる。「趣味はダイエットです」なんて平気な顔してぬかす奴らの家に押しかけて、その贅肉を小突きながら説教してやりたくなる。オマエらのその理想主義は、その肉体よりもずっと醜いのだぞと。

最近はノロ・ウィルス・ダイエットというのも流行ったらしい。今のシーズンなら、冬山ビバーク・ダイエットかな。無添加シャーベット食い放題で、みるみる痩せる。痩せることはこんなに簡単なのに、なぜ納豆が狙われるのかと思うとはらわたが煮えくり返る。

納豆メーカーは、これで大儲けのチャンスなのかもしれないけれど、こういう一過性のものは、業界の体力を無くすだけだ。増産だ増産だとばかりに規模を拡大すると、ブームが過ぎれば、結局は無駄な投資になる。最近は企業もそんなにバカじゃないから、そんなブームに乗っかって、自らの寿命を縮めるようなことはないと思うのだけど。

これはクラシック音楽における「のだめ効果」と同じ。まあ、通常は当日券で余裕で入れるNHKホールのNHK交響楽団定期が満員札止めだったり、カルミナ四重奏団の新譜が売り切れ続出で手に入らず、オークションで五倍の値段が付く、なんて自体がまだ起きてないから、まだ安心だ。ただ、クラシック系の業界人はこういうブームに慣れてないのがちょっとだけ心配。

しばらくは、海外に行ったつもりで、納豆なしで過ごすことにする。

11.1.07

ときのたつのもはやいもの、で。

今年も残り355日ほどになってしまった。あわわと焦っても仕方ないので、ウルマンとゴルトシュミットを聴きながら昼寝。文字通り退廃の一日。

年賀状をいただいた方、どうもありがとうございました。返事も差し上げぬご無礼をお許し下さい。決してあなた方のことを失念してしまったわけではありませぬ。そこまではボケておりませぬ故。
と申しますのも、わたくしは、ここ10年以上、年中無休、徹頭徹尾、喪中でなのでございます。なんて言い訳する子は嫌いだわ。

ってなこと言ってる奴に限って、お年玉くじが当たっちゃったりするんだなあ。まあ、やはり10年くらいチェックもしたことがないのだけれど。

ともあれ、今年も残り短くなりましたが、よろしくお願いいたしますです。

9.1.07

成人式から美しい国へ

成人式がもはや1月15日ではないことを知ったのは去年の今頃だったなあと感慨にふけっておったところ。今年もマスコミは楽しそうに「成人式で大暴れ」みたいな報道をしている。でも、このニュース・バリューって「世界のおもしろ映像」レベルにしか思えないのだが。まああと三年もたずに誰もニュースにしなくなるだろう。

だいたい、成人式は大暴れするもんに決まっとる。お祭りじゃもの。「みすぼらしい手製の爆弾で会場を爆砕。間違えて自分も爆砕」、これくらい盛大にやってもらわんと、通過儀礼の名が泣くわ。

成人式は昔でいう「元服」だから、もっと厳かなもの、なんていうことをぬかす奴もおる。そもそも「元服」なんぞ、国民の何%が必要としたものか、おのれの系図引っ張り出して考えてみやがれ、この百姓の子孫めらが。

なんていう、百姓が武家のモノマネをさせられることに対する憤慨ないし居心地の悪さというものも、成人式の騒動につながっているのではないかと。だいたいみんな押し黙って、お偉方の無意味な話を聞くなんて「無駄」な文化は庶民にはありませんから。

だから、せめて成人式ぐらい無礼講にしなさいな。それで目に余るなら、特例でボンボン逮捕しておしまいなさい。これも立派な通過儀礼。みんなで仲良く捕まれば、楽しそうじゃん。おまけにしばらく豚箱で反省の日々を送らせるのも、「熱狂」から「冷却」をたどらせることで、すばらしく忘れがたい儀式になる。きっと、おいらみたいに国家にたてついてやろうというヒネくれた人間にはならぬはず。「美しい国」がどんどん近くなる。

