26.1.07

バラバラにすること。統合すること。

先日、友人と会うために調布まで行った。神田川、仙川沿いに自転車を走らせる。ルートの半分以上は河川脇の車が入れない道。思い切って音楽をかけながら行く。

といっても、ヘッドホンなどで耳をふさぎながら車両を運転するのは法律で禁じらてれおるし、実際に危険きわまりない。自転車は五感を働かせて乗らなければ意味がないのである。そこで、デイパックの肩のところにスピーカーが仕込まれている製品(アンプ内蔵で商品化されてるのです)を背負って行く。これなら、外界の音を塞がずに済む。

こういうときに聴く音楽は、あまり集中を促すようなものであってはならない。用意したのは、0.5秒から2秒くらいの単位で切り取った音声ファイルを数多く作り、それをメモリー・プレイヤーでシャッフル再生するコラージュである。

そういうインチキくさいコラージュは、カセットテープで昔はよく作っていたもんだ。調を合わせたり、リズムを整えたり崩したり、そのコントラストを考えたりと、いかにうまく繋ぐかということに心血を注ぐあまり、半日で1分くらいの分量しか作れなかったりする。しかも、時間がかかるわりには、凡庸なものしか出来なかったりする。作曲というものも、同じようなものなのかもしれないが、こういうものはちょっとセンスが良くないと話にならぬのである。

しかし、自分のような最悪なセンスの持ち主でも、偶然性を利用すれば、とてもすばらしいものが出来る可能性もある。ということで、「繋ぎ」は機械にまかせてしまえばいいのだ。

素材は、iTunesに眠る音源を総動員ってことになる。それこそ、雑多な素材をできるだけ沢山作っておく。音量は一定になるように調整しておけば心地よい。あとはそれをシャッフル再生するだけだ。うまく繋がったときは、「ナイス・パス!」と声をかけてやると、自ずと気分が盛り上がる。

交差点などで止まったときは、指向性の強いスピーカーとはいえ、音量によってはオープンカーのカーステレオ状態になるので、近くにいる歩行者にその音楽を聴かれてしまう可能性がある。そういうときに限って、足立智美の絶叫ファイルが再生されたりして、「なんだなんだ」と彼らがとまどう様子を見るのも、なんとも微笑ましい。ちょうど杉並区の交差点で止まったとき、周囲に「杉並のショーコ〜」と麻原彰晃の声が響き渡り、名状しがたく気まずい雰囲気になってしまったのも、また痺れる心地。

できれば他人に聞かせたくない、プライベート極まる音源も用意しておくのもいいだろう。こちらはつい赤面してしまうかもしれないが、せいぜい2秒間の羞恥プレイ。もともとの文脈を失ったまま、それは響くのだし(しかし、作り手はその文脈を知っていて、その残像を意識せざるを得ないのが、またファンタスティックなのである)。そのへんは、これからの課題っつうことで。

23.1.07

昨年末の横浜の悲劇以来、立ち直れないでいる。唯一の救いはうさぎちゃん。

週末のリーガ。三点取ってゼロ封で勝ったのに、ちっとも爽快な気分がしねえ。まったく連繋が出来てない。中盤がダメダメなんで、チャンス・メイクの機会が激減。それでも個人技あるから、少ないチャンスでも点が取れてる。そんなFCバルセロナの試合を見るのは、とてもさみしい心地がする。ここ二年くらい美しく奏でていたアンサンブルも、そろそろ終焉なのか。そんでもって、なぜかサビオラだけが調子ええですのん。

前半好調だったセビージャも、ちょっと苦しんでる。リーガ・エスパニョーラのおまじないはシーズンの半分しかもたないのか。01/02シーズンのレアル・ソシエダもそうだったなあと懐古モード。このときのレアル・ソシエダもシーズン前半は鬼のように強かった。コヴァチェヴィッチにニハト、シャビ・アロンソ、そしておいらの大好きなカルピン先生。今でも、奴らのことを考えると胸が熱くなる。あの美しすぎる連繋はなんだったのだろう。そして、後半期のおまじないが解けてからの、なんともいえぬ物悲しい試合展開よ。前半はウィーン・フィル、後半は日本フィル。そんな諸行無常のシーズンはえらく記憶に残る。

新加入のイグアインとガゴの動きが見たくて、レアル・マドリの試合を続けて観戦。ラウルの代わりとしてはイグアイン君は淡泊そうだし、ガゴちゃんはミス・パスが多い。まだまだですのう(と、隠れバルサ・ファンとしては一安心)。

19.1.07

北コリア、ちょっといい話。

金総書記が小沢征爾氏にラブコール
金正日、小沢征爾に平壌交響楽団の指揮を依頼していた

個人的に琴線に触れるええ話やったのに、小澤さん受けてくれないなんて残念やわあ。ま、これで北コリアも自前のオーケストラをまだ捨ててないことがよくわかって、少し安堵する。いまさら小澤を呼ぼうとする時点で終わってるじゃん、というややマニアックな視点はなしで。

