道が暗いのである。
象徴的な意味ではなく、物理的に駅からの帰り道が真っ暗なのだ。街灯も少なく、いや「街」じゃないんだから、そんなものは最小限しかないのは当たり前なのだが……。。先日も、電車のなかで、人が読んでいた新聞を覗き込むと、「今晩は双子座流星群がもっとも多く見られますぜ」などということが記されており、東京に住んでいた頃は、「どうせ見られないし。関係ないし」みたいな心意気だったのだけれど、今ならば、「ほほう。家までの帰途にちょっくら見てみっか」などという気持ちになってしまうくらい、帰り道が暗いのである。
そして、実際、駅に下りると、星がずわーっと見える。早速、双子座の位置を確認すると、なんと天頂付近ではないか。これでは歩きながら見るには首が痛くなる。痛くなるくらいなら良いものの、下手すると雨続きで流れが抜群な側溝だのに落ちて、星と一緒にわたしも流される状況になって、ひじょうに危険なのである。
視線が空と前方の両方を捉えるように腰を落として歩くことにする。こんな妙チクリンな格好で歩けば、東京ならば「即、不審人物発見」ということになるのだろうが(まあ、こういう取られ方をされるのは慣れているけど)、こちらでは安心である。深夜に歩いている人などおらぬからである。立ち止まるなり、家に帰って落ち着いて空を見上げればいい、という正統な意見もあるが、やはりここは歩きながら流れる星を見る、という感興を優先したい。歩きながら食べるアイスクリームみたいにさ。
新聞の仰せの通り、星がひゅんひゅん流れている。一度、辺りが明るくなるくらい、どでかいのが流れ、ひょおおと思う。今そんなことを言う奴がいるかわからないけど、昔は「流れ星に向かって願い事を唱えると叶う」なんてことがよく言われていたものだが、果たしてそんなことをすることが可能なのだろうか。星が線を描く一瞬のあいだに心中に響くのは「ひょおお」とか「うほほ」みたいに言葉にならないものばかりで、間違っても「志望校に入れますように」とか「ナントカ君と結婚できますように」とか「お父さんの借金が早く返せますように」みたいな文言が閃くことはまるでない。「腹減ったな」ぐらいのツブヤキぐらいが関の山。
これは、ある拍子に願い事が出てしまうほど、強く思っていれば叶う、ぐらいの意味なのであろう。そういう思いが心のなかで常時起動している、という状態が好ましいということでもある。。だとすれば、わたしの心のなかでは、「ひょおお」とか「うほほ」、せいぜい「腹減ったな」という言葉程度を紡ぎ出す思いしか常駐していないことになり、みみっちいな俺、などと星空の下でたそがれてしまったわけである。