31.12.06

とういわけで川島素晴個展

わが人生の曲がり角には、いつも川島素晴の作品がある。だからということでもないけれど、28日もアンサンブル・ボワ演奏会「川島素晴個展」を聴きに、すみだトリフォニーまで行く。

「Let's tri___!」や「ポリスマン/トランポリン」など、ほとんどシャレで作ったとしか思えないフォルムを持ちつつも、その言葉の意味する範囲を超えて快楽的な楽興をもたらす作品をのんびりと堪能できたのが良かった。

最近は、川島さん自身のアクションぶりも板に付いてきたというか、役者(芸人?)になってきたというか、以前のヤバそうな人特有の雰囲気が無くなってきたようにも感じる。これは悦ばしいことなのか、残念なことなのか、いまだ自分には判断がつかない。

これは演奏に関しても同じ。川島作品の第一世代の演奏家、道元さんとか神田さんとかに比べると、若い演奏家たちのアンサンブル・ボワは、妙にリラックスした雰囲気で聴かせてくれる。第一世代の演奏家たちは、舞台ではニコリともせず、ピリピリと互いの距離を測りながら、怪しげなことをやらかしていた。それが、また妙におかしかったわけだが。

アンサンブル・ボワの予定を見ると、3月に微分音特集があるらしくて、会場でウククと唸ってしまった。しかし、よく見ると、2008年。ぐわ。来年じゃないのかあ。だから、2008年までは生きていようと思った。

25.12.06

カーゲルくん75ちゃい。

昨日はマウリツィオ・カーゲル生誕75周年の記念日だったのでありました。
んでもって、こういう日こそ、記念演奏会があったのではと思って、コンサート情報をチェックしたがまったくござらん。第9とメサイアとクリスマス・コンサートばっかし。お客をなめんなよ。ま、あったらあったで、行けなかったことを深く後悔しちゃいそうなのでいいや。

そういえば、カーゲルには、自分の誕生日にまつわる《1931年12月24日》(...den 24.xii.1931 )という曲があったわな。バリトンと室内アンサンブルのための作品で、この日付の新聞に載っている事件や広告が歌詞として歌われてる。

その内容は、ブエノスアイレスでのクーデターとか、関東軍の欽州攻撃の際の司令官本庄繁のコメント、ローマの図書館で屋根が落ちてきて5人死んだという記事、煙草「パロール」の宣伝文句など。
ファシズムに進んでいく世界情勢が反映され、いつもの猥雑サウンドに失笑しつつも、ドンヨリ不安になる作品なんである。ただし、最後にアホのように打ち鳴らされるクリスマスを告げる鐘がこれまでの暗さを吹き飛ばすように、癒してくれるのがたまらんのですわ。一頃は、チャリンコに乗りながら、「パロール」の部分を歌ってたなあ(愛国者はパロールしか吸わない。6ペニヒ。マイルドでアロマティッシュ!)。

図書館で屋根が落ちてくる部分では、消防用サイレンがけたたましく鳴らされる。こういうサウンドが用いられるということは、ちょうどこの年に作曲されたヴァレーズの《イオニザシオン》と関連があるのかしらん。

こういう曲は、知らぬ顔してクリスマス・コンサートと銘打ったイベントで堂々とやればいいのである。ちゃあんとクリスマス関係の作品なんだから問題ない。日本にはうってつけのバリトン歌手松平敬氏もいるし。コンサートのアンコールは、シュニトケの《清しこの夜》で、オレ狂喜。

15.8.06

コーカサスは腹に来る。

先週土曜日。アテネ・フランセでアルメニア映画祭をやっている。パラジャーノフの「ざくろの色」をスクリーンで見たいなと思いつつも、家のなかでグズグスしてたら、雨がざばざばと降ってきよったので、ほうほうと雨見物。

