4.5.13

コンヴィチュニー演出《マクベス》(二期会オペラ公演)についてのメモ書き。

ペーター・コンヴィチュニーがヴェルディの《マクベス》を演出すると聞き、最初にわたしが考えたのは、このようなことだった。

(1)マクベスとマクベス夫人の殺人をしなければいけない心理状態をかなり生々しくクローズアップしてくれるのではないか。とくに、マクベス夫人を単なる悪女扱いすることはないはず。たとえば、原作のシェークスピア作品のモトネタにもなった、ホリンシェッドの「年代記」に記されているような史実を生かしてくるのではないか(マクベス夫人の前夫はダンカン王の祖父に殺されていて、彼女自身も王家の系統であり、その権力奪取には理由がまったくないわけではないなど)。

(2)《マクベス》は「男らしさ」といったジェンダー的な問題を強く含んだ作品なので、これに注目しないわけにはいかないだろう。マクベスは、夫人から「男はかくあらねばならぬ」という思想を執拗に吹き込まれており、その虚ろさを暴き、そのようなシステムが働く社会を徹底して揶揄してくるのではないか。


2012年1月に、ライプツィヒでわたしはこの演出を初めて見た。
すべては「魔女」の仕業で起こされた悲劇であり、それは悲劇というより喜劇というほかないほどの軽やかさに溢れた舞台だった。

そこには、(1)でわたしが予測したような生々しい心理描写が入ってくる余地はまるでないのだった。登場人物の心理に深入りしてしまうコンヴィチュニーらしさがあまり感じられない演出であったことは確かである。機知に富んだ舞台を楽しんだのだけれど、自分としてはイマイチ消化不良のまま、「また来年日本で見て考えることにすんべさ。まずはビール、ビール」と劇場を後にしてビアホールに駆け込んだのだったよ。

今年五月、東京二期会が同じ演出でこのオペラを上演した。
ライプツィヒと大きな演出と大きな違いはない。そして、さすがに二度目となると、色々なことに合点が行ったのだった。

なぜ、このオペラはこんなに「軽やか」なのか(「矮小化」していると言った人もいた)。
それは、ヴェルディの音楽がそうだからだ。このオペラでは、やたらに人が死ぬ。しかし、その死に際しての音楽は決して重々しくはないのだ。妙にコミカル。だから、魔女が掃除機を使って、赤い紙吹雪を飛ばして死を表わす演出がまったくふさわしい。喜々として黒板(デス・ボード)に死の数を書き込む仕草が生きるのだ。

では、なぜヴェルディは、こんな陰々滅々としたストーリーに軽妙な音楽を付けたのだろう。
ヴェルディがシェイクスピア作品を原作としたオペラは三作ある。《オテロ》と《ファルスタッフ》は後期作品で、いわゆるイタリア・オペラの主流を超えた域に達している。《オテロ》はその強靱なドラマ性で、《ファルスタッフ》は後にR.シュトラウスがモーツァルトを回顧した楽劇のような不思議な浮遊感がある。
しかし、《マクベス》だけは、イタリア・オペラの範疇にずっぽりと収まっている。

シェイクスピアとイタリア・オペラの相性はあまり良くないとわたしは思う。
重層的に言葉が重ねられていくシェイクスピアと、レチタティーヴォからアリアに至る流れで時間が拡大していくイタリア・オペラ。シニカルな言葉のやり取りが魅力の前者、言葉を感情に溶解させていくのが得意な後者。
(歌劇《マクベス》には、原作では決め台詞となっている部分があまり採用されていない。たとえば、マクベスが夫人が死んだあとの台詞「人生は歩く影法師!哀れな役者だ」の部分は、オペラではただ一言「何の意味もない」とかなり簡略化されている)

ヴェルディは、このシェイクスピアの世界を損なうことなく、オペラとして完成させるために、あえて過度な重々しさを避けたのではないだろうか。原作のシニカルさを言葉ではなく、音楽で示そうと考えたのではないか。

ならば、第4幕の幕切れの合唱で、コンヴィチュニーが最後まで合唱で歌わせず、魔女の用意したラジオから流れる音でその音楽を代用させた理由もよくわかるはずだ。

その前に、このオペラの版についても触れておきたい。《マクベス》には、二つの初稿がある。
1847年、フィレンツェで初演されたオリジナル版。
1865年、パリで初演されたパリ版(フランス語)。
現在の上演は、パリ版から新たに挿入されたバレエを取り除き、イタリア語歌唱によるものが主流である(現行版といっていいだろう)。今回の二期会もこの現行版を使っている(というか、初稿上演は滅多に行われていないのではないか?)。
フィレンツェのオリジナル版と現行版の大きな違いは、その第4幕の幕切れである。現行版では、マクベスを倒したマルコムとその一味が高らかに勝利を歌い上げて終わる。いわゆる、勝利の合唱だ。これは、パリ版によって初めて書かれたフィナーレで、バレエ同様、フランスの聴衆を喜ばせるための慣習的なサーヴィスだ。観客は大きな音で締めくくられて、気持ち良く帰りたいものだからね。
オリジナル版では、ここには勝利の合唱はない。死に際のマクベスのモノローグ、合唱の短い応答で幕が下りる。《トロヴァトーレ》や《トラヴィアータ》のような他のヴェルディ作品と共通した、「ああ、悲しいことだ!」といった終わり方である。