オーケストラというものは、いかに優秀な人員を集めようと、給料を高くしようと、それでうまく機能するかといえば、そうでもないという面白いところがあって(サッカーとまるで同じだけど)、そのなかでも、北コリアのオーケストラは独特な地位にあるのは事実。非人道的な国だからこそ、さまざまな権利が制限されているこそ、彼らの音楽に対するパッションやアンサンブルに対する熱意は並々ならぬものがあり、そのあたりをわたしは高く評価していたことがあった。

ただ、それらの制限があまりにもキツくなったり、生活レベルが落ちまくると、さすがに技術的に不安な点が顔を覗かせる。昨年、このオーケストラが演奏したショスタコーヴィチの交響曲の新譜を聴いてみたのだけど(例によって録音年月日は不明)、弦は独特の潤った響きで聴かせるが、管セクションはボロボロだった記憶がある。

やはり、ここは小澤クラスの世界的トレーナーにしごいてもらわないと、という主席サマの判断は意外にも的確だったわけである。ついでに、来日公演かなんかやってもらって、オーチャードホールなんかで革命歌劇なんか上映しちゃって、右翼やら拉致被害者の支援団体なんかが押しかけ、総連のメンバーともみ合い、ホール内外は騒然。こんな光景が見たかったぜ。

14.1.07

納豆の恨み。


スーパーに行くと、納豆の在庫が見事に切れている。ここでこんな光景を見たのは初めてだ。二三日前にネットに、「ダイエットのために納豆の売り切れ続出」という記事があったのを思い出したのだが、ここまで悲惨な状態になっているとは想像できなかった。

一日に一度はこの食品を召しやがる自分にとって、これは由々しき問題である。一般人の生活が脅かされているのである! ダイエットへの憎しみがメラメラと燃え上がる。「趣味はダイエットです」なんて平気な顔してぬかす奴らの家に押しかけて、その贅肉を小突きながら説教してやりたくなる。オマエらのその理想主義は、その肉体よりもずっと醜いのだぞと。

最近はノロ・ウィルス・ダイエットというのも流行ったらしい。今のシーズンなら、冬山ビバーク・ダイエットかな。無添加シャーベット食い放題で、みるみる痩せる。痩せることはこんなに簡単なのに、なぜ納豆が狙われるのかと思うとはらわたが煮えくり返る。

納豆メーカーは、これで大儲けのチャンスなのかもしれないけれど、こういう一過性のものは、業界の体力を無くすだけだ。増産だ増産だとばかりに規模を拡大すると、ブームが過ぎれば、結局は無駄な投資になる。最近は企業もそんなにバカじゃないから、そんなブームに乗っかって、自らの寿命を縮めるようなことはないと思うのだけど。

これはクラシック音楽における「のだめ効果」と同じ。まあ、通常は当日券で余裕で入れるNHKホールのNHK交響楽団定期が満員札止めだったり、カルミナ四重奏団の新譜が売り切れ続出で手に入らず、オークションで五倍の値段が付く、なんて自体がまだ起きてないから、まだ安心だ。ただ、クラシック系の業界人はこういうブームに慣れてないのがちょっとだけ心配。

しばらくは、海外に行ったつもりで、納豆なしで過ごすことにする。

11.1.07

ときのたつのもはやいもの、で。

今年も残り355日ほどになってしまった。あわわと焦っても仕方ないので、ウルマンとゴルトシュミットを聴きながら昼寝。文字通り退廃の一日。

年賀状をいただいた方、どうもありがとうございました。返事も差し上げぬご無礼をお許し下さい。決してあなた方のことを失念してしまったわけではありませぬ。そこまではボケておりませぬ故。
と申しますのも、わたくしは、ここ10年以上、年中無休、徹頭徹尾、喪中でなのでございます。なんて言い訳する子は嫌いだわ。

ってなこと言ってる奴に限って、お年玉くじが当たっちゃったりするんだなあ。まあ、やはり10年くらいチェックもしたことがないのだけれど。

ともあれ、今年も残り短くなりましたが、よろしくお願いいたしますです。

9.1.07

成人式から美しい国へ

成人式がもはや1月15日ではないことを知ったのは去年の今頃だったなあと感慨にふけっておったところ。今年もマスコミは楽しそうに「成人式で大暴れ」みたいな報道をしている。でも、このニュース・バリューって「世界のおもしろ映像」レベルにしか思えないのだが。まああと三年もたずに誰もニュースにしなくなるだろう。

だいたい、成人式は大暴れするもんに決まっとる。お祭りじゃもの。「みすぼらしい手製の爆弾で会場を爆砕。間違えて自分も爆砕」、これくらい盛大にやってもらわんと、通過儀礼の名が泣くわ。

成人式は昔でいう「元服」だから、もっと厳かなもの、なんていうことをぬかす奴もおる。そもそも「元服」なんぞ、国民の何%が必要としたものか、おのれの系図引っ張り出して考えてみやがれ、この百姓の子孫めらが。

なんていう、百姓が武家のモノマネをさせられることに対する憤慨ないし居心地の悪さというものも、成人式の騒動につながっているのではないかと。だいたいみんな押し黙って、お偉方の無意味な話を聞くなんて「無駄」な文化は庶民にはありませんから。