結局、その日は最終上演のハルチュン・ハチャトゥリアン監督の「約束の地への帰還」だけを見る。災害や紛争によって、新しい土地への移住を余儀なくされた家族をドキュメンタリーっぽく描いた作品。セリフもなく、淡々と描き切るっていう、わたくし好みのまったりテイストだったにも関らず、直前に大メシ食らったせいか、眠気に誘われる。まったり系を極めるには、厳格なる体調管理が必要だと改めて痛感。

家に帰ってきて、本日見逃した「ざくろの色」が無性に見たくなり、ビデオを引っ張り出して、鑑賞。この映画、もう10回以上は見直しているけど、見るたびにドキドキしちまう。モダニズムと民族色の際どい融合。一つ一つのシーンがやったらと濃い。

翌日は、ふらふらと三百人劇場のソヴィエト映画祭へ。この日は、パラジャーノフの「火の馬」が上演される。十五年くらい前に見たときにゃ、ほかのパラジャーノフ作品のインパクトの強さにあてられて、ストーリーさえ覚えていなかったのだけど、やはりこの作品もかなり濃厚路線。こちらは、モダニズムと情感の際どい融合といった感じか。

そのあと、ノリでゲオルギー・シェンゲラーヤの「ピロスマ二」と「若き作曲家の旅」を続けて見る。このグルジア人監督の作品を見るのは初めてなのだが、ストーリーはシンプルながら個々のシーンの構成がむんむんと香しい。なによりも、トビリシの裏路地や荒れ果てた屋敷が、魅力的に描かれているのに心を奪われた。

結局、二日間でアルメニアとグルジア関連の映画を6本見た。
帰宅して、腹痛にあえぐ。帰り際に食った千石自慢ラーメンのスープを全部たいらげてしまったのが良くなかったか。前は全然平気だったのに、自分は胃だけは丈夫だったはずなのに、年を取りすぎてしまったのか。ぐすん。いやいや、これはアルメニアとかグルジアの映画を見まくったことも一つの原因なのかもしれん。一つひとつのシーンが濃いんだもん。以前、アルメニアを訪れたとき、ピアニストのK氏が地元の名物料理をさんざ食べたおかげで、ひどい下痢に悩まされてたのをふと思い出した(氏はそういう状態で、チェクナボリアンの協奏曲を見事に弾き切った。終演後トイレに籠もっていたが)。コーカサスは腹にガツンと来る。

2時間ばかりぐったりしてたが、おもむろにアイス食いたい欲望がむらむらと沸いてきて、黒糖モナカなる商品をバリバリと食ったら、腹痛は完治。甘いモノは美しい。

30.7.06

食う・綯う蚊

ここ二三年くらい、蚊の食いつきが悪かった。複数人でヤブのなかに入っても、自分だけ蚊に刺されることがない、という状態が続いたのである。蚊も見向きしないような血質になってしまったか、それとも二酸化炭素の排出が鈍くなったかして、新陳代謝に支障を生じておるのではないか、などと心配しつつも、カユイカユイ思いをしなくて済むのはなんて愉快なことなんだ、人生はかくのごとく美しい、などと心のなかでほくそ笑んでいたのであった。

しかし、今年は何たるザマだ。先月、小石川植物園の樹木地帯で、一度に10匹くらいの蚊に集中攻撃された。それからも、少しヤブっぽい場所では、必ずや蚊に血を抜き取られるのであった。群がったこいつらに一度にざっくりやられると、ああ、オレにも人間の血が戻ってきたのだ、蚊にも欲望されるようなまっとうな血が、なんて阿呆な思いがアタマを一瞬過ぎりながらも、目がかすんでしまうくらいカユイカユイなのである。

だから、東京国立博物館の庭園で行われたク・ナウカの芝居「トリスタンとイゾルデ」を見に行こうぜ、と誘われたときは、一瞬たじろいだ。いかにも蚊がわんさといそうなところじゃねえか(というより、チケット代6000円という金額にたじろいだのだが、血は金なりという箴言にあるように、両者にはそう違いはない、ってことにしとく)。しかし、ク・ナウカの公演をナマで観たことがこれまでなかったし、「トリスタンとイゾルデ」というベタベタな話をどうやるのか興味があったし、夏の夜の庭園ってのも、げにげに風流かなと思って出かけることにしたのだった。

