オウム真理教の説法集は宗教上の「経典」とは認めない——。そんな刑務所の判断に、服役中の元幹部が異議を唱えている。受刑者は通常、一般図書3冊に加え、宗教の経典や辞典などを別枠で持ち込める。だが、刑務所側は「オウムは宗教法人ではない」との理由で説法集を経典と認めていない。元幹部は「法人格の有無で差別するのは憲法違反だ」として、国に100万円の慰謝料などを求める訴訟を東京地裁に起こした。
法人であるのか、そうでないのかによって、宗教であるかどうかが決められる。
まあ、明らかにおかしいのだけれど、お役所にとっては宗教かそうでないものに明確に線引きしなくちゃ、面倒でやってらんねえってことなんだろうな。そうでもしなきゃ、「完全自殺マニュアル」だの「アンチ・オイディプス」だの「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」だの、「これは自分にとって経典だもん」と言って何冊も本を持ち込みされかねん。刑務所が本だらけになってしまいかねない。
そういえば、オウム真理教が数々の事件を起こしたとき、「人を殺すオウム真理教は、宗教なんかじゃありません」なんて発言している人をよくテレビなどで見かけたものだ。ったく、この人は宗教を何だと思ってるんだろ、と若かりしころのわたくしは結構ムカついたものだ。人の心を落ち着かせるだとか、清掃作業などのボランティアしてますだとか、そういう無害そうなものだけを宗教と呼ぼうとする風潮は何とかならんかねと。
宗教とは、過激なもんじゃなくてはいかん。少なくても世俗の通念に反抗するものじゃなくちゃ、と思うのだが、最近ではそうではなくなってしまった。最初はキリスト教も仏教も、既製の認識を変えるという目的で興された、かなりヤバいものだったのにさ。
社会と宗教とは、当初は相容れないものだったのだけれど、だんだんと宗教が社会に適合していく歴史が、宗教史ってわけなんだろうな。もちろん、そうなったものはもう宗教ではなくなって、抜け殻みたいなもんなんだが。
オウム真理教がクローズアップされたとき、こいつは思いっきし宗教くせえのが現れたぞ、とわたしは興奮したものだが、ヤツらはあまりにもバカ正直に宗教路線を邁進してしまった。「人を殺してもオッケー」なんて調子こいて息巻くのは、あまりにも正攻法すぎて、新味さえない。世俗が力を持ちすぎている世界では、まったく愚かだ。何ら影響力を発揮せずに、みっともねえ集団で終わっちまうだけだ。
もっとチクチクと嫌らしく認識を変えていくような宗教が静々と現れないもんか。それまで、わたしくは大人しく正法眼蔵(ATOKは「消防現像」なんて変換しやがる。相変わらずバカですなあ)でも読んでることにすっべ。
もちろん、この「宗教」という言葉、そっくりそのまま「芸術」と読み替えてもいいわけで。