だから、せめて成人式ぐらい無礼講にしなさいな。それで目に余るなら、特例でボンボン逮捕しておしまいなさい。これも立派な通過儀礼。みんなで仲良く捕まれば、楽しそうじゃん。おまけにしばらく豚箱で反省の日々を送らせるのも、「熱狂」から「冷却」をたどらせることで、すばらしく忘れがたい儀式になる。きっと、おいらみたいに国家にたてついてやろうというヒネくれた人間にはならぬはず。「美しい国」がどんどん近くなる。

31.12.06

とういわけで川島素晴個展

わが人生の曲がり角には、いつも川島素晴の作品がある。だからということでもないけれど、28日もアンサンブル・ボワ演奏会「川島素晴個展」を聴きに、すみだトリフォニーまで行く。

「Let's tri___!」や「ポリスマン/トランポリン」など、ほとんどシャレで作ったとしか思えないフォルムを持ちつつも、その言葉の意味する範囲を超えて快楽的な楽興をもたらす作品をのんびりと堪能できたのが良かった。

最近は、川島さん自身のアクションぶりも板に付いてきたというか、役者(芸人?)になってきたというか、以前のヤバそうな人特有の雰囲気が無くなってきたようにも感じる。これは悦ばしいことなのか、残念なことなのか、いまだ自分には判断がつかない。

これは演奏に関しても同じ。川島作品の第一世代の演奏家、道元さんとか神田さんとかに比べると、若い演奏家たちのアンサンブル・ボワは、妙にリラックスした雰囲気で聴かせてくれる。第一世代の演奏家たちは、舞台ではニコリともせず、ピリピリと互いの距離を測りながら、怪しげなことをやらかしていた。それが、また妙におかしかったわけだが。

アンサンブル・ボワの予定を見ると、3月に微分音特集があるらしくて、会場でウククと唸ってしまった。しかし、よく見ると、2008年。ぐわ。来年じゃないのかあ。だから、2008年までは生きていようと思った。

25.12.06

カーゲルくん75ちゃい。

昨日はマウリツィオ・カーゲル生誕75周年の記念日だったのでありました。
んでもって、こういう日こそ、記念演奏会があったのではと思って、コンサート情報をチェックしたがまったくござらん。第9とメサイアとクリスマス・コンサートばっかし。お客をなめんなよ。ま、あったらあったで、行けなかったことを深く後悔しちゃいそうなのでいいや。

そういえば、カーゲルには、自分の誕生日にまつわる《1931年12月24日》(...den 24.xii.1931 )という曲があったわな。バリトンと室内アンサンブルのための作品で、この日付の新聞に載っている事件や広告が歌詞として歌われてる。

その内容は、ブエノスアイレスでのクーデターとか、関東軍の欽州攻撃の際の司令官本庄繁のコメント、ローマの図書館で屋根が落ちてきて5人死んだという記事、煙草「パロール」の宣伝文句など。
ファシズムに進んでいく世界情勢が反映され、いつもの猥雑サウンドに失笑しつつも、ドンヨリ不安になる作品なんである。ただし、最後にアホのように打ち鳴らされるクリスマスを告げる鐘がこれまでの暗さを吹き飛ばすように、癒してくれるのがたまらんのですわ。一頃は、チャリンコに乗りながら、「パロール」の部分を歌ってたなあ(愛国者はパロールしか吸わない。6ペニヒ。マイルドでアロマティッシュ!)。

図書館で屋根が落ちてくる部分では、消防用サイレンがけたたましく鳴らされる。こういうサウンドが用いられるということは、ちょうどこの年に作曲されたヴァレーズの《イオニザシオン》と関連があるのかしらん。

こういう曲は、知らぬ顔してクリスマス・コンサートと銘打ったイベントで堂々とやればいいのである。ちゃあんとクリスマス関係の作品なんだから問題ない。日本にはうってつけのバリトン歌手松平敬氏もいるし。コンサートのアンコールは、シュニトケの《清しこの夜》で、オレ狂喜。

15.8.06

コーカサスは腹に来る。

先週土曜日。アテネ・フランセでアルメニア映画祭をやっている。パラジャーノフの「ざくろの色」をスクリーンで見たいなと思いつつも、家のなかでグズグスしてたら、雨がざばざばと降ってきよったので、ほうほうと雨見物。

結局、その日は最終上演のハルチュン・ハチャトゥリアン監督の「約束の地への帰還」だけを見る。災害や紛争によって、新しい土地への移住を余儀なくされた家族をドキュメンタリーっぽく描いた作品。セリフもなく、淡々と描き切るっていう、わたくし好みのまったりテイストだったにも関らず、直前に大メシ食らったせいか、眠気に誘われる。まったり系を極めるには、厳格なる体調管理が必要だと改めて痛感。

家に帰ってきて、本日見逃した「ざくろの色」が無性に見たくなり、ビデオを引っ張り出して、鑑賞。この映画、もう10回以上は見直しているけど、見るたびにドキドキしちまう。モダニズムと民族色の際どい融合。一つ一つのシーンがやったらと濃い。

翌日は、ふらふらと三百人劇場のソヴィエト映画祭へ。この日は、パラジャーノフの「火の馬」が上演される。十五年くらい前に見たときにゃ、ほかのパラジャーノフ作品のインパクトの強さにあてられて、ストーリーさえ覚えていなかったのだけど、やはりこの作品もかなり濃厚路線。こちらは、モダニズムと情感の際どい融合といった感じか。