舞台は、橋掛、地謡座などを設け、能の様式を摸したもの。同行のO氏によれば、青山円形劇場での初演ではそうした趣向はなかったというから、今回は「薪能」のように見せたかったのだろう。事実、舞台の奥には、広大な庭園が場面に合わせて照明でうっすらと映し出され、その空間感覚がえらく気持ち良かったのだった。ただし、ク・ナウカの役者の動かし方は、歌舞伎を思わせる。この歌舞伎的耽美と、能的空間性がごっちゃになって、何やら怪しげに劇は進む。

初演では、トリスタンが三島由紀夫、マルケ王が昭和天皇、のような読み替えが明瞭だったらしいが、今回はそこまで強調されず。あくまでも、幻想は幻想のうちに留める。その中途半端さが、夏の戸外での公演にふさわしかったのかもしれない。

さて、わたくしは、開演前に肌身をさらす部分に念入りに虫除けクリームを塗りたくっておったので、今回は蚊からの攻撃は皆無なのだった。さすが、クスリは効くもんだぜ(っていうストーリーだったよな、このお話は)。舞台上では媚薬でクラクラしている二人を見ながら、こっちはカユイカユイでは、まったくどうしようもないし

17.7.06

かつて見せ物小屋だったもの

先週土曜、靖国神社みたま祭りの見せ物小屋に「新・蛇女」が登場したというので、出かけてみる。
じつは、わたくし、先代の蛇女を見逃してしまった人間である。さる友人が、「わたしの青春は見せ物小屋で培われた」とばかり、蛇女の素晴らしさについて目をキラキラさせながら語っていたり、また別の友人がこの見せ物屋で呼び込みのバイトをしたときに、「キミも蛇を食わないか」と薦められたが出来なかったなどという話を聞いているうちに、「新しい蛇女とは、いかなるものなのか」という興味が芽生えてきたのである。

見せ物小屋とは、もっとおどろおどろしいものかと思っていたが、そんな面はまるで感じさせない。これも今年からの新演出だから、ということらしい。次第に、寺山修司のノリを薄めたような三流芝居を見ているような気がしてムズムズしてくる。見事なまでに、ダルい。いや、これはすべて「かつて見せ物小屋だったもの」のパロディなのだ。

舞台上の男が、気だるそうに双頭奇形児のデス・モデルを取り出す。こういうのも、まさに見せ物小屋の定番だった。しかし、この男は、それを観客に示しながら、「こういうものを見せるのも、最近では人権が問題になって」なんて言っちゃってる。いやいや、見せ物小屋とは不具者にあえてスポットをあてることで、人間や社会そのものの存在を疑ってみる格好の教育的機会のわけなのだが、それも空振り気味。やはりパロディなのか。

いよいよ新・蛇女の小雪さんが登場。しかし、この蛇女もフツーのねえちゃんが、罰ゲームで蛇かじってみました、というノリ。そこにドロドロとした凄みはまるでない。何よりも、照明が平板で、まるで深夜番組のように、あっけらかーんとしている。すべてが平板で、パロディ。

闇はだんだんと消されていく。闇がなければ、光だって存在せぬ。欲望が分散化してしまった時代には、こういう方法しか残されていないのだろうか? そう思えば、ずいぶんと興味深い見せ物だったけれども。

30.6.06

なにゆえプートガァーがあたくしをドキドキさせるのか。

代表の国際試合といえば、ポルトガル代表がどういう出来なのか、今回はどこまで勝ち上がってくれるのか、そして、どのような悲しい負け方をするのだろうか、そんなことが気になって仕方がないのである。

