図書館からビデオを借りてきて、映画「砂の女」を見ちまう。監督が勅使河原宏、武満徹が音楽を担当した、名作映画だ。岸田今日子の田舎くさい官能性もハマってる。安部公房の原作に忠実で、映画ならではの突飛な結末などはないものの、久々にこういうテイストの作品に接して、色々と考えさせられたもんだ。
最近、安部公房を読んでいる人が少ないような気がどこかでしていた。わたしが大学に入ったとき、「オレはコーボー・アベの研究をするんだ」と言っているヤツがいた。しかし、こういう学生は今はいないような気がする。映画を見てこの理由が、なんとなくわかった。
あらすじを書いておく。砂浜へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底の一軒家に閉じこめられる。そこには女が一人で住んでいて、家と村を守るため、脱出しようとする彼を引き留める。彼は脱出に失敗、失意を味わいながらも砂穴の生活を続ける。しかし、その生活に慣れていくうちに、新たな日常のヨロコビを発見し、「逃げるのはいつでもできるさ」と、 訪れた千載一遇の逃げるチャンスを自ら退ける。
女や村が男を砂穴から外に出さず、そこに同化させようという恐怖感は、この小説を初めて読んだ15年前には、わたしにとってまだまだアクチュアルであった(ムラに収束されること、家庭に組み込まれることに対して、今でも恐ろしさを感じちゃちゃうんですな)。だから、最後に主人公の「このまま、砂のなかで暮らしてもいいや」との開き直りには、まさに「敗北」という感想を持ったものだ。
しかし、今の世の中全体では、わたしが覚えたような恐怖が希薄になってきているように思える。砂穴でのまったりした幽閉生活が、面倒な「外」に出るよりも気楽になっている風潮が高まっているのではないか。因習で固められた単調な日常のほうが、モノゴトを深く考えずに済むし、人々はそちらのほうを「安定」という言葉に託して嘱望しているように思われる。これじゃあ、「砂の女」の意図した恐怖感がまるで伝わらねえ。安部公房がサスペンスあふれる筆致で描こうと、武満徹が恐ろしげな音楽をつけようと、今を生きている人たちは、「なんで、それが怖いの?」と思ってしまうだろう。
「敗北」することによって、明るい未来が待ってるんだわさ、という考えには同意する。でも、そのこと自体が「敗北」とも思われないことが、あたいにはちと怖いのさ。