そのあと、ノリでゲオルギー・シェンゲラーヤの「ピロスマ二」と「若き作曲家の旅」を続けて見る。このグルジア人監督の作品を見るのは初めてなのだが、ストーリーはシンプルながら個々のシーンの構成がむんむんと香しい。なによりも、トビリシの裏路地や荒れ果てた屋敷が、魅力的に描かれているのに心を奪われた。

結局、二日間でアルメニアとグルジア関連の映画を6本見た。
帰宅して、腹痛にあえぐ。帰り際に食った千石自慢ラーメンのスープを全部たいらげてしまったのが良くなかったか。前は全然平気だったのに、自分は胃だけは丈夫だったはずなのに、年を取りすぎてしまったのか。ぐすん。いやいや、これはアルメニアとかグルジアの映画を見まくったことも一つの原因なのかもしれん。一つひとつのシーンが濃いんだもん。以前、アルメニアを訪れたとき、ピアニストのK氏が地元の名物料理をさんざ食べたおかげで、ひどい下痢に悩まされてたのをふと思い出した(氏はそういう状態で、チェクナボリアンの協奏曲を見事に弾き切った。終演後トイレに籠もっていたが)。コーカサスは腹にガツンと来る。

2時間ばかりぐったりしてたが、おもむろにアイス食いたい欲望がむらむらと沸いてきて、黒糖モナカなる商品をバリバリと食ったら、腹痛は完治。甘いモノは美しい。

30.7.06

食う・綯う蚊

ここ二三年くらい、蚊の食いつきが悪かった。複数人でヤブのなかに入っても、自分だけ蚊に刺されることがない、という状態が続いたのである。蚊も見向きしないような血質になってしまったか、それとも二酸化炭素の排出が鈍くなったかして、新陳代謝に支障を生じておるのではないか、などと心配しつつも、カユイカユイ思いをしなくて済むのはなんて愉快なことなんだ、人生はかくのごとく美しい、などと心のなかでほくそ笑んでいたのであった。

しかし、今年は何たるザマだ。先月、小石川植物園の樹木地帯で、一度に10匹くらいの蚊に集中攻撃された。それからも、少しヤブっぽい場所では、必ずや蚊に血を抜き取られるのであった。群がったこいつらに一度にざっくりやられると、ああ、オレにも人間の血が戻ってきたのだ、蚊にも欲望されるようなまっとうな血が、なんて阿呆な思いがアタマを一瞬過ぎりながらも、目がかすんでしまうくらいカユイカユイなのである。

だから、東京国立博物館の庭園で行われたク・ナウカの芝居「トリスタンとイゾルデ」を見に行こうぜ、と誘われたときは、一瞬たじろいだ。いかにも蚊がわんさといそうなところじゃねえか(というより、チケット代6000円という金額にたじろいだのだが、血は金なりという箴言にあるように、両者にはそう違いはない、ってことにしとく)。しかし、ク・ナウカの公演をナマで観たことがこれまでなかったし、「トリスタンとイゾルデ」というベタベタな話をどうやるのか興味があったし、夏の夜の庭園ってのも、げにげに風流かなと思って出かけることにしたのだった。

舞台は、橋掛、地謡座などを設け、能の様式を摸したもの。同行のO氏によれば、青山円形劇場での初演ではそうした趣向はなかったというから、今回は「薪能」のように見せたかったのだろう。事実、舞台の奥には、広大な庭園が場面に合わせて照明でうっすらと映し出され、その空間感覚がえらく気持ち良かったのだった。ただし、ク・ナウカの役者の動かし方は、歌舞伎を思わせる。この歌舞伎的耽美と、能的空間性がごっちゃになって、何やら怪しげに劇は進む。

初演では、トリスタンが三島由紀夫、マルケ王が昭和天皇、のような読み替えが明瞭だったらしいが、今回はそこまで強調されず。あくまでも、幻想は幻想のうちに留める。その中途半端さが、夏の戸外での公演にふさわしかったのかもしれない。

さて、わたくしは、開演前に肌身をさらす部分に念入りに虫除けクリームを塗りたくっておったので、今回は蚊からの攻撃は皆無なのだった。さすが、クスリは効くもんだぜ(っていうストーリーだったよな、このお話は)。舞台上では媚薬でクラクラしている二人を見ながら、こっちはカユイカユイでは、まったくどうしようもないし

17.7.06

かつて見せ物小屋だったもの

先週土曜、靖国神社みたま祭りの見せ物小屋に「新・蛇女」が登場したというので、出かけてみる。
じつは、わたくし、先代の蛇女を見逃してしまった人間である。さる友人が、「わたしの青春は見せ物小屋で培われた」とばかり、蛇女の素晴らしさについて目をキラキラさせながら語っていたり、また別の友人がこの見せ物屋で呼び込みのバイトをしたときに、「キミも蛇を食わないか」と薦められたが出来なかったなどという話を聞いているうちに、「新しい蛇女とは、いかなるものなのか」という興味が芽生えてきたのである。

見せ物小屋とは、もっとおどろおどろしいものかと思っていたが、そんな面はまるで感じさせない。これも今年からの新演出だから、ということらしい。次第に、寺山修司のノリを薄めたような三流芝居を見ているような気がしてムズムズしてくる。見事なまでに、ダルい。いや、これはすべて「かつて見せ物小屋だったもの」のパロディなのだ。