コンヴィチュニーは、このオペラの最後を「勝利の合唱」で締めくくりたくはなかったのだと思う。そして、それがヴェルディの真意であったと。
政敵が政敵を殺し、勝利の合唱で終わるというのは、あまりにも皮相だ。その皮相さが、シェイクスピアの世界と通じるものがあるとしても、決してヴェルディの考えには合致しなかったと彼は考えたんじゃないか。だから、演出家はここで「勝利の合唱」を脱臼させるという試みに出たわけだ。

並、あるいは並の上くらいの演出家であれば、ここでは「勝利の合唱」を高らかに奏で、観客の耳を喜ばせつつ、舞台上で一つ二つの不穏な視覚効果を与えることで、「ま、めでたく勝利なんだけども、また別なヤツにコイツも殺されるんだよねえ。ああ虚しいことよ」みたいなメッセージをやんわりと伝えようとするだろう。実際には、何もやってくれないバカ演出が多いのだけどね。

しかし、コンヴィチュニーは徹底的にやる演出家だ。東ドイツのメンタリティほとばしる、悲劇的なほどに大真面目な考えの持ち主なのである。こういった人はやんわりと伝えるようなアダルトな心意気は持ち合わせていない。とにかくメッセージはスレトートにといった信念が、挑発的な方法を呼ぶ。
最初から現行版ではなく、オリジナル版を使ったほうが良かったんじゃないか、という意見もあるかもしれない。でも、コンヴィチュニーは現行版を使うことで、この挑発が意味を持つ(メッセージとして伝わる)ことを意図したんじゃないかな。

ヴェルディは、このオペラにシェイクスピア原作にないシーンを書き加えている。第3幕の民衆の合唱「虐げられた祖国」だ。
コンヴィチュニー演出は、舞台では倒れていた人々が次々に起き上がって、棒立ちになって歌い、そのあいだ客席には照明が点灯される。棒立ち状態で歌い手が歌い(これは彼の演出では稀である)、客電が付くのは、これはほとんどコンヴィチュニーのクリシェといっていいほどの演出の一つになりつつある。その意味は、「もう舞台も客席も区別はない。これは現実に起きていることなのだから。だから、歌い手は、客に向かって直接メッセージを伝える」ということだ。
ここで歌われているのは、荒廃した国土を悼む言葉だ。これが現在の日本であれば、わたしたちは、そこに震災や福島、そして国民に抑圧を強いつつある政治状態についてのメッセージとして受け取らなければならないのだろう。
(わたしは、ライプツィヒでも東京でも、舞台かじり付きの席だったので、客電が付いているのを知ったのは幕の途中だった。《神々の黄昏》では急に電気が付いて観客を驚かせたのだけど、この作品ではゆっくりと照度を増していく方式だったという)

また、このオペラの現行版には、フィレンツェ版とパリ版という20年近く離れた様式が同居しているため、音楽においてもいくつかの齟齬もある(初期のブンチャッチャ節と中期のドラマ性強い音楽の両方が聴こえる)。そして、コミカルさとシリアスさの不自然な化粧直し。
良くも悪くも、このバラバラな感じが、おそらく《マクベス》の魅力なのだろう。そして、コンヴィチュニーはそれに忠実なまでの演出を行った。それだけだ。

わたしも、第3幕「虐げられた祖国」で客電を灯してまでメッセージを伝えるのは、ちょっとやりすぎじゃないか、こういうことはとっておきの場面でやんなきゃもったいないでしょ、と最初思ったのだけど、今は考えが少し変わった。
わざわざヴェルディが書き足した原作にないシーン。ヴェルディがもっとも言いたかったメッセージーーこのシーンを演出家はもっとも重要だと考えたのだ。そう思うと、このバラバラなオペラにうっすらと統一感が出てくる。最後の「勝利の合唱」の脱臼の意味が(アタマではなく)身に感じられるようになる。

わたしが最初に予想していた(1)の「心理を抉る演出」は、このオペラではやれないのだ。だって、ヴェルディの音楽がそのようなことを語ってないから。
では、(2)の「ジェンダー問題」はどうか。

これは巧妙に実現されていたといっていい。
すべての出来事に絡んでくる魔女をどう考えるかだ。これは「抑圧された女性」の怨念か。征服と殺戮が繰り返されるだけの男性原理社会へのジハードか。

いや、それほどまでにドロドロした怨嗟じゃないよね。
すべてはキッチンで鳴らされるラジオからに軽やかに響いてくる凱歌にすぎないのだから。