これまでのポルトガルの試合は、華麗でロマンティックだったのだが、試合ではなかなか勝ち進めない、そういうリアリズムに欠けているといわれた。

しかし、今年のワールドカップに出場しているポルトガルはちと違うのである。妙に手堅い。まず信じられないことに、守備が堅い。中盤の組織力も攻撃のためだけではなく、実にいいカバーリングを見せてくれる。そんでもって、ストライカーのパウレタは地味なことこの上ないが、リアリズムに徹して無言でゴールを決めてくれる。せいぜい、クリスティアーノ・ロナウドが、試合と関係なく遊び心たっぷりのボールタッチを見せてくれることが、いかにもなポルトガルらしさを残しているものの。しかし、こんなのポルトガルじゃないやい、と思う人もいるだろう。

しかし、わたしはこの現実主義に傾きつつあるポルトガルにドキドキしてしまうのだ。たとえば、「オレはロッカーになるんだ」と言い張っていた息子が、「やっぱ、オレ、オヤジの仕事を継ぐよ」としおらしい顔で言ってきた朝。今、まさにわたしはそういう気分なのである。子供なんていない自分が言うのも説得力に欠けようが。

ポルトガルとオランダの試合はすさまじかった。どんどん人がいなくなる。不利っぽい判定も続く。こういうパターンは、必ずやポルトガルは負ける。いつかどこかで見た風景なんだよね。ユーロ2000のフランス戦、117分(時間までちゃんと覚えている)よくわからないハンド判定でPKを決められ、延長ゴールデン・ゴール負け。ワールドカップ2002、勝たなければ敗退の韓国戦では、またもや退場者続出で自滅。ユーロ2004の決勝戦、もう負けないだろうと思われたギリシアに力負け。ポルトガルの敗退するところには、すがすがしくない、異様といっていいほどの悲しさが漂う。そういう悲劇が良く似合うチームだといっていい。

ちなみに、ポルトガル代表に退場者が少なくないのは、判定に恵まれないという理由だけではない。彼ら、実際にラフなプレーが多いのである。ポルトガル・リーグを見ればわかるのだが、けっこう激しくバシバシ削っり合ってる。一般的にはポルトガル=ビューティフルという構図がまかり通っているものの、それと同時にけっこう荒っぽいのである(だから、ポルトガル・リーグは意外につまらなかったりする)。

というわけで、今回のオランダ戦でも退場者が出たとき、そしてオランダがイケイケになって攻めてきたとき、またもやポルトガルの悲しみを伴う敗退がチラついたのはいうまでもない(これは多くのポルトガル・サポーターも感じたに違いない)。ところが、今年のポルトガルは一点を守り抜いて、勝ってしまった。すげえ。親父号泣。さすがおいらの息子だっぺよ。

そんな試合を見てしまったら、次のイングランド戦、けっこうイケるんじゃないの、という気もしてくる。デコとコスティーニャが出場停止。ロナウドもケガっぽい。それでも、こんなリアリズムをもって試合をしているポルトガルが、連繋ゼロのイングランドに負ける気がしないのである。と、ここまで期待させつつ、ありゃまあ、コロっと負けてしまい、あわれな姿をさらすのも、またポルトガルらしいといえば、そうなんだけど。

23.6.06

日本の裏番組はオモロイ

日本とブラジル戦は後半20分くらいから、まったりモードに入ってしまった。前半は緊迫感あって面白かったけどね。まあ、前の試合まで不調だったデブにロスタイムに決められたんじゃあ、フツー立ち直れないわな。フレッジ様の登場もなさげだったし。そこで、裏番組のオーストラリア対クロアチア戦を見ることにした。

んで、これが異様にオモロイ。四年前の日本対チュニジアの裏番組、ロシア対ベルギーも、個人的には大会ベスト・ゲームの一つだった(ほとんど誰も見てないので、話が合う人がいない)。まあ、勝利でグループ抜けがかかる試合だけに、ガチンコになってしまっただけともいえるけど。