舞台上の男が、気だるそうに双頭奇形児のデス・モデルを取り出す。こういうのも、まさに見せ物小屋の定番だった。しかし、この男は、それを観客に示しながら、「こういうものを見せるのも、最近では人権が問題になって」なんて言っちゃってる。いやいや、見せ物小屋とは不具者にあえてスポットをあてることで、人間や社会そのものの存在を疑ってみる格好の教育的機会のわけなのだが、それも空振り気味。やはりパロディなのか。

いよいよ新・蛇女の小雪さんが登場。しかし、この蛇女もフツーのねえちゃんが、罰ゲームで蛇かじってみました、というノリ。そこにドロドロとした凄みはまるでない。何よりも、照明が平板で、まるで深夜番組のように、あっけらかーんとしている。すべてが平板で、パロディ。

闇はだんだんと消されていく。闇がなければ、光だって存在せぬ。欲望が分散化してしまった時代には、こういう方法しか残されていないのだろうか? そう思えば、ずいぶんと興味深い見せ物だったけれども。

30.6.06

なにゆえプートガァーがあたくしをドキドキさせるのか。

代表の国際試合といえば、ポルトガル代表がどういう出来なのか、今回はどこまで勝ち上がってくれるのか、そして、どのような悲しい負け方をするのだろうか、そんなことが気になって仕方がないのである。

これまでのポルトガルの試合は、華麗でロマンティックだったのだが、試合ではなかなか勝ち進めない、そういうリアリズムに欠けているといわれた。

しかし、今年のワールドカップに出場しているポルトガルはちと違うのである。妙に手堅い。まず信じられないことに、守備が堅い。中盤の組織力も攻撃のためだけではなく、実にいいカバーリングを見せてくれる。そんでもって、ストライカーのパウレタは地味なことこの上ないが、リアリズムに徹して無言でゴールを決めてくれる。せいぜい、クリスティアーノ・ロナウドが、試合と関係なく遊び心たっぷりのボールタッチを見せてくれることが、いかにもなポルトガルらしさを残しているものの。しかし、こんなのポルトガルじゃないやい、と思う人もいるだろう。

しかし、わたしはこの現実主義に傾きつつあるポルトガルにドキドキしてしまうのだ。たとえば、「オレはロッカーになるんだ」と言い張っていた息子が、「やっぱ、オレ、オヤジの仕事を継ぐよ」としおらしい顔で言ってきた朝。今、まさにわたしはそういう気分なのである。子供なんていない自分が言うのも説得力に欠けようが。

ポルトガルとオランダの試合はすさまじかった。どんどん人がいなくなる。不利っぽい判定も続く。こういうパターンは、必ずやポルトガルは負ける。いつかどこかで見た風景なんだよね。ユーロ2000のフランス戦、117分(時間までちゃんと覚えている)よくわからないハンド判定でPKを決められ、延長ゴールデン・ゴール負け。ワールドカップ2002、勝たなければ敗退の韓国戦では、またもや退場者続出で自滅。ユーロ2004の決勝戦、もう負けないだろうと思われたギリシアに力負け。ポルトガルの敗退するところには、すがすがしくない、異様といっていいほどの悲しさが漂う。そういう悲劇が良く似合うチームだといっていい。

ちなみに、ポルトガル代表に退場者が少なくないのは、判定に恵まれないという理由だけではない。彼ら、実際にラフなプレーが多いのである。ポルトガル・リーグを見ればわかるのだが、けっこう激しくバシバシ削っり合ってる。一般的にはポルトガル=ビューティフルという構図がまかり通っているものの、それと同時にけっこう荒っぽいのである(だから、ポルトガル・リーグは意外につまらなかったりする)。

というわけで、今回のオランダ戦でも退場者が出たとき、そしてオランダがイケイケになって攻めてきたとき、またもやポルトガルの悲しみを伴う敗退がチラついたのはいうまでもない(これは多くのポルトガル・サポーターも感じたに違いない)。ところが、今年のポルトガルは一点を守り抜いて、勝ってしまった。すげえ。親父号泣。さすがおいらの息子だっぺよ。

そんな試合を見てしまったら、次のイングランド戦、けっこうイケるんじゃないの、という気もしてくる。デコとコスティーニャが出場停止。ロナウドもケガっぽい。それでも、こんなリアリズムをもって試合をしているポルトガルが、連繋ゼロのイングランドに負ける気がしないのである。と、ここまで期待させつつ、ありゃまあ、コロっと負けてしまい、あわれな姿をさらすのも、またポルトガルらしいといえば、そうなんだけど。

23.6.06

日本の裏番組はオモロイ

日本とブラジル戦は後半20分くらいから、まったりモードに入ってしまった。前半は緊迫感あって面白かったけどね。まあ、前の試合まで不調だったデブにロスタイムに決められたんじゃあ、フツー立ち直れないわな。フレッジ様の登場もなさげだったし。そこで、裏番組のオーストラリア対クロアチア戦を見ることにした。

