先日、友人と会うために調布まで行った。神田川、仙川沿いに自転車を走らせる。ルートの半分以上は河川脇の車が入れない道。思い切って音楽をかけながら行く。
といっても、ヘッドホンなどで耳をふさぎながら車両を運転するのは法律で禁じらてれおるし、実際に危険きわまりない。自転車は五感を働かせて乗らなければ意味がないのである。そこで、デイパックの肩のところにスピーカーが仕込まれている製品(アンプ内蔵で商品化されてるのです)を背負って行く。これなら、外界の音を塞がずに済む。
こういうときに聴く音楽は、あまり集中を促すようなものであってはならない。用意したのは、0.5秒から2秒くらいの単位で切り取った音声ファイルを数多く作り、それをメモリー・プレイヤーでシャッフル再生するコラージュである。
そういうインチキくさいコラージュは、カセットテープで昔はよく作っていたもんだ。調を合わせたり、リズムを整えたり崩したり、そのコントラストを考えたりと、いかにうまく繋ぐかということに心血を注ぐあまり、半日で1分くらいの分量しか作れなかったりする。しかも、時間がかかるわりには、凡庸なものしか出来なかったりする。作曲というものも、同じようなものなのかもしれないが、こういうものはちょっとセンスが良くないと話にならぬのである。
しかし、自分のような最悪なセンスの持ち主でも、偶然性を利用すれば、とてもすばらしいものが出来る可能性もある。ということで、「繋ぎ」は機械にまかせてしまえばいいのだ。
素材は、iTunesに眠る音源を総動員ってことになる。それこそ、雑多な素材をできるだけ沢山作っておく。音量は一定になるように調整しておけば心地よい。あとはそれをシャッフル再生するだけだ。うまく繋がったときは、「ナイス・パス!」と声をかけてやると、自ずと気分が盛り上がる。
交差点などで止まったときは、指向性の強いスピーカーとはいえ、音量によってはオープンカーのカーステレオ状態になるので、近くにいる歩行者にその音楽を聴かれてしまう可能性がある。そういうときに限って、足立智美の絶叫ファイルが再生されたりして、「なんだなんだ」と彼らがとまどう様子を見るのも、なんとも微笑ましい。ちょうど杉並区の交差点で止まったとき、周囲に「杉並のショーコ〜」と麻原彰晃の声が響き渡り、名状しがたく気まずい雰囲気になってしまったのも、また痺れる心地。
できれば他人に聞かせたくない、プライベート極まる音源も用意しておくのもいいだろう。こちらはつい赤面してしまうかもしれないが、せいぜい2秒間の羞恥プレイ。もともとの文脈を失ったまま、それは響くのだし(しかし、作り手はその文脈を知っていて、その残像を意識せざるを得ないのが、またファンタスティックなのである)。そのへんは、これからの課題っつうことで。