一点ビハインドのオーストラリア、ヒディングが相も変わらずディフェンスをアタッカーに代える交代を繰り返しまくって、最後は5トップというとんでもない布陣にするかと思えば、クロアチアにもストライカーになってしまったトゥドールに絶好のチャンスが訪れるは、乱れまくりの肉弾戦、両チームのセンターバックが退場になり、しかも二枚イエローもらってるのに審判が退場させるのを忘れてプレーを続けているクロアチアのシムニッチは(彼がゴールを決めたらどうなったんだろうとドキドキした)終了間際に三枚目のイエローを貰ってしまうは、最後は中盤省略のロングボール合戦になってしまうは、で妙にアツい試合に目が潤んでしまったのでありました。

これで負けてしまったクロアチアのショックは日本よりも大きいだろうな。日本戦も勝てたと思ってたろうし。でも、最終戦でここまで、ハチャメチャ、ガチンコでやってくれれば、負けてもスッキリしたのかもしれん。

したたかに満足して(本当はクロアチアに勝って欲しかったけど)、チャンネルをもとに戻すと、中田ヒデがピッチの上でほろほろと泣いておる。中田中心のチームが作れていたら、すべてが円滑だったろうに。などと思うと少し悲しくなる。

22.6.06

報道できぬもの

都合の悪いことは報道しないのは、北朝鮮ならずとも世界共通なんだが、日本のメディアはいったい何を報道しないのか。今回のようなワールドカップを見ていると、それがよくわかちゃったりしますわな。

フランス—韓国戦の、フランスのまぼろしのゴールは、あからさまにゴール・ラインを割っていたし、ブラジル—オーストラリア戦の、ロナウジーニョからロナウドに渡ったパス(そのあとにアドリアーノに渡り、ブラジルの一点目につながる)はオフサイドだった。こういう誤審はよくあるもんじゃいな。むろん、映像で見ないと、正しい判定ができないこともある。しかし、日本のメディアで、これを「審判の誤り」と報道したところはないんですよなあ。そう、この国では、「審判は間違えないもの」として定義されているらしいのだ。

それはJリーグの中継を見てもわかる。海外のメディアが、ハンドやオフサイドの疑惑シーンを徹底的、ときにはイヤミったらしく繰り返し流すのに比べ、日本の放送局が撮影、中継したものは、ほとんどこれに触れない。せいぜい「微妙な判定でしたね。ヌホホ」と流す程度。そこには、審判が判定したものは絶対で、それが表向きは間違ってはいけないという不文律があるようにも思えてくる。それは、一神教の文化を生半可のままに輸入した明治以来の伝統かもしれぬ。

審判も人間だから間違う。そのような間違いがあるから、サッカーという競技はけっこう面白くなる。たとえ試合に負けても、「オレだのチームが弱ぐないべ。あのクソ審判のしぇいだべず」と責任をなすりつけることもできる。こんなふうにして、完全なる強者、完全なる弱者を作らないところが、いかにもリアルに出来ている(そして、リアルすぎるので、夢見るアメリカ人にはサッカーが人気がない)。

そいえば、4年前のワールドカップでも、誤審が連続して起こったが、メディアはFIFAが「誤審がありました」と認めるまで、一切それを報道しなかった。映像を見れば誰にもわかることをあえて無視したっちゅうわけ。これは日本のメディアの体質だろうねえ。つまり、日本の報道は、明治以来、上意下達が基本だということ。お上が発表したものを、そのまま報道するだけの機関がマスコミってこと。

極論するなら、目の前で家が豪勢に燃えていても、消防庁の発表があるまでは、それを火事とは報道できない、みたいなもん。だから、日本の新聞もテレビもどれをとってもみな同じ。記者クラブ発のネタばかり。でも、新聞の原稿料は高いから、オレだって新聞の悪口は言わない。言うわけがない。うんうん、みんな同じですばらしいじゃないかあ(絶賛)。

あとは、電通などの、大手広告代理店が絡んだネタはあまり報道されないわな。今回のワールドカップで、日本のグループリーグの二試合が15時開始だったのは、抽選でもなんでもなく、日本での視聴率を稼ぐために、電通が仕組んだことらしい。だから、ジーコが 「暑っついなかで再び試合をすることになったのは、まさに犯罪」と記者会見で不満を述べても、 それが日本のメディアに乗ることは、まずない。