んで、これが異様にオモロイ。四年前の日本対チュニジアの裏番組、ロシア対ベルギーも、個人的には大会ベスト・ゲームの一つだった(ほとんど誰も見てないので、話が合う人がいない)。まあ、勝利でグループ抜けがかかる試合だけに、ガチンコになってしまっただけともいえるけど。

一点ビハインドのオーストラリア、ヒディングが相も変わらずディフェンスをアタッカーに代える交代を繰り返しまくって、最後は5トップというとんでもない布陣にするかと思えば、クロアチアにもストライカーになってしまったトゥドールに絶好のチャンスが訪れるは、乱れまくりの肉弾戦、両チームのセンターバックが退場になり、しかも二枚イエローもらってるのに審判が退場させるのを忘れてプレーを続けているクロアチアのシムニッチは(彼がゴールを決めたらどうなったんだろうとドキドキした)終了間際に三枚目のイエローを貰ってしまうは、最後は中盤省略のロングボール合戦になってしまうは、で妙にアツい試合に目が潤んでしまったのでありました。

これで負けてしまったクロアチアのショックは日本よりも大きいだろうな。日本戦も勝てたと思ってたろうし。でも、最終戦でここまで、ハチャメチャ、ガチンコでやってくれれば、負けてもスッキリしたのかもしれん。

したたかに満足して(本当はクロアチアに勝って欲しかったけど)、チャンネルをもとに戻すと、中田ヒデがピッチの上でほろほろと泣いておる。中田中心のチームが作れていたら、すべてが円滑だったろうに。などと思うと少し悲しくなる。

22.6.06

報道できぬもの

都合の悪いことは報道しないのは、北朝鮮ならずとも世界共通なんだが、日本のメディアはいったい何を報道しないのか。今回のようなワールドカップを見ていると、それがよくわかちゃったりしますわな。

フランス—韓国戦の、フランスのまぼろしのゴールは、あからさまにゴール・ラインを割っていたし、ブラジル—オーストラリア戦の、ロナウジーニョからロナウドに渡ったパス(そのあとにアドリアーノに渡り、ブラジルの一点目につながる)はオフサイドだった。こういう誤審はよくあるもんじゃいな。むろん、映像で見ないと、正しい判定ができないこともある。しかし、日本のメディアで、これを「審判の誤り」と報道したところはないんですよなあ。そう、この国では、「審判は間違えないもの」として定義されているらしいのだ。

それはJリーグの中継を見てもわかる。海外のメディアが、ハンドやオフサイドの疑惑シーンを徹底的、ときにはイヤミったらしく繰り返し流すのに比べ、日本の放送局が撮影、中継したものは、ほとんどこれに触れない。せいぜい「微妙な判定でしたね。ヌホホ」と流す程度。そこには、審判が判定したものは絶対で、それが表向きは間違ってはいけないという不文律があるようにも思えてくる。それは、一神教の文化を生半可のままに輸入した明治以来の伝統かもしれぬ。

審判も人間だから間違う。そのような間違いがあるから、サッカーという競技はけっこう面白くなる。たとえ試合に負けても、「オレだのチームが弱ぐないべ。あのクソ審判のしぇいだべず」と責任をなすりつけることもできる。こんなふうにして、完全なる強者、完全なる弱者を作らないところが、いかにもリアルに出来ている(そして、リアルすぎるので、夢見るアメリカ人にはサッカーが人気がない)。

そいえば、4年前のワールドカップでも、誤審が連続して起こったが、メディアはFIFAが「誤審がありました」と認めるまで、一切それを報道しなかった。映像を見れば誰にもわかることをあえて無視したっちゅうわけ。これは日本のメディアの体質だろうねえ。つまり、日本の報道は、明治以来、上意下達が基本だということ。お上が発表したものを、そのまま報道するだけの機関がマスコミってこと。

極論するなら、目の前で家が豪勢に燃えていても、消防庁の発表があるまでは、それを火事とは報道できない、みたいなもん。だから、日本の新聞もテレビもどれをとってもみな同じ。記者クラブ発のネタばかり。でも、新聞の原稿料は高いから、オレだって新聞の悪口は言わない。言うわけがない。うんうん、みんな同じですばらしいじゃないかあ(絶賛)。

あとは、電通などの、大手広告代理店が絡んだネタはあまり報道されないわな。今回のワールドカップで、日本のグループリーグの二試合が15時開始だったのは、抽選でもなんでもなく、日本での視聴率を稼ぐために、電通が仕組んだことらしい。だから、ジーコが 「暑っついなかで再び試合をすることになったのは、まさに犯罪」と記者会見で不満を述べても、 それが日本のメディアに乗ることは、まずない。

18.6.06

決してクロアチアの姉ちゃんのためではなく。


四年前のワールドカップの期間中は、スカパーですべての試合を生中継してくれていたから、地上波を見ずに済んだ。たまたま付けたNHKで、堀尾アナがバカなことを言っていたので、これを見続けるのはツラいなと思った。

今回スカパーはすべて翌日の録画放送なので、リアルタイムで見るには地上波を見る必要が出てきた。これがまた、ひどいんですね。四年前のワールドカップ期間中、トルシエ監督が日本代表にスカパー以外のテレビを見ることを禁じたことを思い出しちまう。

