10.2.07

今週のお出かけ日記。

今週行ったコンサートの感想など、何かメモ代わりに残しておかないと、揃ってすぽーんと忘れてしまいそうになるので、ちょこちょこと書いてみやがることにした(加齢したから忘れやすいのではなく、ガキの頃から記憶力がものすごく悪いのだと強弁もしたくなる最近37歳になった男)。

7日は門仲天井ホールで、ソフィー・マユコ・フェッターによるシュトックハウゼンの《シュピラール》を聴く。短波ラジオと器楽による作品なのだが、彼女の演奏のおかげで、この曲がどんなことをやっているのかがよくわかった。演奏直前にレクチャーがあったおかげもあるけれど、丹念に楽譜の指示に従った演奏であったことは間違いねえ。今日の演奏を聴くと、これまでの演奏家は、かなり好き放題やっていたんじゃないかというA立T美氏の意見に同感。まあ、作曲家の世代とも近く、しかも身内の演奏であれば、許されることだって多いはず。同時代の音楽とは、そういうものじゃし。

そういう音楽が、譜面というメディアだけを頼りに演奏をしなくてはならなくなる。説明など不要だったボンヤリとした時代性が失われ、作品そのもののコンセプトを鋭敏に伝えることが演奏者の責務となる(同時に、コンセプトの解釈の自由さも生まれる)。シュトックハウゼンにも、そういう時代がやって来ている。もちろん、それはマユコ・フェッターという生真面目&お茶目そうなピアニストの取り組み方にもよるものだろうけれど。

この古典になった明晰なシュトックハウゼンは、とても心地よいものだった。曖昧な時代性を押しつけられるのではなく、作品そのものをぐいぐいと聴かせてやるぜというパワーがこのピアニストにはあった。今回は抜粋だけど、彼女の演奏で全曲二時間たっぷり楽しみたいもの。帰り際、会場の後方に設置されていた閲覧用楽譜のコピーを、おばさんが何枚かごっそりと持ち帰るのを見た。しかも、くちゃくちゃと折ってカバンのなかに突っ込んでいたし。豪族めが、やってくれますなあ。

9日は、大田区民ホール・アプリコにあぶらだこ、いや、レ・ヴァン・フランセを聴きに行く。あたくしと同じ日に37歳を迎えたフルートのパユ、オーボエのルルーや、クラリネットのメイエ、ピアノのルサージュなど超豪華、おフランスなアンサンブルである。

ケージの五重奏はケージらしくもないせわしない初期作品だったし、ハイドンやベートーヴェンは、お綺麗でお上手なんだけど、何かそれだけって感じ。エスケシュのフランセへのオマージュ作品は、響きの巧みさには惹かれたけど、何といっても、プーランクの六重奏曲が、図抜けて光っていた。
なにしろ、お上手で多彩な音色を持っているけれど作品に何の共感もないパユのフルートが、それゆえに、プーランクにはハマりまくるのである。メイエのぬぼーとしたクラリネットが、思索深けに聴こえてしまうのである。おかげで、プーランクのシニカルな叙情性がぐわんと浮かび上がって、実に愉快愉快。もう踊り出したくもなる。アンコールのルーセルもなかなか。やはり、この人たちはフランス近代モノをやっておれば、もう最高なんだす。

昔、ベルリン・フィルがブルックナーを演奏したとき、首席奏者のパユがソロをあまりにも華麗で外連味タップリに弾くもんだから、客席から舞台に登って奴の首を絞めてやりたいと思ったことがあった。てめえがうめえのは充分わかるけど、作品の全体性をちっとは考えろと。オマエさんのスルーパスには他の奏者の誰もが反応できねえぞと。そう、こんときも、彼はブルックナーじゃなくて、プーランクを吹いてたわけだね。すげえといえば、すげえ。ギュンター・ヴァント大先生の棒の下でそんなことできるんだもん。

演奏終了後、サイン会の行列の長さに仰天。ホールを出て三分も歩かぬうちに「キャバクラいかがっすか」と何人もの呼び込みに囲まれる。さすが、ここは蒲田。やるじゃねえか。

そんな蒲田の翌日である今日は、紀尾井ホールにのこのこ出かける。お目当てはポッペン指揮の紀尾井シンフォニエッタ。しかし、当日券が出てくれない。開演時間まで粘ったのだけど、このホールには知り合いもいないから、「何とか入れてくだちゃいよー。一日レセプショニストするからさ。終演後は便所掃除して帰るからさ。なんなら、演奏中は罰として逆立ちしながら聴いたっていいんだぜ」というゴネゴネ戦法さえも使えない。

すごすごと退散。ことごとくポッペンには縁がない。当日券でもなんとか入れるんじゃねえかなどという、世の中をナメきった自分の態度を悔やむ。万事、こういうのがいつもの失敗の原因なんだあと気分がひたすら降下する。

そんなわけで、気分を盛り上げるためにも、今晩から伊豆大島に行っちょくる。明日は念願の裏砂漠ダウンヒルだぴょん。けけけ。仕事しろっつーの。