すべてを陳腐な物語に変換するのは仕方ないにしても、有名人やサッカー関係者がテキトーな戦術を語ったりする。ほぼ2ちゃんねる状態。これはトルシエじゃなくても、禁止したくなるわけだ。そんなアホの戯言を耳に入れても、まったく影響されないのが理想なのだが、それだけ成熟していない社会なのが実状なのだ(ネット掲示板の書き込み一つで警察が動く国だし)。ちなみに、そんなトルシエも今年は地上波で活躍中だったりするのが、またおかしいのではあるけれども。

試合の実況や解説も、ふだん海外のリーグ戦などチェックしていない連中ばかりだから、選手の名前一つ発音するのに愛情がまるでない。しかも、これまでのイメージの範疇だけで語ろうとする。この業界も志鳥栄八郎先生ばかりなのか。そろそろ「ゲルマン魂」とか「無敵艦隊」とか言葉を使ったら、罰金ものにすべきじゃあないか。

毎度のようにヨーロッパ、ヨーロッパと言うのはいいかげんバカっぽくてイヤなのだが、サッカーに関しては、さすがに向こうのテレビは違う。ドイツのZDFでは、試合が終わって30分後にキーパーから見える位置を3Gで再現していたり、かなりマニアックな内容だった。イタリアでは、国内リーグ戦終了後のゴールデンタイムに、試合内容について討論し、そこに当事者の監督や選手などが電話で参加するなどという番組を日常的にやっていた。日本では考えられるか? 土曜日のゴールデンタイムに、「Jリーグ・アワー」なんて放送できる環境ではないだろ。

もちろん、RTLなどの軽い番組では、ワールドカップでの売春婦の活躍や風俗店の健闘を紹介したり、外国人サポーターにドイツ国歌を歌わせたり、ブラジル人サポをいじりたおすアホ企画などもてんこ盛りなのだが、これはこれでコントラストがはっきりしてていい。要は、試合内容と、その他のものを分けて考えてくれということだ。

だいたいサッカーなんて、みんなそんなに興味あったんかいな。「負けられない一戦がある」なんて陳腐に煽られると、「じゃあ、負けてしまえ」などとわたしは思う性格なので、今日は堂々とクロアチアを応援することにする。前回の試合を見て、ジーコどころか川渕体制ではまるでダメだということがハッキリしたので。どーんと行け行け、ニコ・コバチ。憎々しげにヘッドで決めろプルショ。でも、小笠原には活躍して欲しいかな。

などと言いつつも、「日露戦争とか大東亜戦争の前夜は、メディアも世論もこんなふうに騒いでいたんだろうなあ」ということを擬似体験するには、ワールドカップは最適なのである。なにしろ戦死も爆撃もなく、その気分だけ味わえるのだから。ならば、永井荷風のように一切を黙殺する手もあるかもしれないが、小人物のわたくしにはそれができないだけなのである。

(写真はウィーンの街角で、試合後負けたのにも関らず、奇声を挙げていたセルビア・モンテネグロのサポーター)

6.6.06

百姓ぶるう。


街中にサムライ・ブルー2006っていうフラッグが目立ってきている(写真は、茗荷谷のカイザースラウテルン広場にて)。何かというと、日本は「サムライ」だ。でも、これって違和感バリバリなんすよね。

だいたい、今の代表が「サムライ」ではまずいんじゃないの? 「侍」は「さぶらい」、つまり主君に仕える身分のものを指す言葉だ。自分のことは何も決められず、すべては規範と主君の命令によって動く人々のことである。トルシエ時代だったらともかく、ジーコになって、「主体的に動こう」とモットーのもとにチーム作りをしてきたのに、これじゃあねえ。

やっぱり、ここは「サムライ」じゃのうて、「ヒャクショウ・ブルー」で行かなきゃならんでしょ。もちろん、百姓とは、農作業に専従する人々を指すのではなく、語義のとおり「百の姓」、さまざまな職業の庶民を表わす言葉だ(網野史学っぽく言えば)。つまり、色々な職能を持った人々が、さまざまなやり方で、一つのチームを作るっていう、ジーコの方法論にバッチリ適合してるんじゃないかい。しかも、百姓は、手段を選ばぬ力強さがある(生来、百姓はマリーシアなのである!)。体裁つくろうために「オレ腹切るわ」って散っていく侍では、長いワールドカップを闘うには、ちいと不安が残るんである。人間としては、こっちのほうが多少は信用がおけるけどな。

17.4.06

ユルさの美学

もうそろそろ次号が出る頃だが、「レコード芸術」の4月号をまだほとんど目を通してないのに気づいた。目を惹くのは、やはり吉田秀和の連載が久々に復帰していることか。
さすがに高齢を極め、文面から緊迫感が薄れたかというか、とにかくユルい。何か一つのテーマで深く突っ込むのではなく、新旧の録音を並べ立て、まさに走馬燈のような批評だ。

いきなり、論語の引用から入るところなんざ、まるで田舎の校長先生の「朝の訓話」のノリ。これまでの吉田秀和ならば、そのイモっぽさが恥ずかしくて絶対やらなかったようなユルさなのだ。

読み進めると、アレ、そうだったっけ?という記述も目に付く。
1968年のバイロイト音楽祭で、ブーレーズとシェローによる、という記述があるが、シェローがバイロイトに呼ばれたのは百年祭のあった70年代後半ではなかったかしら。

思い違いをしているのだ。もちろん、批評では「思考の筋道」がいの一番に問われるのだから、事実誤認なんぞ二の次以下。それどころか、事実を誤って捉えていることからこそ見えてくる「筋道」がある。批評の面白さはそこにある。

「新潮」2月号の小島信夫の「残光」も、あまりにものユルさにこちらのアタマが溶けかけたが、あっちは小説、こっちは批評。ユルい批評って、何かソソるんだよねえ。ガキにはやりたくっても真似できねえぜ。

最近、フリーペーパーの「チケット・クラシック」が届くと、最初に黒田恭一の連載を読むのが楽しみになってきている。従来の「当たり障りのないことばかりスマートに書く」という黒田節が、「スマートながらも、チクチク文句を垂れる」方向へぐっと傾いてきたからだ。しかも、音楽業界相手への苦言が多い。これも、高齢を極めたおかげで、少々我慢が足りなくなったきたおかげかもしれない。これまで、書きたいことをグッとこらえていたのかなあと思うと、少しばかしじーんときた。

9.4.06

なんでもポルノ

「児童ポルノが違法でない」国は138カ国
児童ポルノ所持が犯罪にならない国は138カ国、ネット児童ポルノを取り締まる法律がない国は122カ国——4月6日に公表された調査報告書により明らかになった。

「現時点では、各国の法律は憂慮すべきほど不十分だ。これは許されない。各国首脳は今こそ行動を起こすべきだ。われわれは彼らと協力してこの痛ましい問題を根絶することに全力を注いでいる」とICMECのバロン・ダニエル・カルドン・デ・レクチャー会長は発表文で述べている。

児童ポルノが違法と定めていない国の多くは、法意識が低いのではなく、単に児童ポルノというメディアがないだけである。
つまり、クソガキのハダカなんか見ても誰も興奮しませんわな、そんなアホどこにいるんですか、というわけである。

日本でただの「ガキのハダカ」が「ポルノ」に認識上で昇格したのは、一つは宮崎勤の功績があった。「おお、あんなものでもイケるのか」と少なくない人が感化されてしまったわけである。もちろん、日本には稚児の文化もあったが、これはこの問題と直接リンクさせるにはちょっと議論を有する(いつかやってみたいと思っているけど)。

極論すりゃ、牛のハダカを見ても、あるいは火葬場の煙突を見てもムラムラさせちゃうことは、必ずしも不可能ではない。こうなると、牛ポルノ問題、火葬場の煙突ポルノ法だって出来てしまうわけだ。

記事を読むと、法整備のない国はこれからしっかりせにゃいかんぜよ、という主旨のようだ。つまり、児童ポルノというメディアを普及させろ、というわけである。もちろん、法整備の遅れた国から多量の児童ポルノ(とポルノ先進国が見なしているもの)が流出していることが問題なんだろうけれども。

これらの関係者の熱意によって、あと何年もすれば、世界中各地でガキのハダカに興奮することがスタンダードになるに違いない。興奮するものがたくさんあることは、いいことだ(ということにしておこうか。たまには無難にまとめてみた)。

17.3.06

「少年は重い刑に」が25%

「少年は重い刑に」が25% 最高裁司法研修所が調査
殺人事件の被告が少年だった場合、市民の4人に1人が「成人よりも刑を重くするべきだ」と考えている−。最高裁の司法研修所は15日、市民と裁判官を対象に実施した量刑意識に関するアンケート結果を発表、判断のポイントによっては両者に大きな隔たりがあることが明らかになった。

なあんか、すごいことになってないか。こんな調子じゃ将来の裁判員制度はかなりヤバくないか。成人よりも少年のほうが重い刑罰を与えなければならぬと考える人って、いかなる法哲学に基づいてそう主張してるんでちゅかね(人間は血筋だけが重要にして、環境とか教育とか更正などは意味がない、という思想でちゅか??)。

だいたい、国内の少年犯罪などというものは年々減少傾向にあるのだし、「未成人は勢い余って殺人を犯す率が高い」のが万国共通なのに日本だけはそれが極端に少なく(宮崎学「殺人率」などの統計を参照)、他国から気味悪がられているくらいなのにな。

ただ、未成年の「動機なき」犯罪みたいのが、マスコミによってクローズアップされ、「なんだか怖いね」という風潮を生んでいるのは確かなんだろうね。「動機なき」というのは、そんなふうに思った人のアタマが悪いから。穏当にいえば、自分のアタマで考えようとすることを放棄してるから。それだけじゃんか。「あの世代はワケわかんない」などという、くだらない俗流世代論に踊らされて、「怖い怖い」と言っている人々がいることが、マジ怖い怖いでやんす。

16.3.06

winnyで世界平和

小泉首相もウィニー不使用呼び掛け
ウィニーに衝撃、芸能界困惑…住所、電話番号流出

すべての人民に感染されたwinny搭載のパソコンを!!
すべての情報を共有することによって、人々は平等になる
どうせ、みんな大した情報持ってないんだし
(それを秘匿することによって、価値が生まれているようなもんだ。いや、価値を生み出すために隠しているだけにすぎない)